ベイルクーズ・ウォート
今私はかつてない程に疲れ果てている。それはここ最近、食事の時間すら惜しく感じる程多忙であるからに他ならない。
毎日の学業に、自習とアルバイトですら精一杯だと思っていた筈が、自らが進んで願ったとはいえそこに戦闘訓練が紛れ込んで来たのだから、もはや私の処理能力の限界を超えているのは疑い様がなかった。
早朝、眠い瞼を擦りながら起床し、何故か私だけの為に特別に仕切られた戦闘魔術師の訓練場で瞑想魔術の訓練を行う。また肉体鍛練の為、ランニングや筋力トレーニングも平行して行う。
そうしてヘトヘトになった私はシャワーを浴びて朝食を取った後、研究科で授業を受ける。眠気と格闘しつつ授業を消化し、その日にアルバイトがあるなら先生の骨董屋へ。なければ再び戦闘魔術師の訓練場に向かう。夜が近づけば素直に寮に戻り、研究科の授業を自習。もはやベッドに戻る事なく、気がつけば机の上に沈んでいた、というのも幾度もあった。
そんな生活を続けていれば、食事の時間ですら惜しんで眠りたくなるというのも、当然の事かもしれない。
「ね、ねぇマリー。そのままだとスープで顔洗う事になるよ……?」
「はっ……?」
だから私が朝食をとっている時に、一瞬意識を失ってしまうのも仕方がないのだ。
エミリアの呼び掛けに意識を取り戻し、瞼を開くと、ほんの数センチ先に小麦色の液体が私を待ち受けていた。
「おのれスープめ……、水分の分際で……、私の顔をおいしく彩ろうなど十年早い……」
「マ、マリー、寝ぼけてる?」
「寝ぼけてませんよ……。戦ってるんですよ……」
「寝ぼけてるね……」
何と戦ってるんだよ、とエミリアの声が聞こえた。
「最近疲れてるね、大丈夫?」
漸く意識が外に向き、俯き加減の顔を上げる。
「大丈夫!」
「いや、目の下に隈こしらえて言う台詞じゃないから」
この子は相変わらずうたぐり深い性格をしている。気がつけばちょっとノートの字がミミズみたいになってたり、向かった覚えのない場所を歩いていたり、制服のままベッドに寝ていたりするだけだ。
「いや大丈夫!」
そう、ちょっと疲れているだけさ。
「到底そうは見えないんだけどな……」
エミリアの呟きは、浮き沈みの激しくなった私の耳には届かなかった。
メレトン魔術学校は、大きく三つの敷地に分けられていた。
一つは校舎区画。各科の校舎はここにあり、五角形を形作るように配置され、その中央には職員が利用する職員棟がある。また各校舎にも職員室が別に用意されていたりもする。
各科の校舎同士は直接繋がってはおらず、職員棟を囲む様に作られたリング状の渡り廊下を通って行き来する事になる。
先日私が襲われた場所は、校舎からこの環状廊に繋がる部分だ。
そして二つ目が学生寮区画。生徒は毎日、ここから校舎区画まで徒歩で通学する。
学生寮は科別で建物が分かれてはいない。一応は部屋番号で区分けされてはいるものの、隣が別科の生徒だという事も有り得る。
寮暮らしを希望した生徒は全員がここに住むことになり、各室内にトイレ、風呂はあるもののキッチンはなく、食事を得る為には食堂を利用しなければならない。元々全寮制という訳でもない為、自宅から通える者、街で部屋を借りれる者、家ごと買い取ってしまう者など様々だ。とはいえ、それでも寮生は四桁に至る程で、寮内の各施設は相当に大きな規模になっていた。
そして三つ目が訓練区画。軍属科が主に訓練に使用する事でこの名前がついたが、ここにあるのは訓練所のみでなく、他科が使用する為の運動場、大きな自然公園の他、学校が保有する人の手が入っていない広大な山林地帯や森林地帯などがある。建物は少なく、軍属科に関連する場所以外は許可申請を必要としない。三区画では最も広く、保有地を含めばなんと国土の4%に及ぶ。
この三つの区画が、校舎区画と学生寮区画を下にした三角形で配置され、基本的に外部の人間の出入りは校舎区画から行う。しかし学校全体に囲いなどはなく、その気になれば出入りは自由だ。
朝食を終えた私とエミリアは、学生寮から校舎区画に繋がる幅広の遊歩道を歩いていた。
「ふわああぁぁぁぁ……」
華も恥じらう乙女にあるまじき、大口を開けた欠伸。勿論口元に手は当てている。取れない眠気は、私の我慢をあっさりと打ち破ってくれた。
「ほんと最近ずっと眠そうにしてるね。何かあったの?」
「ん〜、何も? 強いて言うなら、己の未熟さと世界の理不尽さに抗ってるってところかな」
「意味わかんないよ……」
あの時の事を知る人間は、私の周囲には一人もいない。
学校の校舎や建物には、必ず紋様魔術が施されている。それは、本来の形に戻す作用を持つもの。魔力を通せば、細かい傷や染みなどは瞬く間に消えていく。元の形との差が大きければ比例して必要な魔力も大きくなるが、その魔力さえ用意できれば事実上如何なる傷も修復可能という事になる。勿論、紋様魔術自体が損傷してしまえば効力を失ってしまうが。
翌日に私がもう一度現場を見たときは、あれ程破壊された壁には傷一つなく、つまりはあの青年が修復したのだろう事は予想がついた。
青年は事を公にする気がないのは雰囲気から感じ取れたし、私自身も誰かにこの事を告げるつもりもない。そうなれば、あの事件は誰も知ることがないのは当然といえた。
今はあの場所に戻る為に自分を鍛えているが、気にならない訳がない。それは勿論、あの男と青年の正体だ。
この学校は、無関係な人間を強制的に排除する意識はあまりない。当然それは、悪意を持って侵入する者を含まず、害を為そうとするならば力によって排除する事も辞さない。侵入者を監視し、同行を見守って必要とあらば排除する。
だが、あの男は平然とあの場にいた。
監視と排除は、軍属科の教師が持ち回りで行い、その為あちらには腕の立つ人間が多い。あの日も誰かが宿直していた筈。
しかし、神具を持つ者となれば話は違う。もはやあれは、軍隊規模で対処しなければならない兵器であり、同じく神具を持つ者でなくては対抗出来ないと言っても過言ではない。
神具を持つからこそあの男は戦う事に躊躇しなかったというのはわかるが、だからこそあの青年も得体が知れない。
神具を持たない者が、個人であれを退けるなど本当に可能なのだろうか。今となっては少し朧げになってしまったあの時の光景は、実は夢ではなかったのかと疑いたくなる。
一部の隙もなくスーツに身を包み、黒髪から覗くあの鋭い視線。見上げる程の長身は、しかし華奢な雰囲気など微塵もない。むしろ僅かに露出する首元から推測するならば、激しい鍛練の積み重ねを窺わせた。一体、彼は何者だったのだろうか。
低くもなく、高くもない、凜とした声色が良く通る。あの口から紡がれる罵詈雑言を思い出すだけで、腹立たしさが今でも沸き上がるぐらいだ。
「あ、先生、おはようございます!」
「ああ、おはよう」
そうそう、丁度こんな感じの声で……。
「んなっ!?」
振り返った途端、私の中から眠気も疑問も吹き飛んだ。
それもその筈。今思い浮かべていたあの青年の姿が寸分違わず在り、私達の横を通り過ぎて行ったのだから。
「な、な、な……」
何故こいつがこんなところに。こいつはここで何をしている。
思うように口が回らず、陸に打ち上げれた魚の様に声も出せずにパクパクと動かす。
そんな私に一瞥を向ける事もなく、青年は確かな足取りで離れて行った。
「いやぁ、あの先生は相変わらず美形だねぇ。見る方もまさに眼福といったところ」
私はそんなホクホク顔でのたまうエミリアの肩を掴む。
「ねえ……、今の誰……?」
「ん? あの人は私達普通科の……、え、何、気になる? 知りたいの? 教えてほしいの?」
何を想像したのか、エミリアが実に嬉しそうな楽しそうな表情を浮かべる。
あぁ、この子また勘違いしたのね。しょうがない子だわ。でもねエミリア。今の私はあんまり優しくないわよ?
「ん〜、マリーってば意外と面食い? あ、でも意外って程でもないかな? やっぱりあれぐらいの美形じゃないとなびかないって事は、今まで恋も出来なかったのは頷けるかも。
よし、ここはエミリア先生がマリーの為に一肌……、ってマリー? 笑顔なのに何だか目つきが怖いよ? 後掴んだ手がジワジワと、痛っ、マ、マリーさんっ? 肩が痛いんですけど!? いたっ、いたいっ!?」
ミシミシとエミリアの肩を締め上げる。
こんなにも早く筋力トレーニングの効果が発揮出来るなんて、思ってもみなかったわ。
「エミリア?」
「ひ、ひゃい!?」
笑顔の私に怯えてか、締め上げる肩の痛みに耐え兼ねてか、涙で潤んだ瞳で震えるエミリア。
「無駄口を叩いてないでさっさと吐きなさい」
そんな彼女に、私は静かに告げた。
「こ、これで自分が知っている事は以上であります。サー!!」
エミリアが話し終え、最後にそう叫んで敬礼した。 彼女は普通科で、軍役経験もなかった筈だけど、それは見事な敬礼だった。
「ご苦労様。中々有益な情報だったわ」
「はっ、お役に立てて光栄であります! で、では、自分は任務がありますので」
「ええ、またね」
踵を返し、分岐している遊歩道を、私とは別の道を走って行った。うわーん、マリーの馬鹿ー! と叫んでいたのは、せめてもの反抗なのだろうか。
「なるほどね……」
エミリアから聞いた話で、青年に関する事がよくわかった。
名前はベイルクーズ・ウォート。24歳。
普通科の非常勤職員であり、主に魔術学を担当している。寡黙で常に冷静沈着。容姿も非常に整っており、乱れのない身嗜みは彼の性格を表している様。誰ひとりとして特別扱いはせず、冷たい印象を覚えるかもしれないが、同時に誰へも限りなく平等に接する事から、生徒達の評判は男女共に良い。さらに腕も立つ事で、人気に拍車をかけている。
以上が、エミリアが語ってくれた話の内容を整理したものだ。
「まさか普通科の教師だったなんて」
学校関係者だとは思っていたが、普通科とは予想もしなかった。
基本的に各科の教師は、割り振られた科以外に関わる事はない。科によって専門的な知識が必要になるという要因もあるが、何より生徒数の多さから管理しきれなくなるのが主な理由だ。
例外として普通科以外の教師が普通科で授業を代行する事はあるが、専門知識を持たない普通科教師では授業にならない為、普通科から他の科に出向く事はなかった。とはいえ、それも年に数回と稀な事なのだが。
その為教師も相当数に上り、全科全教員を知っている者は果たしているのだろうか。
あれ程高い戦闘能力を有するのだから、おそらくは外部から雇われ人か軍属科の人間だと思っていたのだが、軍属科の教師名簿にはそれらしき年齢の人物がいなかったので外部の人間の方に当たりをつけていた。が、まさか普通科だとは。正直、不適格もいいところ。
神具を相手に五体満足で戦えるともなれば、国軍ならば師団長職辺りが軽く授与される程。神具とはそれ程の価値があるのだ。
そんな人間が、一般教育から魔術への比重を高めただけでしかない普通科にいるなど、誰が思おう。まさに宝の持ち腐れでしかない。
「でも、こっちとしては好都合ね」
第三者に対する警戒が最も薄い普通科だ。調べ上げる上でこれ程やりやすい場所もない。
今の私では戦いにはまだ早い。それは自分でも痛感している。
けれど、やれる事は他にもまだあるのだ。