約束の時まで
目を覚ましたのは、自分の部屋の中だった。早朝の、朝日がまだその姿を現す前に、驚く程壮快に意識が覚醒する。
気持ちはとても落ち着いていた。何かに駆り立てられる様な焦燥感は形を潜め、心は清々しい程に晴れ渡っていた。
「夢、じゃないよね……」
夢を見た気がする。とても曖昧で、不鮮明な記憶。けれど、夢とするにはあまりにも温かい感触。
私は思わず唇をなぞる。
夢の中の少年と、またキスをしてしまった。先とは違う、触れ合うだけの優しい口づけ。感じた幸福は疑い様もない。
「夢じゃない……」
その時の事はほとんど覚えていない。ただ、最後の言葉だけは今でも耳に残る。
『また明日』
言葉だけの一方的な約束。誰からの保証もなく、約束であるとの確証もなく。
でも私は、そんなささやかな約束を、心の底から信じきっていた。
私を部屋まで運んだのは、あのベイルクーズで間違いないだろう。かつては命まで助けて貰って、更にはこうして気を失った自分を部屋まで運んで来てくれた、という事は乙女の部屋に勝手に入ったのかあのやろう。と恩を感じるべきか怒るべきか悩んでいたが、気を失う直前人を馬鹿娘呼ばわりした事を思い出して、帳消しにするのが無難だと勝手に納得しておく。
そうして精神的安寧を確保しつつ、制服に着替えて私は部屋を出た。
朝食を取るために食堂に向かった私だったが、何やら無数の視線を感じる。いつもとは違う、自意識過剰と言い訳も出来ない程にはっきりとした人の視線は、私の一挙一動を捉えては、グループを為す人集りの中で声を潜めた会話がなされていた。
そんな人を不快にさせる様な行動に疑問符を頭に浮かべながら、朝食が乗ったトレーを手に、空いているいつも座っている席に腰を下ろした。
メニューの一つであるコーンブレッドをかじると、丁度私の前の席にエミリアが現れる。
「やあお姫様。顔色も良くなっちゃってまあ。ウォート先生に抱き抱えられながらのご帰宅で、昨日は夢見心地だったかな?」
咀嚼していたコーンブレッドをエミリアに吹き掛けた。
「ぎゃーーー!? 汚いっ、何すんのさ!?」
せっかくの朝食を無駄にしてしまった。農家の方々、そしてパン職人の皆さんごめんなさい。でもエミリアには謝ってやらない。
「エミリア、あなたの知っている事を全部話なさい。私が笑っているうちに」
口を拭きつつ、言外に『てめーそのくだらねえ話を一体どっから聞いてきやがった』と含めて言う。
「言ってるそばから既に目が笑ってないよ!? っていうかもうその脅しには屈しないからね!」
そう言い返して視線を強めるエミリア。しかし精一杯の威嚇も、私からすれば震える小動物の最後の抵抗にも等しい。時と場合が違えばそれもまた微笑ましかったのかも知れないが、残念ながら今この時においては私の神経を逆撫でする行為でしかなかった。
「……」
「う……」
静かな睨み合いが続く。涼しげな私の表情とは対照的に、エミリアは苦しげに顔を歪ませていく。
「……」
「ううぅ……」
暑くもないのに汗を滲ませている。もう一押しといったところだろう。
私は微笑みを消し、目に込めた力を強めた。
「ご報告します、サー!」
あっさりと陥落するエミリアだった。
「はぁ……」
噂をエミリアに吐かせたものの、その内容の忌ま忌ましさにため息しか出ない。
ウォート先生が研究科の生徒を抱き抱え、寮の自室まで送り届けた。
話の大本はその程度でしかなかった。問題は、双方に付随する各々の特性の方にあった。
「だってね、あのウォート先生がわざわざ自分で部屋まで送り届けるなんて有り得ないもの。以前にも体調を崩した生徒はいたけど、『医務室は向こうだ』しか言わなかったんだから。それをアナタ、お姫様抱っこして部屋までご案内ですよ。噂するなって方が無理だって」
つまりはそういう事だ。 そういった話はとんと聞かない女子と、誰一人特別扱いしない教師。そんな二人が突然あんな事をすれば噂の一つもされようもの。なるほど、この鬱陶しい視線はそのせいか。
「まして相手があのマリーでしょ。そりゃあ噂も盛り上がるってものよ」
あのマリーというのがどんなマリーなのかは知らないが、このマリーであるのは間違いないだろう。
確かに私は恋愛には疎い。が、そんな私であっても、あの男とは、ベイルクーズとは何があっても、例えば世界が破滅しあの男と二人だけ生き残ったとしても、恋仲になるなど絶対にない。恋仲になるか死かの二択となっても、迷うことなく死を選ぶ。いやむしろ全力で奴の命を取りにかかろう。返り討ちの可能性が高いが。
そんな訳でこの噂は私にとって不快この上なく、否定するのでさえ億劫になる。人の部屋に勝手に入っただけでなく、こんな置き土産まで放り投げて来るのだから、本当にあの男の存在は腹立たしい。
「で、実際のところどうなの?」
「……あると思う?」
「あったらいいな!」
という返答から見るに、エミリア自身は噂は信じていない様だ。
「まあ私の場合は、事情をある程度知ってたしね」
私の体調不良の事だろう。倒れてしまうのも仕方がない状況であったのは確かだ。
「でもあの先生が自分で運んだ理由がわからないんだよね」
「きっと誰かに頼まれたのよ」
あの男が自主的に行ったとは思えない。やはり、あの少年の命令だろうか。
「誰かって、誰に?」
「さあ、誰かしらね」
夢の中の少年は実在している。では、あの少年は一体何者なのだろうか。
その謎も、今日知る事が出来るのだろうか。
纏わり付く様な視線を振り切り、私は研究科の校舎区画に入った。流石に俗世間とは一線違った場所なだけあり、噂に振り回される人間は少ない。
だが、此処は此処で少々厄介な事情も存在する。
研究科の生徒は貴族の比率が圧倒的に高い。研究科が所謂エリートと呼ばれる分類に属しているからなのだが、それ故に他とは違い閉鎖的だ。
中には名家が箔付けに子息を通わせ、そして他者との違いを見せ付ける事で家の力を誇示している。
その為、研究科には様々な寄付によって資金は潤沢。当然、他の科とは待遇が異なってしまい、またそういった身分の高い人間が集まることで、やや排他的な集団が出来上がってしまっている。
などという事情から、他科の生徒からはあまり良くない印象を持たれ、実際過去にいくつかの衝突も起こった事があった。
いざこざの要因の一つに、身分差による他者を見下す行為がある。簡単に言えば、『平民ごときが』といったところ。
つまり私の様なしがない庶民が、貴族達の住み処である研究科にいるのは侮辱にも等しい。そんな思想の人間が一部、研究科にいる。
という事で、貴族様方には面白くもない私の噂が広まると、その一部の人間からの視線が強まったりする。
まあ元々他人の視線など気にも留めない私であるから、常人ならば胃に穴が開いているであろう状況にも平然と居てられるのだが。
そして今日も今日とて、一部から熱視線を浴びながら割り振られた教室へと入室した。
挨拶を交わし、空いている席に適当に座る。僅かな時間も無駄に出来ないと、教材を取り出して昨日分の内容を復習していると、一人の少年が私の元へ歩み寄って来た。
「おはようウィージニスさん」
白に近い銀の細く美しい髪を輝かせながら、まるで女性と見紛うばかりの綺麗に形作られた容姿を笑みに変え、もう少年ではなくなってしまった凛々しい声色でそう挨拶を交わしてくる。
黙っていると女性に間違えられてしまう程の美貌を持つ彼は、例え神が女だと叫んでも、残念ながら男である。
その類い稀な美しさは、見た目だけは確かに整っているベイルクーズをも凌ぐだろう。
彼の名はエルフライエン・シュブリーシス。かつて人間によって迫害された種族、『レイレン』の純血者だ。
「おはよう。今日も綺麗ね」
「あ、有難う……」
私の言葉に彼が苦笑する。聞いた話では女性に見間違われるのがコンプレックスらしい。
彼も私と同じく平民の位だが、実質的な地位は貴族のそれに並ぶ。理由はやや複雑ながら、現在の彼等一族の事情が最も強く影響している。
レイレンを含む種族達を、侮蔑の意味を込めて『亜人種』と呼び、レイレンを筆頭とした、ペゴハ、ユルン、アンブレッツ等の所謂獣人や半妖精と言われる人間族以外の種族を、一時絶滅寸前まで追いやった経緯がある。その残虐さ、非道さは筆舌に尽くし難く、彼等の亡骸で一国が埋まるとまで言われていた。
当時、フォーバーン以下四国により結成されたユルイレイ連邦において、彼等亜人種(現在は侮蔑語として特定個人、または特定の団体に対しての公用は禁止されている)は人としての権利を有すると定められておらず、家畜または奴隷として扱われていた。帝国クアッツルムンとの大戦の最中、その加虐性は苛烈を極め、過去に例を見ない残酷な行いとして歴史に刻まれた。
終戦後、事態を重く見たユルイレイ連邦政府により彼等特性人種の人権が保障され、現在五国から譲渡された指定保護区にて安寧とした暮らしを送っている。
そしてエルフライエンの様な純血者は各種族の代表的な立場におり、故にその地位が周辺国の貴族達によって引き上げられていた。
ただでさえ少数となった特性人種達は、純血者ともなれば更に数が少ない。そんな貴重な人間が堂々とこんな場所に現れ、隣に座って共に勉学に励むというのは、感動を通り越して少々不気味だ。
ここメレトンがあるフォーバーン王国は、指定保護区とは遠く離れている。メレトンの名はそれなりに知られてはいるものの、学び舎が他に無い訳でもない。わざわざ遠い此処まで来る理由が私にはわからなかった。
「あの、さ……」
私の傍らに佇んだまま、彼は何やら言い辛そうにしている。何時ものはっきりとした発言の仕方とは違っていた。
何だろうと首を傾げで言葉を待つと、彼は大きく息を吸った。
「き、昨日、仮病を使ってまで授業をサボって普通科教師と逢い引きした後、寮の部屋で、あ、あ……、愛し合ったっていうのは本当なのかな!?」
首を傾けたまま倒れそうになった。
逢い引き? 愛し合った? 誰と? 誰が?
顔を真っ赤にしながら私にそんな事を聞く彼に、こいつを男にしとくのは勿体ねぇなどと思い浮かべながら、つい今し方の言葉の意味を漸く理解した。
正直何の話かと思ったが、どうやら今朝の噂の話らしい。変質し過ぎてもう原形を留めていないじゃないか。恐ろしや伝聞の力。
「えぇと、その話は何処から……?」
「いや、他科の生徒が話してるのを聞いたんだけど……」
噂の話は、研究科の生徒の名前までは出て来てなかった筈なのに、何故ピンポイントで私……。
「昨日ラメラさんが話してたから……」
あの女ぁ……!!
あの馬鹿女が何を言ったのかは知らないが、誤解もいいところ。訂正するのも馬鹿らしい。何よ、愛し合うって。
「ないない。一体どう捩曲げればそんな話になるのか、私の方から聞きたいわ」
「そ、そっか……。そうだな。ウィージニスさんに限ってそんな事ある筈ないよな」
それはそれでカチンと来る。何よ、私が色恋の話しちゃおかしい……わね。だからこそそんな噂になっている訳で。
私の言葉を聞いて何やらホッとした様子の彼。こちらとしては噂の話など聞きたくもない事柄でもあり、そんなものより復習を優先しなくては。ただでさえ昨日サボってるのだから。
この話はこれでお終いと私は教材へ視線を戻す。しかし、それでもエルフライエン君は私の傍から離れなかった。
「何?」
「あ、いや……、その……」
また彼らしからぬ雰囲気。
「ウィージニスさん、いや、ルマリアさん……!」
意を決した様子の彼が何かを告げようとした時、
「あああ!? ルマリアさんっ、貴女何してらっしゃるのですか!?」
けたたましい声に遮られた。
耳をつんざく様な高音声の発生源に視線を向けると、やはりそこにはラメラが居た。
ドスドスと聞こえそうな程力強い歩みで私達の元に向かってきた。
「ルマリアさんっ、貴女は昨日倒れたというのに、学校などに出て来て体の方は大丈夫ですの!?」
それは心配している人が言う台詞であり、そんな睨みつける様な眼差しと、滲み出る怒りの気配を漂わせる人の言葉ではないのではないだろうか。
「え、まあ、ぼちぼち?」
体調はいつになく好調。昨日の疲れが嘘の様。
ラメラのあまりの剣幕に、少したじたじになりながらもそう返す。
「あの教員は医務室に運ぶと言っていながら、どこの科の医務室にも貴女は居ませんし、こちらに戻ってみれば貴女はもう帰ったと言います。あれだけ私に迷惑をかけながら一言もなしにさっさと帰るだなんて、本当に貴女は失礼な方ですわね」
そういえばそうだった。ラメラに助けられたのをすっかり忘れていた。彼女が怒るのも仕方のない事だろう。
「あー、ごめんね。ちょっと記憶があやふやで、どうやって帰ったのか覚えてないのよ」
実際のところはベイルクーズに運ばれた筈なのだが、噂になっている事を敢えて話すものでもない。ラメラに知られれば、またややこしい話になりそうだし。
「まあ、それは不調という事でしたし、百歩譲ってよしとしましょう。ですが……」
一瞬、横目でエルフライエン君を見遣り、一層眉のシワを深める。
「病み上がりだというのにシュブリーシス様と楽しげに歓談とは、少々慎みに欠けるのではなくて?」
また鬱陶しい話が始まってしまった。
彼女は何故か、私がエルフライエン君と何かをしていると、それを悉く邪魔をする。その他友人同様、特別彼と接する機会が多い訳でもないが、だとしても毎回現れては妙な難癖を付けてくるのだから、私がうんざりしてしまうのもしょうがない事だと思う。
これは入学当初から行われ、あまりの徹底ぶりに対処に困った私が意見を求めてエミリアに相談したところ、『そのラメラさんって人、その男子の事が好きなんじゃないの?』という答えが返ってき、あぁそうなのかと素直に納得してしまった。
そうして、私が彼女に目をつけられる要因となってしまったエルフライエン君に対しても、出来る限り親しくならないよう心掛けている。私が先程、彼のコンプレックスを刺激する発言をしたのもその為だ。
今回はどの様に適当なあしらいで済ませようかと考えていると、私よりも先にエルフライエン君が口を開いた。
「まあまあハルウィントさん。ウィージニスさんも態とではないのでしょうし。それに、話し掛けたのもから俺の方ですから」
「いいえ、親しき中にも……と言いますし、やはり最低限のマナーは守るべきだと思います。それに、平民の彼女が貴方の様な方に親しげに話し掛けられて、勘違いしてしまうんじゃないかと心配ですの」
「女性に勘違いして貰えるというのも、男の甲斐性の一つではないでしょうかね。あと、俺だって正式な身分は平民ですよ。ただ、他にいなかったという理由で少々複雑な事になってるだけですから」
「ご謙遜なさらないで下さいな。レイレンと言えば『真理を視る瞳』の持ち主。その純血者ともなれば相応に扱われるといのも仕方のない事ですわ」
「いえいえそんな、俺などまだまだ未熟で」
「まあまあそんな、ご謙遜を」
私そっちのけで歓談するラメラとエルフライエン君。でも何だろう、微妙に険悪な気配が漂って来ている様な気がする。
とはいえ、ラメラの矛先が外れたのを良い事に、私は二人を置いて復習の続きをするのだった。
そうして、待ち望んだ時が来た。日は傾き、赤い夕陽が空を染める。
校舎区画に残る生徒はほとんど居なくなり、その中を私は一人歩く。
目的地は知らない。だが、そこに行けば何かがあると予感していた。
研究科校舎から環状廊を抜け、普通科校舎に渡る。そして普通科校舎をも抜けて訓練区画に差し掛かった所で、人影が一つ佇んでいた。
「来たか……」
その影はベイルクーズだった。いつもと変わらず、何を考えているのかわからない無表情で、私を待っていた。
「私が来るのを知ってた風ね」
「当然だ。あの方がそう望んだのだから」
あの方……。やはり少年の事だろう。
間もなく会える事に、私の胸が高鳴る。
ふとベイルクーズが胸ポケットから紙切れを取り出し、私に向けて投げた。
「目的地とそのルートが書いてある。この道順を正しく辿れ。外れた場合の保障はしない」
「案内してくれないんだ?」
途端、ベイルクーズの顔が苦渋に満ちた。
「何よ、そこまで嫌なの?」
「当たり前だ。本来は反対なのだからな。お前があの方と会うだけで、あの方が危険に晒される頻度が増す」
「どういう意味?」
「………」
返答がない。答えたくないのか、答える必要がないのか。だが構わない。知りたければ、あの少年に聞けばいいのだから。
「それじゃ、行くわ」
すれ違い背後にそう言葉を残す。返事はないが、早くも慣れてしまった。
「あ、そうそう」
大事な事を忘れていた。朝からとんだ迷惑を被ったアレの事を。
「あんたと私が恋仲だなんて噂、心外なのよ。どうにかして騒ぎを治めといてよね」
「同感だ。貴様となど吐き気すら覚える」
「一々物言いが腹立つわね……」
まあいいわ、と手を振って私はその場を後にした。