勇者の妻となった少女の手記(下)
最終話になります。少し長めですが、お付き合い頂けますと幸いです。
他者からの視線を遮るように深く被ったフードから、銀色の髪と白い顔が覗きます。
艶の失われた髪、やつれた顔、くすんだ瞳……その全てが物語っていました。彼女にとってこの世界が牢獄そのものであると。自由などなかったのだと。
「お久しぶりですね。グレース様」
私の声にピクリと反応したグレースがゆっくりと顔を上げました。
輝きを失った瞳が私を見据えます。
「お久しぶりです……王女殿下」
「王女殿下だなんて……今の私は一人の男性に嫁いだ女です。それに世界を救った英雄から“殿下”などと呼ばれますと、逆に恐縮してしまいます。どうぞ、エレオノーラとお呼び下さい」
「一人の男性……嫁ぐ、勇者の……」
何やらブツブツと呟くグレースから視線を外し、その後ろに控えた人物へ視線を移します。
「そちらはセリア様……ですよね」
「はい。今は名を捨て【イェッテ】と名乗っております」
「イェッテ様……。私の記憶が正しければ、その名は……」
「……ご存知でしたか。辺境の男爵家に生まれ、現在は“聖女セリア”と呼ばれているお方の名です」
イェッテと名乗ったその女性。元僧侶セリアが薄汚れた外套を脱ぐと、隻腕となった姿容が現れました。
魔王討伐後の凱旋パレードで目にした時とかけ離れた雰囲気に、私は息を呑み言葉を失います。
当時、腰まで伸びていた長く美しい金髪は短く不格好に切り揃えられており、頬は痩け、目は窪み、一見するとまるで老婆のようです。とても二十歳前の女性には見えません。
僧侶セリアと言えば、回復魔法の才以上にその美貌が有名であり、宮廷内には勇者との婚約がなければ、彼女へ求婚を申し込みたいと考えていた貴族もいたと聞きます。
次代の聖女という保障された社会的地位。類稀なる回復魔法の才。卓越した美貌。彼女がもう少し賢ければ、あるいはその望み通り“自由な愛”を手にする事も出来たかもしれません。
只、それも過去の話。
私が視線を少し下にずらせば、そこには大きく張り出した腹部があります。
「随分、大きくなりましたね」
魔王討伐から約7ヶ月。
そろそろ、あのクレマンという男と儲けた子が生まれる頃でしょう。セリア……いえ、イェッテは立っている事すら辛そうに見えます。
「どうぞ中へ。お話を伺いましょう」
屋敷の応接間へ二人を通し、侍女に紅茶を用意するよう言い付けると、執事が耳打ちして来ました。内容は当主であるアランから「屋敷への立ち入りを禁ずる」と言い付けられているが、二人を招き入れてしまっても良かったのかという旨。
門前払いしても良かったのですが、屋敷の前で押し問答するのも体裁が悪い為、致し方ないでしょう。
先に愛妾の話は断ったにも関わらず、直接会いに来たという事は、あちらも相当な覚悟があるという事でしょう。簡単に引き下がるとは思えません。
「エレオノーラ様、勇者は……?」
グレースが落ち着きなく部屋中を見渡します。
「夫はダンジョン攻略へ。一刻ほど前に出たばかりなので、暫くは帰って来られないでしょう。比較的、屋敷から近い場所に出来たダンジョンとはいえ、今日中には戻らないばかりか、ダンジョンの規模によっては数日帰らない可能性もあります」
「そう……。それは残念」
表情を変えず、目だけ伏せたグレースが呟くと、その隣に座っていたイェッテが立ち上がり突然、膝を突きました。
「どうかお願いします。エレオノーラ姫様から勇者様へ、私達をお救い下さるよう取り計らっては頂けないでしょうか?」
身重の女性から土下座せんばかりの勢いで頭を下げられ、私はふと考えます。
もし夫がこの姿を見た場合、情に絆されて愛妾の話を受けるのか、あるいは先の決定通りに突き放すのか。
傷付いたイエッテとグレースの姿には哀れみを誘われますが、私がやるべきは後者でしょう。先の決定が上書きされていない以上、私がそれを覆す事はありません。
「顔をお上げください。そのようにされては、お体に障ります」
顔を上げたイエッテがソファーに座り直した事を確認すると、私は切り出しました。
「以前、お二人からアラン様の愛妾になる事を希望する旨の文をいただきました。しかしながら、その件はお断りしたはずです」
縋るような瞳で見つめてくる二人を見つめ返し、話を続けます。
「愛妾の話はお受けできませんが、ヴォルチェ領への移住は許可する。それでご納得いただけないのでしょうか?」
納得できないからこそ、こうして直談判に来た訳でしょうが一応、本人の口からその理由を聞いておくべきでしょう。
私の問いにグレースが力なく首を振ります。
「移住させて貰えるのは嬉しいけど、それだけじゃ駄目。……お父様が納得しないから」
グレースの話を掻い摘んで説明すると、彼女は実家であるミューレン侯爵家から大きな手柄を立てる事を求められているそうです。それも“力”を以て。
ミューレン侯爵家は代々、優秀な魔術師を輩出してきた家系であり、侯爵自身も宮廷魔術師筆頭の座を得ている優秀な魔法使いです。
アランとの婚約が解消されて以降、ミューレン侯爵の宮廷内における立場は芳しくありません。その為、絶対的な自信を持つ“魔法力”において成果を出す事をグレースさんに求めているのでしょう。
参謀としての地位が揺らぎつつあるミューレン侯爵ですが、彼とその娘であるグレースの魔法力が王国随一である事は紛れもない事実。その証明をする為、魔王軍の残党狩りを一人で行う事。それがグレースに課された命題という訳です。
強き魔物を一人で屠れば大きな名声が得られ、仮に敗れたとしても“名誉の戦死”となる。なるほど、汚名返上の為、娘に文字通り命を懸けさせるとは……。
体面に拘るミューレン侯爵家らしくやり方ではありますが少々、同情してしまいます。
次に私はイェッテへと向き直りました。
「イェッテ様。仮に貴女がアラン様の愛妾になったとして、お腹の子はどうされるのですか?」
イェッテは逡巡する素振りを見せた後、か細い声で「教会に引き渡します」と呟きました。
確かにイェッテの子であれば、彼女の類稀なる回復魔法の才を受け継いでいる可能性があります。しかし、それはあくまで可能性に過ぎず、絶対ではありません。
魔法の才があるか否か。その判断が可能となる為には、ある程度の年齢まで子が育たなければならず、あの教会が首を縦に振るとは思えません。
そもそも、イェッテの子は金の卵である可能性以上に、火種となる可能性を秘めています。
一通りの事情を聞いた後、私はイェッテを見据えて口端を吊り上げました。
「……イェッテ様。お腹の子は、貴女が愛する男性と“自由な愛”を求めた結果ではないのですか?」
私の言葉を受け、呆けた表情をしていたイェッテですが、そこに含ませた意味を理解した途端、憎悪に顔を歪めて叫びました。
「貴女に何が解るのですか!? 幼い頃に両親が死に、貧しい教会で育ち、回復魔法の才があるからと修行の日々を送らされ、友人すらいなかった。私には自由などなかった。自分の意思で決められた事なんて、何一つ無かったのです! その気持ちが……王女という恵まれた環境で育った貴女になど解るはずがない!」
憎悪に燃える瞳に見据えられながらも、私は決して瞳を逸らしません。
彼女もまた鳥籠に囚われた存在。王女である私もそれは同じでしたが、その環境は当然、異なります。貴女に何が解るのか――その問いに返す言葉を持ち合わせてはいません。
根本的に他人の心は理解できないもの。互いに理解し合ようと歩み寄ったとしても尚、解り合う事は難しいものでしょう。
つまり、一方的に理解を求める行為は傲慢でしかない。私はそう思います。
気が付けばイェッテだけではなく、隣に座るグレースもが私へ鋭い視線を向けていました。
流石は世界を救ったとされる英雄の二人。その殺気だけで腰が抜けそうになりますが、私は笑顔の仮面を貼り付けたまま、静かに首を横へ振りました。
「お二人の置かれた状況につきましては概ね理解できましたが、いずれにせよ愛妾の話はお断りさせていただきます。確かにお二人がアラン様の愛妾となれば、ミューレン侯爵様もグレース様をお許しになるでしょうし、イェッテさんもある意味ではやり直せると言えるでしょう。しかし、ヴォルチェ領には解決しなければならない問題が山のようにあります」
私は窓の外へ視線を注ぎます。
「アラン様に救いを求めて他国から押し寄せた難民達の問題や、貧困街での感染症問題、農作物の実りも良くなく、貯蔵していた食料を貧民達へ配給せねばならない事態が、問題により拍車を掛けている状況です。はっきり申し上げます……貴女達だけを特別扱いはできません。お引き取り下さい」
こちらの状況を説明しても尚、二人は立ち上がろうとしません。
引くに引けないのでしょう。要求を通すまでは動くつもりがないという強い意志が窺えます。
暫く睨み合っていた私達ですが不意に扉が開かれ、皆がそちらへ視線を向けます。
扉から応接間へ入って来たのはヴォルチェ家の当主アラン――勇者にして私の夫でした。
「勇者、お願い助けて……」
「勇者様、私達をお救い下さい!」
立ち上がって縋り付こうとする二人を制するように、アランは殺気を放ちました。その殺気は先ほど二人から放たれたものとは全く次元の異なるもの。
私に向けられた訳ではないにも関わらず、強烈な圧迫感から膝を突き、気を失ってしまいそうになります。
……殺気をぶつけられた二人が床に倒れました。
気を失った二人を屋敷の外へ運び出すよう、執事へ指示を飛ばした夫はこちらへ歩いて来て、私の前に立ち、こう一言。
「ごめん」
「ごめんって……ダンジョン攻略に向かわれたのでは無かったのですか?」
夫はバツが悪そうに頭を掻きました。
「そうだったんだけど……早馬が来て、屋敷に押しかけて来たセリアとグレースの対応を、君が一人でしてるって言うもんだから……つい帰ってきた」
そう言って気の抜けた顔で笑う夫ですが、おそらく伝達を受けた後、全力で走って戻ったのでしょう。額には大粒の汗を浮かべていました。
世界最強の能力を持つアランならば、馬よりも早く走る事は可能でしょうが……本当に不思議な人です。
温厚そうに見えて、誰よりも勇敢。無気力そうに見えて、本当は誰よりも優しい。
運び出されて行く二人を尻目にアランは呟きました。
「……勇者だからって、誰も彼もを救う訳じゃないよ。全てに手が届く訳でもない……俺は神でもなければ、聖人でもないからね」
◇ ◇ ◇
気晴らしがしたいのか「少し散歩しない?」と、唐突な提案をされた私は、夫と共に屋敷の外へ出ました。
夫の希望により、人里離れた場所に構えた屋敷。その周辺には青々と茂る草原が広がっています。
風に運ばれた草の匂いを感じながら暫く歩くと、不意に夫が口を開きました。
「執事から聞いたけど、二人を煽ったんだって? 何か妙に殺気立ってるな、とは思ったんだけど……怒らせる必要はあったのかい?」
その問いは私を責める為のものではなく、純粋な疑問でしょう。
確かに私らしくない言動だったかもしれません。王宮で暮らしていた頃から私は“敵を作らない”事を信条としていましたから。
夫を裏切った女達が今更擦り寄ってきて、今度は都合良く利用しようとしている。そう考えると、嫌味の一つや二つは言いたくなるものです。
その感情の起源。それはきっと、私が夫を愛しているから……なのでしょうね。
……とはいえ、そう正直に応えるのはどうにも気恥ずかしいので、私はいつものように夫を揶揄う事にしました。
「必要があった……と、今は思っています」
それは一体何故なのか――と、瞳で訴えてくる夫を見据え、私は応えます。
「そうですね……少なくとも、貴方の関心は掴めたかと」
夫はポカンとした表情を浮かべた後、一気に破顔して「それは間違いないな。やっぱり、君には敵わない」と、お腹を抱えました。
少年のように無邪気な顔で笑う夫に私は問い掛けます。
やはり貴方も彼女達のように自由を欲するのか――と。
一頻り笑って目尻に涙を溜めた夫は、私の問いを受けて、徐に空を仰ぎました。
「俺は……きっと、最初から自由だった」
夫の返答に私は首を傾げます。
「生まれながらに勇者として人々の為に命を賭す責務を負い、使命を果たした今も尚、貴族としての柵に囚われた生活。それでも貴方は自由だと仰るのですか?」
「うん。俺は自由だよ」
その真意を問うべく口を開いた私でしたが、真っ直ぐに見据えられた瞳に口を噤みました。
「勇者として戦う事、貴族として領地を治める事、君と結婚した事もそうだけど、俺にはその全てを捨てて逃げる事もできたはずだ。家族や友人、世話になった人達の存在、己の責任感……そういった柵や枷から、使命を全うする道しか進めなかった……ってのも勿論だけど、やっぱりその道を選んだのは俺自身だと思うんだ」
夫は曇りなき瞳でそう言い切りました。
「……では、貴方に後悔はないと?」
私が訊き返すと夫は「そりゃそうさ。そのお陰で素敵な嫁さんも貰ったし」と、戯けてみせました。
唐突に発された口説き文句に思わず赤面してしまった私を見て、夫は悪戯に成功した少年のような笑みを浮かべ、すっと手を差し出しました。
揶揄われた悔しさを滲ませつつも差し出された手を握り、私は夫に笑い掛けます。
そうすれば夫も優しげに微笑み返し、そんな私達二人の間をそっと風が流れました。頬を撫でる風と温かな眼差し。今頃になって気が付きました……私も自由であったのだと。
鳥籠の中にも自由はあったのだ――と。
澄み渡る空の下、握手を交わしたまま笑い合う私達は……きっと自由です。
小さな鳥籠から解き放たその先が例え、大きな鳥籠に過ぎなかったとしても、最終的な決定権を握るのは私自身の意思。
それは誰にも奪う事の出来ない宝石。勇者ですら断ち切れない摂理。
あぁ……今日も空は青い。
(おわり)
折れない勇者シリーズ2作品目『自由な愛を求め、婚約者を裏切った私達の後日談〜聖女になれなかった村娘の手記〜』は、これにて完結となります。
最後までお目通しいただき、誠にありがとうございました。
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