第9話 手にした幸せと奪われてゆく幸せ
テオは村の申し出を快く受けると、用済みとばかりに河原へと足を向けた。かつて、あの看板女優――干物のように川に打ち上げられていた女を救い上げた思い出の場所だ。
白砂の上に膝をつき、ひときわ目を引く赤い石を拾い上げた。
「やっぱり、これは魔石だ。微量だけど、確かに魔力を帯びてる……!」
興奮を抑えきれず、続けて青、緑と色とりどりの石を手に取る。
「色ごとに属性があるのか、それとも特異な効能を持つのか……実に興味深い!」
夢中になって観察していると、不意に背後の岩陰から気配を感じた。尾行にしてはあまりに雑だ。おそらく村人だろう。ならば――。
「光をまとう精霊よ。温き陽光で我を覆い、邪なる目から隠したまえ……《蜃気楼〈エスペジスモ〉》」
低く詠唱を唱えると、テオの身体は柔らかな光に包まれ、周囲の景色と同化して姿を消す。まるで陽炎のように、確かにそこにいるはずなのに、誰の目にも映らない。
「門番さんに迷惑をかけるのも申し訳ない。……一旦退散しましょうか」
そう呟いて立ち上がろうとした、そのとき――
「ふふっ。その魔法を使うなら、《影歩〈パソフォルティヴォ〉》も併用しないと意味がないよ。こんな河原じゃ、足音が響いちゃうからね」
いたずらっぽい声とともに、岩陰から現れたのは赤橙の髪をした少女だった。ミディアムヘアの先はゆるやかにカールし、浅葱色の大きな瞳が印象的。年の頃は十代後半、華奢で小柄な体躯には、どこか儚い愛らしさがあった。
敵意はなさそうだと判断し、テオは魔法を解く。
「どうも初めまして、お嬢さん。旅芸人一座の護衛をしております、テオと申します」
手を広げ、軽く一礼する。
「丁寧なご挨拶ね。私はルーシア」
「それで、何かご用でしょうか? もしかして門番さんに頼まれて、僕の監視を?」
「門番さん……ああ、ニカさんね。残念だけど違うわ。私、村から追い出されたの」
“追い出された”という穏やかではない言葉に、テオは眉をひそめた。まさか犯罪か? いや、見かけでは判断できない。だが念のため――。
「……それなら、僕に何の御用で?」
「ごめんなさい。ただ、その杖があまりに綺麗で、つい目を奪われてしまって」
「これですか?」
テオは腰に差していた杖を差し出した。
「えっ、見ていいの!? うれしい、ありがとう!」
ルーシアは無邪気な笑みを浮かべ、魔石の細工を食い入るように観察する。指先の動き、目の光、それはまさしくテオが魔道具を見つめるときのそれと同じだった。
「なるほど、同業者の方でしたか」
「やっぱり分かります? 私、峠の森で武具を作ってるの。でも、魔石の加工が苦手で……像のところであなたを見かけてから、ずっと話しかける機会を探ってたの」
尾行されていたという不信よりも、同業者としての親近感と創作への興味が勝り、テオは頷いた。
「ぜひ、あなたの作品を見せていただけませんか? もちろん、変なことはいたしません」
「ふふ。後をつけといて、それが変なことの前振りじゃないといいけど。……ま、こんな幼児体型に欲情する人も少ないでしょうし、大丈夫だけど」
そう言うと、ルーシアは懐から青い輝石のついた短杖を取り出し、詠唱を始めた。
「猛る水の王子よ。弱き者にその力を。昂り、荒ぶり、すべてを穿て――『水 砲』!」
瞬間、杖先から光が八方向に走り、大渦を生み出す。次いで、鎖鎌のように絡み合う水の塊が放たれ、正面の大岩を一撃で貫いた。断面はまるで磨かれた鏡のように滑らかで、陽光をきらりと跳ね返している。
《水 砲》――それは王国でもごく限られた魔術士にのみ許された、高位の水魔術だ。
「やれやれ。まさかここまでの練度とは……それとも杖の力でしょうか?」
「さて、どちらでしょう? お互い、訊きたいことが尽きなさそうですね」
◇ ◇ ◇ ◇
峠の森にあるログハウス。その工房に案内されると、早速ルーシアが製作中のビキニアーマーを取り出した。テオはその造形に目を輝かせ、まるで聖遺物を見るかのように鼻息を荒くして観察を始める。
「すごい……! 魔法陣が幾重にも組み込まれている。しかも、金属じゃない……これはもしや……銘は“シド”? お師匠様の名前ですか?」
「女の名前じゃ売れないでしょ? だから架空の名をつけてるの。今は下請けばかりだけど、いずれ自分の名で出したいの。……でも自信がなくて。あなたみたいな人の意見が欲しいのよ」
「僕は職人専業じゃありませんよ。護衛と兼業の半端者です。ただ……この鎧、構造もデザインも素晴らしい。だけど一つだけ、虫除けの魔法陣を追加するともっと良くなります」
「虫除け……ですって?」
「肌の露出が多いですから。森の中を駆ける冒険者には、それが死活問題になる」
的確すぎる助言に、ルーシアは目を見開き、そして耳を赤らめた。
「……たしかに。確かにその通りだわ。剣士が戦闘中に着替えるなんて現実的じゃないし」
「あと、魔力消費を抑えるために魔石を埋めましょう。これ、使えそうです」
テオはポケットから河原で拾った小さな魔石をジャラッと取り出す。だがその大きさではそのまま鎧に埋め込めそうにない。
削ろうとノミを当てて試すルーシアだが、形が崩れてしまい、うまくいかない。
「魔石の加工は、僕に任せてください」
そう言うと、テオは手早くノミを振るい、二枚のすり板で魔石を転がして磨いていく。やがて転がった石は、まるで職人の手で磨かれた宝玉のような均整のとれた形に仕上がっていた。
最後に取り出した小瓶に魔石を漬けると、しゅわしゅわと音を立て、石は一層の輝きを帯びた。
「これはアシッドアントの酸。魔石の純度を高める効果があるんです」
その後も試行錯誤は続けられ、こうして後にサラが纏うこととなる魔鎧――《白磁の鎧》が誕生した。
◇ ◇ ◇ ◇
その後、旅芸人一座の動向が気になったルーシアは、テオに頼み込んでジャンとカトリーヌも工房に招いた。
事前に「絶対に後悔しますよ」と再三念を押されていたルーシアだったが、実際に会ってみて、ようやく意味を理解した。片や半裸で徘徊する女、片やカビの生えたパンを頬張るイケメン。あまりに濃い個性のぶつかり合いに、思わず言葉を失う。
だが、テオ同様に面倒見の良いルーシアにとって、彼らは奇妙な異物ではなく、どこか親しみ深い存在だった。二人のエルフもすぐにこの空間に馴染み、舞台のない日はともに魔物討伐に赴いたり、試作魔道具のテストを手伝ったりと、賑やかな日々が続いた。
それは、閉鎖的な村を飛び出して以来、修行一筋に生きてきたルーシアにとって初めて味わう――かけがえのない「青春」だった。
やがて季節が巡り、旅一座が村を離れる頃、ルーシアの妊娠が判明する。
気の合う二人が惹かれ合うのは、ごく自然な流れだった。
「一座を送り届けたら、必ず戻るよ」
テオはそう言い残して、村をあとにした。
――本当に?
喉元まで出かかった言葉を、ルーシアはどうにか飲み込んだ。
だが、半年が経っても、テオは戻らなかった。
初めての出産、不安と孤独に押しつぶされそうになる中で、門番のニカとその妻エミが村の掟を破って駆けつけてくれた。身の回りの世話を焼き、出産にはエミが付き添ってくれた。
――そして、産まれた命に『リュート』と名付けられた。
一年後。
ようやくテオが戻ってきた。理由は、産まれてくる子に特別な贈り物を探していたら、転移魔法陣を踏み、別大陸に飛ばされてしまった――というものだった。
(……本当かしら。でも、たとえ嘘でもいい)
浮気だったのかもしれない。誰かに心を許し、捨てられて戻ってきただけかもしれない。
口元に残る微かな違和感。言葉の端に滲む影――そんなものが、ほんの一瞬、彼の姿に透けて見えた気がした。
それでも、問い詰めることはしなかった。
「……おかえりなさい」
震える声でそう呟いた。
嘘でもいい。継ぎはぎのような言い訳でも、都合のいい偶然でもかまわない。帰ってきてくれた。それだけで、胸の奥に、小さな光が灯るような気がした。
そして、さらに一年が過ぎた。
ルーシアは“シド”の名義でいくつかの作品を世に出した。テオの伝手を頼りに競売へ出した作品は高評価を受け、強気に設定した価格の十倍で落札されることもあった。
だが、それは同時に、ある陰を呼び寄せる。
買い付けを行った商人から、やたらと「王に謁見してほしい」としつこく求められるようになったのだ。どこの王かと尋ねても、「答えられない。だが、行けば分かる。決して悪いようにはしない」と繰り返すばかり。
あまりに不審な様子に、ルーシアはその都度、丁重に辞退していた。
――そして、事件は起きた。
それは、雪が静かに積もる寒い夜だった。
窓の外には、黒い影がいくつも蠢いていた。何重にも張り巡らせた結界があるにもかかわらず、まるでそれをすり抜けるかのように。
ルーシアが杖を手に取ろうとした瞬間、テオがそれを制した。
「ルーシア。リュートを連れて地下室へ行くんだ。絶対に出てくるな。扉には結界と封印魔法を重ねて……お願いだ。リュートを、頼んだ」
(……ずるい)
その一言が、胸の奥で引っかかった。
地下室に身を潜め、ひたすらに祈る。壁が低く震えるたび、戦いの激しさを思い知らされた。
――そして数時間後。
――……ィン、リン……パキン。
結界が破られる音が、鈍く響く。
――パキン……バキン……ッ。
最後の結界が砕け、扉が、軋むようにゆっくりと開いた。
現れたのは、青白い肌に二本の角を生やした存在――魔族だった。
かつて世界を恐怖で支配した異形が、再び姿を現したのだ。
だが、ルーシアは怯まなかった。リュートを守るため、テオを助けるため――手にした杖に、全身全霊の魔力を込めた。
「……水砲!」
だが、収束したはずの魔力は、霧のように薄れて消えた。
――どうして?
確かに魔力は満ちていた。練度にも問題はない。だが、それでも魔術は発動しなかった。
焦りと混乱の中、ルーシアは杖を振り回す。しかし、魔力はまるで拒絶するように、力をなさなかった。
魔族は、ゆっくりと、楽しげに笑みを浮かべながら近づいてくる。
ひた、と腕を掴まれた――その瞬間。
リュートの小さな手が伸び、魔族の頬にふれた。
ふわりと紫の光が弾け、魔族の目がとろんと緩んだかと思うと、踵を返してそのまま去っていった。
(……まさか……)
呆然とする中、ルーシアはリュートを強く抱きしめる。彼の無邪気な笑顔を胸に、終わりのないような時間をひたすら耐え抜いた。
◇ ◇ ◇ ◇
――二日後。
ようやく外に出ると、そこに広がっていたのは、破壊し尽くされた静寂の残骸だった。
焼け焦げた地面、崩れた工房、千切れた結界の残滓。
そして、どこを探しても――テオの姿は、どこにもなかった。