第7話 シド
村をあとにしたサラは、峠の森を目指して、河原沿いの道を進んでいた。つづら折りの坂を登るにつれ、背中にしょった荷物が少しずつ重みを増していく。
下りでは気づかなかったが、川の所々には小さな滝がいくつもあった。その背面はなだらかで、流れは穏やか。川岸が崩れていないことからしても、この川は長らく氾濫していないのだろう。これほどの水量がありながら暴れ川でないとは……もしかして、この滝が天然の調整機構になっているのかもしれない。そんな考察を頭の片隅に浮かべながら、サラは黙々と坂を踏みしめた。
標高が上がるにつれて空気は清らかさを増し、やがて夜の帳が降りるころ、頭上には星の海が広がっていた。吐く息は白く、昼間に子供たちが水遊びしていた光景がまるで夢だったかのように、冷たい風が体温を奪っていく。
「……ここまで冷えるとはな。山の気候は侮れん。今夜は、さらに冷えそうだ」
手のひらをこすり合わせながら、サラは空を仰いだ。無数の星々が瞬いている。中でも、ひときわ碧く輝く星がひとつ、目を惹いた。
「秋前だというのに、こんなにも星が……」
パトリシアがスンスンと鼻を鳴らしてリュートの匂いを追っていく。時折、何かに警戒するように足を止める。そのたびにサラも注意深く周囲を見回した。やがて、草葉の陰に魔石のようなものが仕掛けられているのを発見する。近づいても反応しないところを見ると、事前にリュートが解呪しているのだろう。
(侵入者用の罠か? だが、リュートほどの魔術師なら自衛の必要など……いや、むしろこれは人避けの術式か)
彼が以前口にした言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。
「僕は、忌み子ですから……」
しばらく進むと、森が不意に開けた。切り株で囲まれた小さな広場の中央には、土壁の二階建ての家が静かに佇んでいる。離れへと続く小径、煙突から立ち上る湯気。香ばしい匂いが漂い、空腹を刺激した。
ガチャリと扉が開き、リュートが勢いよく飛び出してくる。
「おかえりなさい! 食事の用意ができてます。……それとも、お風呂にしますか?」
どこか新妻を演じるようなその調子に、サラは苦笑しながら応じた。
「遅くなってすまない。今晩は世話になる。……では、先に食事をいただこうか」
パトリシアは併設された馬屋へ。新しい敷き藁と清水が用意され、満足げにゴロゴロと喉を鳴らしながら転がっていた。
二階の客間で剣の手入れをしていると、下からリュートの声が届く。
「準備ができました!」
暖炉のある食堂に降りると、昼に仕留めた熊肉が見事に調理されていた。
「これは……街の宿屋でもなかなかお目にかかれないぞ。ありがとう」
「時間がありましたので、圧力鍋で煮込んでみました。お口に合えばうれしいです」
熊肉は舌の上でほろりと崩れ、香草の香りが臭みを打ち消していた。添えられたポテトは切れ込みが入り、揚げ焼きされた表面が香ばしくバリっと音を立てた。
「このポテトは……?」
「ハッセルバックといいます」
聞き慣れない名だった。母親の祖国の料理かと問おうとして、無邪気な笑顔に水を差す気がして口をつぐむ。
代わりに村人の反応を話のネタにしつつ、二度もおかわりを重ねて、ようやく満腹になった。
「片付けはこちらでしますので、お風呂へどうぞ。湯も温かいですよ!」
促され、サラは風呂へ向かった。
脱衣所には寝巻きまで用意され、浴槽は足を伸ばしても余るほど大きく、龍の口から絶え間なく湯が注がれている。魔石を押すと泡風呂や電気風呂が起動し、筋肉の疲労すら溶かしてくれた。
「リュートといると、退屈しないな……」
サラは呟きながら、湯に顔を沈めた。
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「よし、匂い消しの『消 臭』も唱えた。問題ない。自分は……できる子だ……!」
リュートは自らを奮い立たせ、そろりそろりと脱衣所へ忍び寄った。
「落ち着け、自分。数を数えろ……3、5、7、11……って、それラスボスの好物じゃないか! だめだ、違う。3、5、11、17……スーパー素数! ……いや、それ何だっけ!?」
一人乗りツッコミが漏れそうになり、慌てて『鎮 痛』を唱えて気持ちを落ち着ける。
(よし……いざゆかん。無限のどこかへ!)
音を立てぬよう慎重に、忍び寄り、震える指先でサラの脱ぎ捨てた衣を……
「――コホン。剣士にその魔術は通じないぞ」
「っツーー! す、すみませんでしたああああっ!!」
リュートは即座に五体投地し、地面に顔を擦りつけるように土下座した。
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湯上がりのサラがテーブルに着き、パチン……パチン……と鯉口を切りながら目を閉じる。対するリュートは、もはや調理台の上の鯉そのものだった。
(つい出来心で……いやサラさんが魅力的で……ポルナレフが……ナニなれふで……)
脳内で言い訳をぐるぐる回していたその時――
「――ひょっとして君の親は、シドか?」
リュートの思考が止まった。
「君は鎧の裏の銘を確かめたかったのだろう? あの下着に手を出していたら切っていたが、君が手にしたのは鎧だった。初めて会ったときも、この鎧が魔道具だと見抜いていたな。……つまり、最初からこの鎧を知っていたのでは?」
リュートは天井を見上げて深く息を吐き、それからまっすぐサラを見た。
「……見抜かれていたとは思いませんでした」
そして静かに告げる。
「初対面で鎧を脱いでほしいとは言えず……失礼を承知で、覗き見させていただきました。銘が、母様のものかどうか確かめたかったのです」
「ま、待て。今、母親と言ったか? シドって男の名前じゃ……」
「母様は“男の方が信用されるから”と。自身は助手として通していたそうです。……本名は、ルーシアといいます」
サラは椅子に座り直し、膝の上で指をトントンと打った。
「なるほど……シドが女性だったとは。道理で消息が掴めないわけだ。作品は少ないが全てが銘品。手に入れたがる者は多い」
「サラさんの鎧も、母様が語っていた特徴に完全に一致していました」
「……で、今はどこに?」
「分かりません。行方不明なんです」
リュートの声は沈んだ。
「……この鎧には何度も命を救われた。もし何か力になれるなら、話してくれないか」
サラの声には温かな真剣さがあった。
長い沈黙の後、リュートは小さく頷いた。
「……分かりました。少々お待ちください」
立ち上がり、壁へと向かう。指先に灯した四色の光球を壁に放つと、魔術陣が浮かび上がり、一冊の革張りの本が出現した。
「これは……母様の日記です。他人に見せるようなものではありませんが、語るには必要です。僕の生い立ちも含めて……少し、お話しさせてください」
暖炉の薪が崩れ、小さな炎が揺れていた。