半裸のカラス仮面達が現れた!
自身の奴隷の中でも一際異質な彼女を、エルクドは内心で恐れていた。
今回のような機会に有意義――ドルマスの顔を汚さないよう――に処分しようと考えるくらいには、だ。
初対面の時の印象が、その意識の大部分を占めているのは間違いない。
だが、実際には他にも多数の原因が有ったのだ。
まず第一に、彼女は奴隷である事を何故か誇らしく感じている節がある点だ。
一般的な――近衛を含めた――奴隷の特徴は、大まかに分けて三種ある。
自身の境遇に絶望し、放心状態の者。
縮こまり震え、怯えた瞳を潤ませる者。
怒りのままに暴れ、睨み付けてくる者。
一見違うものに思えるが、エルクドにとってはその須らくが同一だった。
なぜなら彼の性癖をその身で体験した者は、皆一様に暴力による畏怖と薬による快楽に溺れ、最終的に物言わぬ従順な道具と化したからである。
それこそ反抗の意思など抱けぬほどに、文字通りの〝調教〟を施した。それ故に彼女らは命令した事しか実行に移すことはない。
しかし、チコは異質だったのだ。近衛という最も近しい奴隷の一人であるというのに、目を離すといつの間にか思いも寄らぬ行動を取るである。
これは、命令を聞かないという訳ではない。むしろいち早く応え、直ちに遂行するほどには従順だった。
では何が問題なのか、だが。
一言あげるなら、どんなことも度が過ぎてしまうのだ。
エルクドとの初夜も然り、彼女は主人を心配する余り、逆に煽るような発言をしまう事も度々あった。
以前耐えかねたエルクドが「命令があるまで何もするな」と命じた時などは、それは飛んだ惨事へ発展してしまった。
当然主人に忠実なチコは何もしない。……そう。言葉の通り、何もしないのだ。
そんな彼女を、命令した事すら忘れたエルクドが発見したのは十日ほど経った頃だった。
側女であるココに促されたのだ。最近あの騒がしい女性が見えませんね、と。
そして、なんの気なしに命令を下した場所を訪れたエルクドは、また心に傷を負うことになる。
自明の理とはまさにこのことで、まるで幽鬼のような表情の薄汚れた尾耳女性が、命令時と全く同じ場所で今もなお佇んでいたのだ。
命令後、一切何も口にしていないのだろう。頬は痩け、唇はカラカラに乾いている。
それに加えて一睡もしていないのか、眼の下にはドス黒い隈が何重にも重なって見える。
当然風呂にも入ってはいない。それ故か、まるで本物の獣のような体臭が周囲の空間に漂っている。……言うまでも無いが、この強烈な悪臭の元凶こそがチコだったのだ。
「ヒッ!? チ、チコなのか? き、ききき、貴様一体、こんな所で何をやっておるのだ!」
「…………」
自身で命令を下しておいて何を言っているのかと言いたいところなのだが、これはしょうがないだろう。
まさかチコがその場から一歩も動かず、食事はおろか睡眠すら取らずに十日も過ごすとは思えなんだのだ。
「な、何を黙っている! 命令だ! 答えるが良いっ!!」
「エ、エルクドさ、ま……。も、申し訳、ありま、せん」
ここで勘違いしないで欲しいのは、別にチコが特別という訳でないという点だ。
獣人奴隷は言葉さえ理解できれば、命令を出来る出来ない関わらず文字通り完遂する。
つまりチコから見れば、当然の結実なのだ。
しかし、エルクドには〝それ〟が狂気に映った。
〝それ〟とは当然、言うまでもない。
幽鬼のような様相で糞尿を垂れ流し、謝りながらも何処か恍惚の表情を浮かべる変態である。
彼女からすれば、命令を完遂出来なかった――お漏らしをしてしまった――故に起こり得る手厳しい罰を期待したのだろう。
しかしエルクドから見れば、ただただ恐怖でしかない。要するに彼は今、ホラー映画を実体験しているようなものなのだ。
その一件以降、エルクドはチコに対し、命令時以外の自由行動を許可している。
彼女がエルクドの特別に近づいたと勘違いしてしまったのも、また反対にエルクドが彼女を恐れるようになったのも、このような出来事の積み重ねがあったのだろう。
話はチコが結界を破壊した場面まで遡る。
「一体何が、どうなっているのだ?」
思わずといった様子で、エルクドは誰に言うでもなく呟いてしまう。
それほどまでに異常な事態が、今まさに目の前で繰り広げられたのだ。
チコに命令を下した後、エルクドは配下の近衛を連れて結界の中心点から十分に距離を取った。
彼女の予想した影響範囲より十メートルほど、更に奥へと位置取りをしたのだ。
結果として、それは正解だった。
チコが命令通りに結界の呪符が刻まれた岩の一つを物理的に破壊した際に、強烈な閃光と突風のような衝撃波が発生したのだ。
指定の場所から離れていたというのに、エルクド達はその身を後方に吹き飛ばされるほどの威力である。
だが、そこまでならば問題は無かった。
エルクド達の眩んだ眼が再びその光を取り戻したとき、目の前にそれは美しい日本庭園が広がっていた。
そこには古めかしい木造家屋が一件のみ建っており、色取り取りの花々やたわわに実った果物が所々に配置されている。
中心には変わらず岩群が連なっている。正確にはチコが砕いたと思われる一角を除いて、だが。
魔法の存在する世界とはいえ、これほど大規模なものを隠す結界術を有する者など数少ない。
皇帝であるエルクドですら、その様なまるで魔法の様な魔法を目にしたことが無いほどなのだ。
以前に一度、語ったことがあっただろう。
この世界において魔法とは、あくまでも生活の一部を補助する程度のものが一般的である。
中でも平民と呼ばれる一般人が使う魔法は〝生活魔法〟と呼ばれていて、主に炊事や洗濯、掃除などに用いられている。魔道具による補助もあるが、それならば彼らでも日常的に魔法を運用できるのだ。
そして、魔力に富んだ魔法使いも杖などの媒体を用いることで増幅、あるいは効率化している。魔力に富んだ彼らですらそこまでしてようやっと実践レベルに達することが出来るのだ。
ならばこの規模の魔法を唱え、また維持するほどの魔法使いは一体どれほどの実力者なのだろう。
少なくとも、このような辺境の地に存在していて良いものでは無い。
簡潔に言えば、明らかに異常な超越者なのである。
「エルクド様! チコさ――いえ、隊長を発見致しました! しかし――」
「――ふむ。その様子だと、漸く死んだか」
エルクドが目の前の光景に目を奪われている間にも、必死に捜索したのだろう。
近衛の一人が汗を頬に浮かべながらも、努めて冷静を装って通告している。
気持ちが焦り、普段の愛称で呼んでしまったのはご愛嬌といった所か。
「い、いえ! 酷い状態ではありますが、辛うじて生きてはいます。ですが、このままでは……」
「ちっ、しぶとい奴め。生き残ったのならば仕方があるまい。――案内せよ」
声だけでなく表情にまで不機嫌を現しながらも、エルクドは近衛にそう告げた。
なんだかんだと言いながらも、どうせ死ぬ事は無い。この程度で死ぬならば苦労はしないのだ。
最初から分かりきったことだとばかりに、彼は命令を下した。
その態度に気圧されながらも、近衛は命令通り現場までの案内をするために歩き始めた。
「……? 〝それ〟が、そうなのか?」
「ハッ。まず間違いありません」
砕けた岩群から数メートル手前に〝チコ〟は居た。
エルクドが〝それ〟と評したのは実は悪意からでは無い。単純に彼の眼に映ったものが、〝焼け焦げた肉塊〟だったのである。
余程の熱量だったのだろう。服は全て焼失し、全身は黒く焼け焦げている。
おそらくは右手の殴打にて結界の破壊を試みたのであろう。その証拠に肘から先が消失し、また同様に左足の足首から先も焼き切れてしまっている。
それでも彼女は、生きていた。ヒューヒューと辛そうに呼吸を繰り返していたが、それでも確かに生き残ったのだ。
「ふ、ふふ……。何とかなるものです、ね。……これでまだ、ご主人様の、お役に立てま、す」
おそらく意識は無いのだろう。白く濁った両目を薄く開き、うわ言のように呟いている。
(ひぃぃっ! こ、此奴、まだ息があるのか。……しかし、流石に手遅れだな。余を守ってここで死んだと叔父上にはお伝えすることにしよう)
まさか生き残るまい。しかしそれでも何だかんだで無事に生還し、自身を苛つかせるのだろう。
心の何処かで、エルクドはそのように考えていたのだ。
(最後の最後まで余に恐怖をあたえるとは、な)
彼がそう愕然としたのも仕方がないことだろう。
「おい。いつまで余の目にそのような無粋なものを晒すつもりだ。さっさと始末しろ!」
「ハッ!? し、しかし――」
「早く処分しろと言っている! 愚鈍な奴め、何度も言わせるでない!」
結果として、確かに生き残った。しかし、どう見ても手遅れである。
何よりこのようなボロ雑巾となった彼女など、最早不要の長物でしかない。自身を飾る置物としての価値すら、今この瞬間に無くなったのだ。
命令を終えたエルクドの興味は既に彼女から逸れ、周囲に広がる不可思議な光景へと移っている。
呆然としていた近衛の一人が尻を儀礼剣の鞘で小突かれ、慌てて走り出した。思わぬ命令にショックを受けているのか、その足取りはいつもより重いような印象を受ける。
そして、それが結果としてチコの命を救うこととなる。
少しばかりの遅延はあったが、エルクドの命令通りに近衛の一人が剣を垂直に振り上げた。後はタイミングを合わせ、振り下ろすだけの単純な作業である。
命じられた彼女は目を瞑り、ままよと言わんばかりの袈裟斬りを繰り出した。だがしかし、手ごたえが無い。不思議に思いそっと目を開けると、焦げた地面しか映っていない。
そう。白刃が今にもチコに触れようかというその瞬間、まるで手品のように彼女の身体が消えてしまったのだ。
正確に言うならば、彼女だったそれが霧散し、代わりに大量の烏が内から外へ飛び立ったのである。
余りの異常な事態に、せめて彼女の最後を看取ろうと囲っていた尾耳の近衛達は一人を除き、須らくその可愛らしい尻を地面に押し付けることとなる。
その中でも、一番驚いたのはエルクドだろう。
チコに背を向けて周囲を散策していた彼の背後から、ギリギリ当たらない距離感で大量の烏が自身の脇を通り過ぎていったのだから。
そしてその直後。それを巻き起こしたであろう張本人が、皇帝である自身に堂々たる立ち振る舞いにて要求しているのだ。
それも、先程まで死にかけていた変態を脇に抱えるというおまけ付きで、である。
情報が全く整理出来ない。しかしそれでも、自分に対して要求を突きつけるその傲慢さに苛立ちが勝ったのだろう。
「――貴様っ! 誰だか知らぬが、その不遜な物言いは許せるものではない! 自らの命を持って詫びるが良い!!」
エルクドは、突如現れた不審な人物に対し、息するほど自然に命令を下していた。
そして、謎の人物の交渉と呼ぶには余りにチープなその要求は、やはりと言うべきか破談したのである。
(どうしてこうなった? 要らぬものを無償で引き取り、その上で更に情報までやろうというのに、何故彼は憤っているのだ……?)
仮面で顔を隠した人物――つまりはイサギなのだが――は、相手の反応に困惑して眉間に皺を寄せた。
その間も休まず、常に攻撃してくる尾耳達を軽くいなしながら、彼は深く思案を巡らせていた。
実はこの森は彼のテリトリーの一角にあたり、範囲内の状況は部下の目を通して既に承知しているのだ。
その全てを理解しているという訳では無く、全体的に俯瞰した目線で眺めているといった表現が一番正しいだろう。
しかし、今回のように一点を注視して見るのなら、情報を取り逃がすことはまずありえない。
要するにイサギとしては、ある意味善意を持ってチコを引き取ったつもりなのである。
故に理解が及ばない。何故チコは抵抗し、何故エルクドが憤るのか。
何よりその状況下でも、彼は自身の要求を突きつけるほどには図太いのである。
(これでは確かにシュウ君や椿沙に、「鈴音さんは人の気持ちが分からないからなぁ」と呆れられてもしょうがないのかも知れないね)
イサギは考えながらも流れのままに最後の尾耳の首に手刀を落とし、その意識を刈り取った。
気がつけばいつのまにか、彼の周りに立つ尾耳はチコ一人になっていた。
件のチコも、未だイサギの片腕の中に包まれている。
脱力状態で振り回された筈なのに、不思議と不快感はないようだ。むしろダンスのパートナーとして一緒に踊ったような高揚感でもあるのだろう。その頬は薄く桃色に染まっている。
瞳はイサギを捉えて離れない。今の彼女は彼しか見えていないのか、ご主人様がずっと何かを喚いているのにピクリとも反応を示していない。
そこには当然イサギの”特性”が関係している。
これも以前語っただろう。夜烏において、イサギの担当は〝女〟である、と。
要するに女性に対して、特に有効な能力を所持しているのだ。
イサギは全属性に適正を持ち、それを行使するための魔力も他と比べて桁違いに多い。
しかし彼女が彼となる以前は、火と闇の二属性を得意としていたのだ。
つまり火を操ることで物理的に相手を熱くさせ、闇を扱うことで心の隙間を揺さぶるのである。
そして何より凶悪なのが、特性だ。
『技能拝受』。その名の通り、彼は契約下にある自身の奴隷の権能の一部、或いは全てを自身でも扱うことが出来るのである。
夜烏を構成するために編み出した呪術、その名を『奴隷誓約』という。
これは、上記の権能を受け取るために対象となる奴隷達と交わしている誓約である。
そして奴隷契約に必要な条件なのだが、基本的に〝心・技・体〟の三種に区分される。
〝心〟は忠誠心や愛情などの感情。〝技〟なら戦闘や鍛治、商売などの技術を提供することを主体とし、〝体〟ならその身体を持って奴隷としての本懐を遂げる。
そして主はその代わりに、衣食住などのある程度の〝自由〟を奴隷たちに提供するのである。
この自由度は各誓約ごとの誓約レベルによって変動する。つまり主を敬愛すればするほどに、得られるものが増えるということになる。
奴隷に自由を与えるという一見本末転倒な結果に結びつきそうなその呪術は、しかしながら彼らの逆に帰順心を擽るのだ。
ちなみに何を求められるかはイサギ次第。彼にとって有用だと判断した場合のみその誓約は成立する。
それは何も一つに限らず、心技体すべてを求められる場合もある。例を挙げるならば、幹部やドレイレブンだろう。彼らは一つの例外も無くその全てをイサギ、またはアイヴィスに捧げている。
纏めるならば、イサギは誓約を結んだ奴隷の数だけ強くなるということになる。奴隷王の名は伊達じゃないという訳なのだ。
これで漸く、何故変態が恋する乙女のような反応を示したかが紐解ける。
つまり、配下の能力の一つである『魅了』が彼女を惑わしているのだろう。
変態すらも魅了するその魅力。蠱惑と呼ぶに相応しい権能を行使し得る彼女は言わば、〝女性特攻〟なのである。
「おい貴様らっ! 一体何をしているのだ!? さっさと立ち上がって余を守れっ!」
「……ふむ。皆全て気を失っている。その命令は酷というものだろう」
時間にして一分に満たぬ前に、エルクドを守護するその全てが地に伏せた。
決して派手な戦闘ではない。イサギに向かって行ったものが、順々に意識を刈り取られたのである。
一人は飛びかかり、一人は地を這い、一人は背後から切りかかった。
三人によるその多角的な攻撃を回避するのは困難に思えた。ましてやイサギは片腕でチコを抱えているのだ。
しかし、彼は怯まなかった。
まず、飛びかかってきた者の直前まで瞬時に移動して首根っこを右手で掴み、その勢いで空中で一回転させた。
頸動脈を抑え更に回転を加えたためか、その娘は一瞬でブラックアウトしていまう。
次の犠牲者は地を駆けるように迫っていた娘だ。
先の戦闘の最中で回転した娘の爪先が顎の先を掠めたのである。脳を揺さぶられたのか、駆けた勢いのまま地面に滑り込むように崩れ落ちた。
最後は背後から切りかかった娘だ。
袈裟斬りで背後から虚をついた筈だった。しかし踏み込んだ先でバランスが崩れてしまう。
原因は言わずもがな、地を駆けた娘の頭頂部が自身の下腹部を目掛け突進してきたからである。
予期せぬ衝撃で身体をくの字にくねらせた娘。その隙をイサギが逃すわけもなく、首に手刀を落とされ気絶することになったのだ。
何よりその後が残念でならない。
最初の娘は下着をお天道様に晒しながら気を失い、残る二人も互いの下腹部に顔を埋める結果となったのだ。
幸いにも当人達が知ることはない。しかし周りを囲うものは違う。
その余りにもな惨状に、思わず二の足を踏んでしまうほどには衝撃的な結末だったのだ。
直後、そんな彼女らにも不幸が襲う。
自身の背後から突如、何者かに拘束されたのだ。
その者らは皆、自身の影から現れた。
姿形を見るからに、明らかに人知を超えている。そう感じてしまうほどには異様な雰囲気を漂わせる者達だ。
(((((へ、へへへ、変態だぁぁぁっ!!!?)))))
近衛全ての意思が統一された瞬間である。命令を受けて行動を共にすることは多々あれど、心まで通わせることはごく稀である。
そう、現れたのは変態だった。チコと同様か、或いはそれ以上の。
それは性格が、という訳ではない。そもそも初対面? で、性格の良し悪しなど分かる訳もない。
では何故それほどまでに彼女達の意思が統一されたのか? それは実に簡単である。そう。問題なのは、見た目だったのだ。
彼らが魅せる、その筋骨隆々なその肢体。まさに肉体美とはこれを指すとばかりのアピールぶりだ。
何せ裸なのだ。しかし全裸ではなく、頭頂部と下腹部はしっかりと覆っている。
そして下腹部には、ぴっちりとしたブーメランパンツのような布を着用している。
その色は黒、飲み込まれそうなほどの漆黒である。
だがここまでならギリギリセーフといえよう。何せ、可愛らしいモンスターをボールに詰め込む物語にも同様の存在が登場しているからだ。
しかし、問題は頭頂部だった。
そう、皆同様にペストマスクを被っているのだ。下着と同じ、漆黒の。
ちなみに手には同色の手袋をはめ、足にはこれまた同色の足袋のようなものを着用している。
そして、彼らの愛の抱擁が始まった。これは決して卑猥な交渉ではない。
『筋肉抱擁』と呼ばれる、歴とした技なのだ(本人談)!
まさに文字通り、自身の筋肉を用いて相手を締め付けるのである。
近衛は皆、阿鼻叫喚の雨霰。生理的に受け付けないのか、がむしゃらに暴れ、もがいている。
しかし、筋肉は緩まない。一様に、皆を締め付けるのみ。
そして、彼女らは口からあぶくを吐き、その意識を失った。皆同様に外傷はない。しかし、心の方はどうだろう。まさに神のみぞ知る……いや、神も知りたくないだろう。
良い仕事したとばかりに、「ふぃー」と一斉に汗を拭く変態さん達。
そしてそんな彼らに向け、良い顔でサムズアップするイサギさん。
同様に親指を天に突き付けた彼らは、にこやかな笑顔を残して影の中へと消え落ちていった。
圧倒されたエルクドは、その異様な光景に大口を開けてしまう。そして、そのまま眺めることしか出来なかった。
チコの次点であり、互いに拮抗した実力を持つ三人が瞬時に無力化されたのだ。
それだけでも衝撃だというのに、目の前でコミカルな連中が猛威を奮っていったのである。
彼の反応も、全く以てしょうがないだろう。
「さて、皇帝殿。先程の条件、どうか飲んでいただけないだろうか?」
「ひっ!? ひぃぃぃっ!!」
いつの間に近づいたのか、無音で目の前に現れるイサギ。思わずエルクドは尻餅をつき、その体勢のまま後ろに後ずさってしまう。
まるで、いつかのようなその光景がフラッシュバックする。
そう、この感覚はチコとの初夜と同じなのだ。
つまり目の前のこの人物が、自身の手に負える存在ではないという証明とも呼べるだろう。
何せあの時と同様に、身体の震えが止まらないのである。いや、相手がパッと見て無害そうな分更に異常だと言える。
(こ、此奴はやばい! 明らかにおかしい。このままでは余もあの凶悪な筋肉に押し潰されてしまう!!)
エルクドは思案する。追い込まれ、その速度は加速していく。
この瞬間、彼は『思考加速』を取得した。文字通り思考する速度を上昇させる希少に位置する特性である。
現実に経過する時間以上に、考える時間が長くなるのである。熟練度を上げることにより、その時間は増加する。
人は追い込まれると力を発揮すると言うが、まさにこの瞬間のことを指すであろう。
二度目の危機において、彼の能力が開花したのである。
それに気がつかぬまま、エルクドは必死に策を練る。どうすればここ危機を脱却出来るのか、を。
一つの答えが浮かび上がる。
(そうか! 此奴はチコを求めていた。つまりは余と同様に、尾耳を愛でる同士であろう。で、あるならば……)
「あいわかった! その条件を飲もうではないか! ついでにそこに転がっている奴らもくれてやる!!」
「む? い、いや、私はこの娘だけで良いのだが――」
「ハッハッハ! どうやら貴殿も余と同じ趣向を持つようだ。遠慮などするでない、余は寛大なのでな!」
形勢が不利だと踏んだのだろう。条件を飲むだけでなく、おまけとばかりに自身の近衛を譲渡することにしたらしい。
当然イサギは困惑する。彼としては降り掛かる塵芥を払い、交渉を円滑に進めようと近づいただけのつもりだったのだ。
そうとは知らないエルクドは必死である。何せ、どうしようもないのだ。
奴隷契約が無ければまず敵わない。自身から見ても相当な実力を持つそんな近衛達が、まるで赤子の如く軽くいなされてしまったのだから。
(ふむ。良く分からないが悪くない。中古ではあるが、かなりの上物。うん、ついでにシュウ君にあげようか)
「要らないと言われても、他に使い道はあるからね」などと、一人で納得顔を浮かべるイサギさん。
謀らずして業が深まる何処かのアイヴィスさんが、思わず身震いしたのも仕方のないことだろう。
(な、何とかなったようだな。余の交渉術も捨てたものではない。尾耳の娘らを失うのは少々痛いが、ココさえ取り戻せれば何も問題はない)
満足そうなイサギの表情を眺め、自身の窮地を脱したと肩の力を抜くエルクド。
出費は痛いが、命には変えられない。何よりココさえ居れば、その他大勢などどうでも良いのである。
最悪叔父に頼めば、直ぐにでも変わりが集まる。近衛といえど、彼にとってはその程度の存在なのだ。
「お待ち下さいエルクド様! わ、私はエルクド様の近衛です! それはこの先も変わらずずっと――」
「黙らぬかチコッ! 貴様は何故いつも余の邪魔立てをするっ! 何故余が貴様を疎んでいることを理解出来ないのだっっ!!」
イサギの能力に当てられ、半ば意識を喪失していたチコが覚醒する。
エルクドが自身を手放すと明言したからだろう。その言葉が彼女をイサギの魅了から解いたのだ。
何と健気な忠誠心か。イサギが思わず目を見開き見つめるほどには魅力的である。
しかし、それを向けた先であるエルクドは、まるで苦虫を噛み潰したような表情に変わっている。
そしてその表情が語るままの内容を、自身の近衛に向け思い切りぶつけた。
せっかく纏まりそうになっているのに、水を指すようなことを言うでない。誰が見てもそう見えるほどにどストレートな感情表情である。
そしてそれは余さずチコに伝わった。貴様は用済みだ、最早余と共にいる事を許さぬ、と。
「そ、そんな……。い、言われた通り、生き残ったではないですか! 何故っ! 何故私を受け入れて下さらないのですかっっ!!」
両目から大粒の涙が零れ落ちる。ずっと溜まっていたのだろう。留まることなく重力に引かれ、地面に落ちていく。
まるで子供の癇癪のようなその叫びは止まらない。何故、どうして、私の何がいけないのですか……。そういった負の感情が言葉を介し、止め処なく溢れ出す。
その勢いは、一時の静寂を齎した。
イサギは兎も角、エルクドが呆気に取られているところを見る限り、彼女がこのように泣き崩れるのを見たことが無かったのだろう。
ずっとその顔にしてやりたかった。自身の手で、強い彼女を絶望させ、屈服させたかった。
そう。彼女に冷たく当たったのは、エルクドのそんな子供じみた欲求の裏返しだったのだ。
皮肉なことに、手放す最後のこの瞬間に彼のその願いは叶う事になったのである。
「チ、チコ。貴様――」
「ふむ。では契約成立で宜しいだろうか?」
エルクドが何かを言いかけたその瞬間、イサギは被せるように確認を求めた。
相変わらず空気を読むことをしない。いや、この場合は敢えてそうしなかったのかも知れないが。
「ふ、ふむ。問題ない」
「では早速奴隷契約の変更といこう。私はこんな見た目だが、呪術は得意としていてね」
流されるままに返事をするエルクド。
対するイサギは誰も聞いていないのに、得意げな雰囲気で語っている。
見た目でいうならば、むしろ呪術特化してそうなのもご愛嬌といったところか。
「ふむ。恙無く終了した。これでチコ君とその同僚は我が支配下に置かれる事となる」
時間にして数分で、契約は書き換えられた。
その間、チコは俯き啜り泣き、エルクドは神妙な表情でそれを眺めていた。
漂う微妙な空気。本来であれば口を開くことすら憚れるだろう。
「ふむ。実行した後でなんなのだが、やはり皇帝殿にとって割が合わぬように思える」
「?」
やはりというべきか、流石というべきか話を始めるイサギさん。
不意を突かれたエルクドは、声を出さずに疑問符を浮かべている。
「情報だけでは足らないだろう。よし、私がその場へと案内しようではないか!」
「??」
一体この御仁は何を言っているのだろう? 理解が及ばぬエルクドは、更に疑問符を追加した。
にこやかな笑顔を浮かべるイサギ。口元だけなので、何とも胡散臭い雰囲気が漂っている。
突如、エルクドの肩をガッと鷲掴むイサギさん。その脇に一人残された近衛と思しき娘がビクッと身体を震わせる。
「ふむ。君は条件に入っていない。故に同行すべきだろう」
「へっ!?」
エルクドと同様に肩をガッとされる元衛生兵であった尾耳の娘。戦闘行為が不得意のため、先の戦いでは出遅れたのだ。
つまり、唯一転がっている奴らに含まれなかったのである。
エルクド当人はキョトンとしている。慣れない思考加速の反動によって、イサギが語る意味が理解出来ないのかもしれない。……おそらくだが。
「ではさらば! 貴殿らの命運を祈る!」
「「ちょっ! 待――」」
反論する間も無く漆黒の闇へを放り込まれるエルクドと尾耳の娘。
旅立つ彼らにそう一言添えると、直ちに踵を返しチコへと向かうイサギ。
そして、その先では先程の筋肉美達が再び現れ、気絶した尾耳の娘を担いで闇の中へと消えるのだった。