ウチの旦那さんが変態を勧誘してるのですが!
魔女の森。何となくしっくりは来るのですが、そもそもどうして魔女は森に住んでいるのでしょうね。
魔女の森。その名は何時からついたのだろう。彼、または彼女の姿を見たものは数入れど、その正体は未だ未知のままである。
ある旅人は言う。それは美しい女性だったと。
森で行き倒れて気を失い、ふと目覚めるとそこに映るのは木目の天井と古びたランプがあった。けだるいままに身体を動かすと、どうやらベットに寝かされ介抱されていたらしいことを知る。
段々と意識が覚醒していき、自分が腹を空かせていることを思い出す。すると何処からか焼きたてのパンのような香ばしい香りがするではないか。
その匂いに誘われてふらふらと歩みを進めると「あら、目が覚めたのですね。暖かいスープが出来ていますよ。どうぞお召し上がりになって下さいな」と、柔和な笑顔を浮かべて見知らぬ女性が語り掛けてくる。
確かに美人だという記憶がある。だが思い出せるのはその笑顔が浮かぶ口元と、馳走になった美味なる食事の数々だけだった。
回復するまで数日過ごしていた素朴な小さな部屋も、時期の野菜が実りまた花が咲いていた庭園も確かにあったのに、お礼をしようと再び訪れた時には既にそこには存在していなかったそうだ。
風の噂が広がった。その出来事より旅人は、人々相手に魔女に助けられたと語る内に詩に目覚め、詩人として各地を巡るようになったそうな。
またあるチンピラは言う。それはそれは大きな美丈夫だったと。
町で悪さをし、衛兵に追われている内に迷い込んだその場所で、三メートルに届こうかと言うほどの大男に出会った。
肩まで伸びた立派な髭を蓄え、一心不乱に木を切り倒していたその男。背後には焚火があり、大きな肉の塊がじりじりとあぶられている。
丸一日程街を駆けずり回っていたので腹が減り、その目を盗みそれを奪おうと試みる。
すると先程まで確かに木を切っていたはずの男が消え、背後から「まだ、生、だ。その肉、そのまま、腹壊す」と、片言で話しかけられたそうだ。
あれほどの図体を誇るのに全く気配がなく、また足音も聞こえない。チンピラは怖気が走り、自身の愛用している短刀を抜いた。
じりじりと距離を測る。しかし相手は此方を向きもせず、微塵も動じない。その態度に腹を立て、自慢のスピードを持ってその懐へ飛び込んでみる。
すると「いいもの、持ってる。ちょっと、私、貸す」とまた背後から声を掛けられ、再びの狼狽が彼を襲った。そして、その合間にその大男に自身の獲物をひょいっと奪われてしまった。
圧倒的な実力の差に絶望し、どうにかこの場から逃れられないか模索する。完全に圧に押されたのか、額からは冷汗が止まらない。
そんなことなどまるで位に返さずに、大男は焼かれている肉に短剣を入れる。その様子はまるで無防備で、いつでも逃げ出せるような気がする。
チンピラ自身の経験からくる勘が、間違いなくそう伝えてくる。しかし、先程も背後を取られた。
彼は油断なく大男を正面に見つめ、すり足で後退する。男は自身の愛剣で未だ肉を削り取っている。武器を失うのは痛いが、目の前の脅威から逃れるためには致し方ない。
その姿が豆粒ほどになった時、ホウッと大きく息を吐く。流石にこの距離を開ければ安心だろう。そう考え、先程から背中に触れている幹と思われる物体に背中を預けた。
「肉、持ってく。剣、返す」
「ひゃああああっ!」
まるで女子の様な悲鳴を上げ、一心不乱に逃げたそうだ。逃げてる最中も背後からずっと声を掛けられ、涙ながらに町まで戻り門番に「頼むから、俺を牢に入れてくれ」と懇願したとのことである。
後日、震えながら語るそのチンピラの情報の元その場に向かったが、所謂木こり場のような場所は存在せず、また美丈夫もいない。どうしたものかと困っていたところ、葉に包まれた燻製肉と短刀が見つかったそうだ。
その後の確認で短剣がチンピラの物だと分かり、魔女に化かされたのではないかという噂が立ったのだ。
罪を償い、牢を出たその彼は助けられた事をきっかけに街を護る衛兵となり、それはそれは熱心に働いているという。
各地で語られる魔女の噂。幾度となく生まれる魔女の話は燻り広がり燃え盛る。発端であるこの森も、今や戦火に包まれてる。戦乱の炎に包まれた住処のこの有様を彼、または彼女はどう見ているのだろう。
悲しみ嘆き怒るのか、全く位に返さずに次を探すのか、それともそもそも幻なのか。互いしか見えぬ侵略者達は、ただただ憎悪と欲望に染まり深緑の森を蹂躙するのだった。
「馬鹿なっ!? エル――我らが皇帝が自ら前線に出立した、だと!?」
数ある似た様な天幕の一画で、一際大きい怒声じみた声が上がった。声の主はドルマス。場所替えをしたのか、先日とはまた別の天幕内で似た様な羊皮紙の束に囲まれている。
手にした資料と思しき束を乱暴に机に放り投げたことからも、その心中は計り知れる。
「ハッ! その通りでございます! 先達した部隊を、近衛と共に追走している模様であります!」
「何がその通りだ馬鹿者っ! いつ出立したのか知らんが、手遅れにならん内に連れ戻すのだ!!」
ここ最近では珍しく、ストレートに怒りの感情を露わにしている。その事からも、彼の埒外の範囲で状況が動き始めていると言えよう。
怒鳴られた部下も怒られることが解っていたのか、表情を変えずその叱責を最後までしっかりと受け止めている。
「恐れながらドルマス様。エルクド様より追うなと命令を賜っております故、その命を受けることが出来ません」
「――そんな事を言っとる場合かっ! エルは戦場を知らん! 何より敵の未知の技術もまだ明らかになっておらんのだ。迂闊に飛び込めば、それこそ万が一が起こりえるやも知れぬだろう!!」
正論を持って論破を試みる部下。当然というべきか、その様な態度を取った部下に対しドルマスは激怒する。感情が高ぶっているせいか、皇帝を普段通りの愛称で呼んでいる。
実際、この作戦の最終決定権はエルクドにある。部下としてもそう伝える他ないので、この状況を予見していたのだろう。
「私も命令を賜った際にそう思い進言を試みたのですが、近衛に妨害を受けてしまいまして。……真に遺憾なのですが、私では立場的にも武力的にもまかり通りませんでした」
「ぐっ! エルの馬鹿は一体何を考えている!! 我らの優勢はあくまでも策あってこそなのだぞ!? 物量で勝るうえに戦闘力も未知数。それを見極めるための先兵だというのに……」
ドルマスが、問題を起こした兵士達に提示した一つの報酬である貴族への異例の出世と褒賞。そこには当然企みがある。
その一つが、敵戦力の把握だ。
先日の奇襲も、敵部隊に未知の杖を持つ部隊がいない事をわかった上で実行している。初戦の勝利は、相手の油断やその構成、夕暮れ時の森林という時間と場所など、多数の条件が成立したからこそ得られたものなのだ。
数で勝る未知の戦力に、正面から立ち向かうなど本来愚策以外の何物でもない。
しかし、使い捨ての駒としての運用なら有効だ。実際に戦闘を斜で眺め、どう攻略するか判断する腹積もりだったのである。
勝利を治めることが出来れば良し、首級を取れば尚良。最悪でも相手の手の内が晒されればいいのである。その過程で先兵がどうなろうが些事なのだ。奇跡的に生き残った場合の成功報酬も、帝国を落とせば十二分に賄える。
ドルマスからすれば、どう転んでも利に繋がる。持ち前の狡猾さを最大限に生かした作戦だったのである。
そんな中の皇帝の独断専行。自分で決めることの出来ないエルクドが、まさか自身の考えつかぬ行動を取るとは思わなんだのである。
かのナポレオンの名言の中に、「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」という文言がある。
現状こそその言葉通りの状況であり、完全に予定外。緻密に計算された策が、身内の愚行にて覆され始めている。ドルマスの怒りも仕方のないことだろう。
「――如何いたしましょう、ドルマス様」
「近衛を使ってまで先行したのならば、もはや聞く耳を持つまい。ここは彼女らの実力を信じるとしよう。儂はこれ以上状況が悪化せぬよう策を練り直す。主らは武装を強化しておけ、直接戦闘になるやも知れぬ」
ハハッと昨夜と同様小気味よい返事をした部下は、直ちに準備に取り掛かるべく天幕を後にする。
それを表情を変えず見送るドルマス。既に怒りは失せ、それに反比例するかの如く瞳は段々と冷淡な光を帯びていく。一体どのような策を練っているのか、静寂を取り戻した天幕内でそっと目を瞑るのだった。
「エルクド様。先日と同様の魔力を感じた場所に着きました。此処からそう遠くない位置に、寝室内に侵入した賊がいると思われます」
「そうか。チコ、そして皆の者。周囲を隈なく探せ。見つけ出して拷問し、ココの所在を探るのだ。余の所有物に手を出したことを、骨身に沁みるまで後悔させねばならぬ」
チコが周囲の様子を伺いながら、エルクドに報告を行う。場所は先達した部隊と自軍本拠地の丁度中間に位置する広間だ。まるで砂漠の中にあるオアシスの様に、ぽっかりと木々の無い空間が存在している。
中心には天を突くように鋭く尖った巨大な岩があり、その周りを囲むようにゴロッとした岩々が点々としている。
その全ての円周上に黒く焦げた様な色味の、文字とも絵とも取れる溝が刻まれている。現代日本でいえば象形文字に近いだろうか。
会話の内容からも、チコが場所を特定したのだろう。エルクドの指示を受け、正確な場所を探る為か岩の各所に鼻先を近づけ痕跡を追っている。
「しかし、よろしかったのですか? ドルマス様の了承を取らずに来てしまいましたが……」
「良いのだ。ただでさえ叔父上は戦略を練るので忙しい。余の私情でお手を煩わせるわけにはいくまいよ」
近くに控える近衛の一人がエルクドに誰何する。言うに及ばず、彼女も尾耳族の女性である。
その質問に特に気を悪くした様子もなく、彼は答えた。言動からも叔父であるドルマスへの信頼と敬意が感じられる。彼にとってドルマスは尊敬する英雄であり、また敬愛する父兄の様なものなのだ。
それ以上追及することなく、また静かに身辺警護と辺りへの警戒を再開する女性。
しかしそんな中、いつの間にか戻っていたチコが、思わずと言った様子で口を開いた。
「意外でございます、まさかエルクド様がその様に誰かを気遣われるとは……。よもや、悪いものでも口にされたのではありませんか? ――ハッ!? た、直ちに衛生兵を呼ばねばなりません!」
「「…………」」
悪気はない。そう、悪気はないのだ。寧ろ、本人は真剣そのものなのだ。しかし、その余りに人を煽ったような発言に、エルクドも身辺警護をしていた女性も絶句してしまう。
そうしている間にも、チコは近衛の中で衛生の担当者に声を掛けている。身振り手振りでその深刻さを表現していることからも、彼女の必死さが伝わってくる。
詰め寄られた衛生担当の女性はチコとエルクドを交互に眺め、あわわっと声にならない焦りを浮かべている。
それもそのはずだろう。何せ真剣に語るチコの背後に、ビキビキと額に青筋を立てたエルクドが立っているのだ。
「――何を狼狽えているのですか! 重症なのですよ、一刻を争います! 直ちに治療を開始してください!」
「重症なのは貴様だ馬鹿者っ!!」
ゴチンと鈍い音が辺りに響く。エルクドが腰に携えた儀礼剣をチコの頭上に振り下ろしたのである。……抜き身ではないだけ、まだましと言った所か。
「――痛ッ! え、エルクド様!? あの、痛みは心地よいのですが、背後から女性の頭上に鈍器を振り下ろすのは、流石にどうかと思いますよ」
やるならほら、正面からどうぞ! とばかりに頬を紅潮させ、両手を広げるチコ。もはやその性癖を隠そうともしていないようだ。
相変わらずいつぞやの悪夢が蘇るのか、途端に嫌な顔をするエルクド。正直言えば関わりたくないという感情が、言葉通り目に見えて分かる。何故此奴が一番有用な戦力なのか、と目頭を押さえて頭を左右に軽く振っている。
周囲でその様子を眺めていた近衛も皆、見慣れた光景に嘆息している。最近になって入隊したばかりの衛生兵の女性などは、目を白黒させて驚きの表情のままに固まってしまった。
「うぅ、先日入隊したこの娘にすら惜しみない寵愛をされているというのに……。どうしていつも私だけ、距離をお取りになるのでしょう……」
どんな暴力よりも一番傷つく反応を受け、チコはしょんぼりと狼耳を垂らし俯いてしまう。
本来であれば情欲をそそるその姿も、エルクドにとっては畏怖の対象でしかない。誰にでも言えることだが、心的外傷はそう簡単に克服出来ないものなのである。
ちなみにこの近衛は先の奇襲の際に捕縛された衛生兵で、唯の一人だけエルクドのお眼鏡に叶った尾耳族の獣人だ。他はすべて兵士達の好きにせよと、彼はドルマスに通達して放逐している。
雰囲気といい、顔立ちといい、何処となくココに似ているのは恐らく見間違いではないだろう。
「そ、そんなことよりもチコよ。何か気づいたことがあるのではないか?」
「――は、はい。周囲を取り囲む岩群を調査したのですが、その全てに絵で描かれた文字のような物が刻まれてしました。魔法に関しては種族柄それほど詳しくはないのですが、恐らくは何かを隠蔽している魔法陣のようです」
「ふむ。魔法による隠蔽、つまりは現状では賊を探しようが無いという事か。解呪となると専門の術士が必要となろう。――くっ! 一刻を争うかもしれぬのに、このような場所で足止めなどあってはならない! チコよ、貴様の馬鹿力でどうにかならないのか!?」
嫌なフラッシュバックを頭を左右に振ることでかき消したエルクドは、自身を奮い立たせてチコに誰何する。
沈んでいたチコも、多少どもったが気持ちを切り替えその質問に答えている。彼女が語るには何者かの意思によって、空間そのものが阻害されているとのことである。
その魔法の種類は空間魔法に属し、ただそれだけでも脅威になる稀な性質である。つまりこれを構成した術士は相当の実力を有していることになる。下手に解除を試みると、罠にかかってしまう可能性すら孕んでいるのだ。
「馬鹿だなんてそんな……はぁはぁ。――ハッ!? 失礼しましたっ! 結論だけ言うなら可能です。ただ、術式の一部を破壊する形になるため、不確定な事態を併発させてしまう可能性があります」
”馬鹿”と罵られたせいか、俯いた顔を上げ頬を染めるチコ。自身の部下らに薄目で見つめられて、漸く我に返ったようだ。
チコが言うには術式の一部を破壊してその部分の記述を消去することにより、隠蔽されているものの正体を見極めることが出来るかも知れないという事だった。
ただしかし、緻密に計算されているだろう魔力の流れを無理矢理寸断させてしまうことになる。それにより魔力が溢れ、氾濫した河川の様に暴走してしまう可能性があるのだという。
彼女ではどのような術式が組み込まれているかまでは理解できないので、想定以上の事態になった場合対処不能になる危険性を孕んでいるそうだ。
「――ふむ。もし仮に暴走したとして、その予想規模はどの位になる?」
「ハッ。これはあくまでも推測の域を出ませんが、周囲を囲む木々の様子から察するに樹木が茂っている場所までは影響しないのではと愚考します」
中心に並ぶ岩々を基準に円を描くなら、凡そ二百メートル程になる。そして範囲内には何故が木々が茂っていないのだ。
そこから導き出される解。それ即ちこの魔法の効果範囲であり、仮に術式が破壊された際は一番影響を及ぼすところだということだろう。
もし何かを隠蔽しているのなら、まず間違いなくどのような形であれ顕現することになることは明白だ。
その際に同じ座標にいた場合、起こりうる最悪を踏まえると実行に移すのは危険だという判断なのである。
「成程。それならば話は早い。――チコ。貴様一人でその術式を破壊しろ。我々は後退し、木々の影から様子を見ることにしよう」
「――ッ!? じ、人柱になれとおっしゃるのですか?」
「その通りだ。お似合いだろう? 貴様はどうやら甚振られるのが好きらしいのでな」
余のために死ねと即決即断。以前の優柔不断なエルクドは、既に姿を顰めているらしい。ここ三年間で、ある意味一番皇帝らしく成長した点であろう。
チコは珍しく狼狽する。普段の彼女であれば、殴打されようが罵られようがむしろ喜び破顔する。だが、今回に限りどうにも乗り気がしないのか、表情を曇らせている。
そんな様子に全く気付いていないエルクドは「むしろご褒美だろう?」とばかりに呆れ、両手を天に向け嘆息している。
「し、しかし死んでしまってはエルクド様を傍らでお守りすることが出来なくなってしまいます。……満足にご奉仕すら、出来ていないのに」
「む? 余のために死ねるのだ、本望であろう? 護衛は十二分に間に合っている。そしてそもそも貴様に奉仕を許す気はない。――せめて、最後くらいは余の役に立つが良い」
「そ、そんな――」
チコは食い下がる。自分は役に立てる、夜の奉仕だってまだなのだ。奴隷として、また近衛としてこのまま死ぬわけにはいかないのだ、と。
珍しく必死な進言も、エルクドの耳には届かない。彼にとって確かにチコは有用な駒ではあるが、同時に扱いにくい異物でもあるのだ。
敬愛する叔父に貰ったものであるからこそ、返却するのが憚れて今の今まで側に仕えることを許していた。
しかし。危機的な現状下に置いて駒として運用するのならば、むしろ叔父は褒め称える可能性すらあるのだ。
「ココが捕らわれ数日が立つ。もはや一刻を争う、余等の撤退を確認したらすぐに実行せよ。頑丈な貴様なら生き残るやもれん。そうなったらまた、側に仕えることだけは許可しよう」
「――了解、致しました」
そう、結局はそこなのだ。エルクドが進軍を強行した理由。その全てがココに集約する。彼女に比べれば他の有象無象など、路傍の石程の価値もすらもないのである。
エルクドとチコの目線が交差する。そしてその瞬間、彼女は悟る。ああ、良し悪しではなく純粋に興味がないのだ、と。
彼女自身、自分の性質については承知している。そしてその対象は、決して誰でも良いという訳ではない。”自身の主人であること”。これがまず、前提条件として必須なのである。
国が滅び、その影響で紆余曲折の後に奴隷として主人に紹介された当初。チコは密かに歓喜していた。
自国が健在であった際には得られなかった主人と出会え、さらにはその人物は特殊な性質を持ち合わせていたのだ。
他の奴隷とされた娘は皆怯え、絶望し、涙を浮かべていた。そんな中でチコだけは、この出会いこそ”運命”であるとすら感じていたのである。
しかし、現実はそう甘くなかった。
二人が出会った初夜であるその日に、”お前には手を出さない”宣言をされてしまったのである。
想像していたより苛烈な戯れに興奮を抑えきれず、逆に襲い掛かりそうになってしまったのが原因だ。そしてそのせいで、どうやら主人が自身に苦手意識を持ってしまったらしいのだ。
それだけでは無い。
初夜の失敗を挽回すべく奮闘しているのをあざ笑うかの様に、エルクドにお気に入りの奴隷が出来てしまったのである。
ココは主人であるエルクドと常に一緒に行動するだけでなく、遂には側女にまで登り詰めてしまう。つまり自分とは、一線を画す存在になってしまったのである。
だが、チコはめげなかった。毎晩響く嬌声やそれを及ぼす行為を横目に、コツコツと周辺警護やトレーニングなどで地道にアピールを続け、ようやっと近衛隊長まで辿り着いたのだ。
ココには及ばずとも、エルクドの信頼を勝ち得たと自負していた。今は無理でも、いずれは寵愛を頂けると信じていた。
そして今、悟ってしまったのだ。
エルクドは自分になど全く興味は無く、取るに足らないどうでもいい存在なのだ、と。そして、近衛全体ではなく自身のみに命令を下したことからも、出来ればいなくなって欲しいとすら思っている可能性すらある。
このとき、チコは生まれて初めて絶望を味わっていた。とても苦く、とても辛い。主人に必要とされていない。その事実が、彼女に苦痛を与えたのだ。
トボトボと中心に向かい歩き出したチコ。どんな感情を内に抱こうが、命令には絶対に逆らえない。それが獣人奴隷であり、自分自身の性でもあるのだ。
エルクドは既にチコへの興味を失ったのか、撤退の準備を始めた。慣れたものなのか、近衛も一人を除き気にした様子もなくそれに追従している。表面上は、だが。
ただ一人、チコとエルクドを忙しなく交互に見るのは元衛生兵の獣人女性だ。暫くの間狼狽していたが、エルクドが歩き始めたのをみてワタワタとその後を追いかけていった。
「――んっ!? ……まさか、”門”が壊されるとは、ね。ツグミが言うだけあって、中々稀有な存在らしい」
見慣れた一室。いつも通りの風景。アンティーク調の椅子の背を預け、一人の男が驚きの声を上げる。椅子と同種の古めかしい机に、先程まで口にしていた珈琲をその受け皿に音をさせずにそっと置き、自身の顔の上部を覆う仮面に手を触れる。
「ふむ。どうやら当人は気を失っているのか。周囲は武装した尾耳の集団に、ああ。例のお坊ちゃんも居るのか。やはり、藤色は優秀だね」
男は「さて、せっかくの稀なお客さんだ。私なりに、お出迎えでもしようではないか」と呟き、スッと立ち上がる。
無造作にバサッと着床している黒いフード付きのマントを翻す。重力により直下へ向かい、自由落下するひらひらが床面に触れたときには、既に男の姿は無くなっていた。
それとほぼ同時に、窓の外で無数の烏が飛び立った。その姿は夜闇の如く漆黒で染められている。
様子を近くで控え終始眺めていた尾耳のメイドは、何とも優しい表情を浮かべてその落下したマントを丁寧に畳むのであった。
――一体、何が起こったの? 頭がぼーっとする。このまま少し、横になっていたい。
揺れる視界。働かない頭。風切り音の様な耳鳴りもする。鈍く重い身体に命令をすると、手足からゆったりではあるが信号が返っていた。
――そうだ。確か私はエルクド様の命令で、魔法陣の一部を破壊したんだった。
先程の反応からも、どうやら自分は生きているらしい。
――良かった。これでまだ、エルクド様のお傍にいることが出来る。
心底からホッとする。主人のいない辛さは、一番近くでずっと見てきている。お師匠は、結局最後まで主人に巡り合えなかった。厳格な彼が、何度酒の席で嘆いたことだろう。
――でも、本当にこれで良いの? エルクド様は、私を求めていない。このまま尽くしたとして、それが今後報われることなんてあるのかな?
ずっと我慢している内の欲求。主人の役に立ちたい、求められたい。出来得るなら、愛して欲しい。そんな思いに支配される。
――ハッ!? だ、だめだめ! ご主人様に何かをお求めしてしまうなんて、不敬が過ぎます。……亡くなったお師匠に笑われてしまうわ。
不意に湧き出た本音を、どうにか封殺しようと頭を振る。実際はそう命令を送っただけで、実行は出来ていないのだが。
「む? 目が覚めたのか? 気分はどうだ? 口は聞けるか?」
自分が身じろぎしたのに気が付いたのか、聞きなれない男性の声が揺れる頭に響く。聞いたことの無い声なのに、何処か懐かしい。
――誰だろう? 視界がぼやけてよく見えない。……嘴? 鳥人族? 知らない人だと思うけど、何だか安心するな。
「こらこら、寝ようとするな。流石の私も、少し傷つく。まぁ確かにこの様な風貌をしていれば仕方のない事なのだがな」
あ、やばい人が見えた。気を失ってるふりをしよう。そう受け取ったのか、表情を変えず苦笑して笑い掛けてくる。いや、表情を変えないというよりは、まるで作り物に見える。
――そうか。口調がお師匠に似てるんだ。微妙にキザったらしい所なんて、そっくり。
「き、貴様はいったい何者だ! どうなっている! 一体ここは何処なのだ!?」
聞きなれた声が耳に届く。気が動転しているのか、声が少し上ずっている。
誰何された当人である男性は、聞こえているだろうに反応を示さない。少しずつはっきりしてきた視界に入った情報から鑑みるに、どうやら自分の返答を待っているようだ。
覗きこむその姿は鳥人族ものかと思ったのだが、単に仮面を被っていただけらしい。
「少し身体が重たいですが、意識ははっきりしてきました。問題無いと、思います」
「ふむ。初対面の女性に失礼を承知でいうが、君は中々に頑丈な身体をしているようだね」
見る限りだとそんな風に見えないのだが。と首を振り、身体を眺める彼。目元が隠れているため、どこを見ているかは確かではない。
そこでふと気づく。身体に伝わる地面の感触が、妙にはっきりしていることに。
――ッ!? え、私裸じゃない!? ちょ、やだ。じろじろ見ないで恥ずかしいぃ。
不意打ち過ぎる羞恥に、流石に動揺の方が勝ったのだ。頬の熱さからも、それは真っ赤に染まっているだろう。
「ああ、済まない。そういうつもりではなかったのだ。これを羽織るといい」
「あ、ありがとうございますぅ」
おもむろに、自身の着用しているフード付きの漆黒のマントを手渡される。その紳士的な対応に、心拍数が跳ね上がる。表を上げられず、俯いたまま感謝を示す。
――あれ? あれあれ? おかしいな動悸が止まらない。まるで恋する乙女みたいな……。――いやいや、お、おおお、落ち着いて? 私はドМ。へ、変態さんなのっ!
慣れない感覚のせいか、自分でも理解出来ない自問自答を繰り返してしまう。
「余を無視するな! 無礼であろう!? どこの田舎者かは知らぬが、余はアインズ皇国の皇帝その人なるぞ!」
「無礼? ふむ。では人の住処に土足で踏み込んで怒鳴り散らすのは、無礼ではないのか? 皇国の底が知れる。どうやら王家の教育はなっていないようだ」
「貴様――ッ!? おい、この不躾者を死なぬ程度に痛みつけよ。何なら足の一本でも落としてやっても良い」
我慢の限界が来たのか、先程よりも大きな声量で怒鳴り散らすエルクド様。
対する烏をモチーフにした仮面を被る男性は、冷静に、しかしやや煽る様にしてその言葉に返答をしている。
売り言葉に買い言葉。まさにその表現がドンピシャリとはまるように、エルクド様は近衛に命令を下す。
「――お、お待ち下さいエルクド様っ!」
「「「「――ッ!?」」」」
「ば、馬鹿なっ!? チコ、貴様……あれ程の傷を負って、何故生きている!?」
思わず身体が動いてしまった。その理由は分からない。でも何故だろう、この人は死なせてはならない人だ。本能がそう警鐘を鳴らしているのだ。
エルクド様が素っ頓狂な、それでいて恐れるような声色で叫ぶ。彼の命令で、機先を制そうと先制攻撃を仕掛けようとした近衛を含め、その全てが動きをピタリと止めた。
――え? 傷? 全裸だったって以外は、特に変わったところはなさそうだけど……。
寧ろ、ちょっと肌艶が良くなっている気さえする。そう言えば、訓練や行軍時に負った痣や擦り傷も見当たらない。
疑問符が頭に浮かんだが、状況が飲み込めない。皆が皆、自分の身体を見ている。
「ひゃぁ!? ちょっと何でそんなに見つめるんですか? は、恥ずかしいぃぃ……」
ようやっと羞恥からくる動揺が落ち着いたというのに、ぶり返してしまった。しかしそれはしょうがないだろう。エルクド様だけでなく、近衛を含めたすべての目線が己に集約しているのだから。
変態さんも、恥ずかしい時は恥ずかしい。年頃の乙女の様な反応をしてしまっている自覚があるし、それがまた羞恥に拍車を掛けていることも分かっている。でもだからと言って、どうしようもないのだ。
そんな反応してしまった自分に周囲が唖然としている。そんなに引かなくても良いではないかと思ったのだが、日常の集約が今出ているのだろう。これもその、しょうがないのである。
しかしその憶測は、実状と食い違っていた。皆が浮かべる驚愕の顔、それには恐怖の色が濃い。まるで化け物にでも遭遇したかのような、そんな表情を皆が浮かべているのだ。
「確かに、よくあの傷を負って瀕死で済んだものだ。通常であればまず即死しているか、最悪消失していた場合すら考えられる。――ふむ。私も少々君に興味が沸いたな。どうだ? 私のものにならないか?」
「?? ――ッ!? な! いきなり何を言っているのですか! 貴方こそ、頭が沸いているのではないですか!? それに既に私はエルクド様のものなのです!」
「おっと、これは手厳しい。そうか、確かにキミはそこのお坊ちゃんの所有物らしい。仕方ないな、無理やりにでも奪ってしまおう」
「――ッ!? ちょっ! 嫌っ!! 引き寄せないで下さい! ち、力が入らない? ――あっ」
仮面の男性に強引に懐へと引き寄せられる。抵抗しようと試みるも、何故か力が入らない。周囲の反応といい、一体全体自分の身に何が起こっているのだろう。
考えがまとまらない。エルクド様に見限られて、それでも決死の思いで隠蔽の魔法陣を破壊して、目が覚めたら知らぬ男性に看取られていて、しまいには拐されそうになっている。
「ではアインズ皇国の皇帝よ、この娘は頂くことにする。変わりに貴殿らが望む情報を、一つお教えしようではないか」
私はこの森で起こっている大抵のことは把握している。きっと役に立つことが出来るだろう。そう一方的に締めくくると、仮面の男性はエルクド様の反応を待つことにしたようだ。
未だ狼狽しているエルクド様とその近衛達。当人である自身ですら状況が飲み込めない。
少なくとも分かるのは、この仮面の男性はこの場において最もイレギュラーな存在であることだけだろう。
暫しの間、ゆるりと時が流れる。実際はそう感じていただけで、そんなに立っていないのかもしれないが、それ程までに異質な空間が辺りを覆うのであった。




