16 聖戦前夜
紫の影
西方教会・大聖堂、執務室。
扉が荒々しく開いた。
「枢機卿様!」
息を切らした部下が、半ば転がるように駆け込んでくる。
「紫イシリスを名乗る魔族が──」
「追い払え」
枢機卿は即答した。
だが、部下は言葉を継ぐ。
「それが……勇者バニングを連れています」
空気が止まった。
次の瞬間。
ノックもなく扉が開く。
「失礼する」入ってきたのは、紫色の角を持つ長身の使者だった。
その後ろに、もう一人。
穏やかな顔で立つ男。
勇者バニング。
枢機卿の目が見開かれる。
「勇者を返せ」
紫の使者は、わずかに微笑んだ。
「我らは勇者バニングを“保護”している」
一拍。
「深傷を負ったバニングを救助し」
「その後、我らと親交を深めた」
使者は一歩進み出る。
「もしこれ以上、勇者が魔王に渡ればどうなるか」
「枢機卿殿も、ご存じでしょう」
勇者は四人。
そして全員、魔王排除に失敗している。
枢機卿の喉が鳴った。
「要求は」
使者は淡々と告げる。
「紫イシリスと西方教会の直接交易を認めよ」
「討伐の対象から紫を外せ」
一拍。
「短縮門を一つ、我ら専用に開放せよ」
室内が凍りつく。
枢機卿の視線が、ゆっくりとバニングへ向いた。
「勇者よ。貴様は……」
バニングは穏やかに答えた。
「私は、紫の勇者です」
迷いのない声だった。
使者は、その答えに満足したように目を細めた。
───
西方大聖堂。内議の間。
白と青と金で統一された議場は、美しく、冷たかった。
女神アルスレインと天使たちを描いたステンドグラス。
壁には女神の像と象徴が刻まれている。
重い扉が閉じる。
外の祈りの声は、厚い石壁の向こうで鈍く沈んでいた。
長卓を囲むのは、教皇、枢機卿、司祭、祈祷師たち。
机の上には報告書。
封蝋の割られた急報。
そして一枚の観察記録。
誰も、すぐには口を開かなかった。
やがて枢機卿の一人が低く言う。
「……ジャスティスでも足りません」
沈黙。
別の司祭が続けた。
「魔王軍を押し返すには、力が不足しています」
「討伐のための刃としては、もはや単独では不十分かと」
祈祷師が震える指で記録板をめくる。
「勇者バニングは──」
「現状、我らに敵対してはおりません」
一拍。
「ですが」
「それすら、不確かです」
教皇は黙っていた。
表情は動かない。
だが、その沈黙がかえって室内を冷やす。
別の枢機卿が、紫から届いた報を読み上げる。
「勇者バニング」
「起立不能の症状あり」
「受け答えに難あり」
「肩部に異常な突起物を確認」
「魔力出力は上昇」
「ただ、肉体の変質も進行しています」
短い沈黙。
司祭の一人が顔をしかめる。
「……あれは、まだ勇者──いえ、人と呼べるのですか」
誰も即答しない。
おぞましい、魔族のなりそこない。
それが、その場にいる全員の認識だった。
教皇がようやく口を開いた。
「呼ぶしかあるまい」
静かな声。
「我らには、もう数がない」
その言葉で、場の空気がさらに重くなる。
枢機卿が、別の書板を取り上げた。
「勇者セレンについても、改めて確認します」
紙がめくられる。
「送り出したのは北方の小王国」
「建国王そのものが勇者であった国です」
「しかし当代のセレンは」
「孤児であり、縫製工場の労働者」
「学も乏しく、戦闘経験もなく、魔力量も少ない」
「ゆえに片道で送り出した」
苦々しい声。
「勇者は青き血が流れていなければ認められない、と」
「建国王も出身は身分の低い傭兵の筈ですが……」
吐き捨てるような沈黙が落ちる。
祈祷師の一人が言う。
「使い捨てるつもりだったのですな」
枢機卿は答えない。
答える必要もなかった。
教皇の指が、机を一度叩く。
「結果として、それが人族への離反を生んだ」
低い声だった。
「勇者を道具として扱い」
「敗北した時に受け止める場も与えなかった」
「死んでよいと見なしたのか」
「ならば、拾った側へ流れるのは当然だ」
その言葉に、何人かが目を伏せる。
司祭が小さく言う。
「……我らの失策ですか」
教皇は否定しなかった。
「失策だ」
一拍。
「だが、今さら悔いても遅い」
視線が全員を射抜く。
「セレンは戻らぬ」
「ジャスティスは足りぬ」
「バニングは不確かだ」
重い現実が、短く並べられる。
「それでも」
「民には迷いを見せるな」
枢機卿たちの背筋が伸びた。
教皇は立ち上がる。
「内は不安を知ってよい」
「だが外には、意志だけを見せる」
一拍。
「聖戦を宣言する」
その一言で、会議は終わった。
───
晩夏。金城、執務室。
夏の終わりだった。
旧金領の平原では、地上進出のための転移門が築かれている。
兵たちが土を均し、巫術陣を刻み、巨大な門の輪郭を地の上へ引いていた。
レイゼンは、それを窓越しに見ていた。
本当なら、頭を抱えたかった。
だが、動揺を表に出すことは許されない。
彼が揺れれば、黒が揺れる。
それは、そのまま魔界全体の揺らぎになる。
(喧嘩したままだと)
(なぜ放っておいた)
(早く済ませろと言っただろう)
頭痛の種は、弟と勇者だった。
ヴァイレンの魔力は、もはや魔王を名乗るべきはあちらではないかと思うほどに増殖している。
最前線に置いてよい代物ではない。
だが同時に、火力、牽制、威嚇、抑止。
そのすべてに適した戦力でもあった。
(弟が暴発したら、戦争以前の問題だ)
(両軍どころか……)
(いや、世界が滅ぶのでは?)
そして、セレンもまた危うい。
勇者の力は制御を失えば、敵味方の区別をしない。
(勇者も暴走したらまずい)
(なのに、なぜ参加している……)
(私はまだ返事を聞いてないぞ)
(覚悟ができてないなら、終わるまで退避していろ)
静止。
(絆がそうさせない、か……)
レイゼンは眉間を揉んだ。
胃も痛い。
頭も痛い。
だが、顔には出さない。
やがて視線を参謀へ向ける。
「司書を呼べ」
───
控えていた文官がすぐに下がる。
ほどなくして、扉が開いた。
「お呼びでしょうか」
リュミエラだった。
いつも通りの無機質な顔で、執務室へ一歩入る。
レイゼンは窓の外から視線を外さないまま言った。
「現状、絆はどうなっている」
問いは短かった。
だが、意味は重い。
リュミエラは即答する。
「消えてはいません」
「出力も落ちていません」
一拍。
「ただし」
「感情面の摩耗は見られます」
「喧嘩を長引かせれば、戦闘時の不安定要因にはなります」
レイゼンは眉間を押さえた。
「切れていないだけ、ましか……」
「はい」
「最悪ではありません」
全く慰めにならない声だった。
リュミエラは続ける。
「勇者セレンを完全後方へ下げるのは得策ではありません」
「絆の観測から見ても、距離を置きすぎるのは危険です」
「だが前線は論外だ」
「承知しています」
彼女は、机上の地図へ視線を落とした。
「補佐官見習いのまま、配置は後方補給、伝令、負傷兵後送」
「ヴァイレン様の隊付きは維持」
「前線のすぐ後ろに置くのが最も安定します」
レイゼンは沈黙した。
外では、兵たちが巨大な巫術陣の輪郭を地に刻んでいる。
もう止まらない。
戦は始まる。
「……結局、近くに置くしかないか」
低い声だった。
リュミエラは頷く。
「はい」
「離せば悪化します」
「近づけても胃が痛むでしょうが」
レイゼンは、ゆっくりと目を閉じた。
「言うようになったな」
「事実ですので」
静かな返答だった。
レイゼンは小さく息を吐く。
それから、再び窓の外を見た。
「では、その配置で行く」
一拍。
「転移門を開けろ」
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