23.交差する影
土曜日の午後、翔汰は気持ちを整理するために、少し遠くの図書館まで足を運んだ。
静かな場所なら、考えをまとめられるかもしれない――そう思ったからだ。
館内は休日らしく多くの人で賑わっていたが、勉強机の一角に腰を下ろすと、不思議と心が落ち着いていく。
分厚い医学関係の本を開き、ページをめくった。
「介護の現場に必要な知識」
そこに並ぶ専門用語や症例。
プログラミングのコードに慣れた指先では覚束ないが、それでも彼は諦めなかった。
――俺は彼女のそばに立てる人間になりたい。
心に浮かぶその想いだけが、翔汰を机に縛りつけていた。
その頃、同じ図書館の別のフロア。
陽咲は母に付き添われ、リハビリ用の資料を探していた。
「自主トレーニング」「心のケア」――棚に並ぶ文字をなぞりながら、背筋を伸ばす。
母は少し離れた場所で別の本を探している。
一人きりになった瞬間、陽咲の胸に微かな解放感と緊張が入り混じった。
ふと、視界の端に知った背中が映った。
黒髪、少し猫背気味で、本に顔を近づけている姿。
――翔汰くん。
心臓が跳ねる。
手にしていた本がカタンと落ちた音で、彼が顔を上げた。
目が合った。
ほんの数秒、それだけ。
でも、世界が一瞬で静止したように感じられた。
翔汰の心臓も大きく波打っていた。
本当に彼女なのか?
幻じゃないか?
でも、確かに視線は絡んだ。
「……陽、いや。」
喉まで出かかった名前を、必死に飲み込む。
彼女は視線を逸らさなかった。
けれど、声をかける勇気も出せなかった。
ただ、二人の間に沈黙が流れる。
そのとき、陽咲の母が戻ってきた。
「見つかった?」
優しく問いかけられた陽咲は、わずかに肩を震わせ、本を抱きしめた。
「うん……大丈夫。」
そう答え、母とともに棚を離れていく。
翔汰は立ち上がりかけたが、足は一歩も前に出なかった。
――また、声をかけられなかった。
彼の胸に悔しさと、どうしようもない空虚感が広がっていく。
図書館を出た帰り道、陽咲は窓に映る自分の顔を見つめた。
「どうして声をかけなかったの?」
心の中で何度も自分を責める。
でも同時に、もしあの場で言葉を交わしていたら――
母に気づかれ、すべてが壊れてしまうかもしれない。
その恐れが、彼女の心を縛っていた。
その夜、翔汰は再び未送信の画面を見つめていた。
「今日、図書館で……」
指が止まる。
送ってしまえば、彼女を追い詰めることになるかもしれない。
彼は深く息を吐き、文字を削除した。
一方で、陽咲も日記に震える文字を残していた。
「また会った。声をかけたかった。でも怖かった。
次こそは、私から一歩踏み出せるように。」
ページを閉じ、そっと胸に抱きしめる。
交差した影は、まだ言葉に変わらなかった。
けれど、互いの心の奥で小さな決意が芽生え始めていた。
「次こそ」
その想いだけが、二人を前へと押し出そうとしていた。




