豹変①
寝殿の扉が開き、一歩足を踏み入れると、香薬の煙がレイカの視界を霞ませた。
供物や札などまじないの類いで溢れたその部屋は、さながら線香ただよう仏殿のようだ。
「薬湯は戻したのに、なぜ良くならないの?」
奥へ進むほど煙は濃くなる。
霧の向こうから、老齢の侍医が現れた。
「長年溜めこまれた邪はすぐには抜けません。陛下の場合は、それ以上に心の消耗が激しく……」
レイカは諦めたようにため息をつき、侍医の背後にある大きな寝台へ目を向ける。
正憲にとって病とは幼少期からの付き合いだったはずだ。
そんな男から生きる気力を奪ったのは……やはり忠臣の裏切りか。
『まさかお前に裏切られるとは』
あの日そう言い放った正憲の、怒りに震える声や冷たい眼差しをレイカは今も忘れられない。
ふだんは叱責すら好まない温厚な夫に恐怖を覚えたのは、あとにも先にもあの時だけだ。
寝台を囲っていた重厚な帳が開くと、目を閉じ横たわる男の姿があった。
レイカは寝台の端に腰を下ろし呼びかける。
「陛下。朝餉を持ってきたわ」
太い眉や精悍な顔つきは変わらないが、頬の肉は落ち、ここ数日で一気に老け込んだように見える。
男の目と唇がうすく開き、かすれた声が漏れる。
「ん……今日は早いな」
「わたしよ」
「……ああ、レイカか」
想定した女とは違ったようで、正憲の声がとたんに柔らかく、例えるなら夫から父親のそれに変わる。
レイカは気にしないふりをして手元の粥を匙ですくい、正憲の口元へ運んだ。
「……すまないな」
「謝ってばかりね」
そう返しながら思わず苦笑した。
思い返せば正憲には、出会った頃からいつも謝られている気がする。
今はもう、何に対しての謝罪なのかすらわからない。
「わたしがいちばん後悔しているのはな……レイカ、もっと早くお前を、元の世界へ帰してやれば良かったということだ」
言葉の節々には覇気が感じられない。
それは最期の時が近いことを示唆していた。
「またそんなこと言って」
彼を害し続けていた悪鬼はもういないのに、どうしてこんなに弱気なのか。こんな調子では、治るものも治らない。
レイカはこみ上げる感情を抑え、淡々と粥をすくう。
しかし正憲の腕が伸び、レイカを制止するように手首を掴んだ。
「我慢しなくていい」
「……」
優しい声に、レイカは無性に泣きたくなる。
粥の入った椀を置き、正憲の胸の上へ倒れこんだ。
「帰りたくなんかない……。わたしを、置いていかないで……」
すべてを忘れてしまいたいと思う日も確かにあった。
けれど、こうして目の前で大事な人を、また失うことの方が怖い。
さまざまな感情がせめぎ合うレイカの頭に、大きな掌が乗った。
「それを聞いて安心したよ。お前は優しくて本当にいい子だ」
レイカは目を閉じる。
誰もが恐れる毒婦を、世界でただひとり『いい子』と言って頭を撫でてくれる人。
女として愛されたことは、おそらく一度もなかった 。
だけどレイカが幼い頃から夢見ていた愛情を、そのままの形と温度で与え続けてくれた。
布団越しの厚い胸へ頬を寄せながら、レイカは思う。
こうして素直に甘え続けていれば、自分はもっと楽に生きられただろうか。
最初から正憲だけを信じていれば────。
突き放され、傷つけ合い、その傷を舐め合ううちに依存し、互いの境界線が分からなくなる────そんな経験はしなかったはずなのに。
そういう相手にすがってしまった過去を、心底悔やんだ。
「今や覇葉国の国益は全てお前の手柄。史書はわたしを、無能な国王だと書くだろうな」
妻の髪を撫でながらこぼす正憲に、レイカは首をふる。そして皮肉まじりの口調で言った。
「いいえ、功績はすべて陛下のものよ。悪評だけがわたしのもの」
史実はときに嘘をつく。未来のために真実はねじ曲げられる。
国王を差し置いて権力をふりかざす女の功績など、国にとっては不名誉でしかない。
「でもそれでいいの。陛下がいなければ、わたしは何もできなかったから」
「そうか……」
正憲はそれ以上何も言わなかった。
レイカが体を起こすと、正憲は天井を見つめたまま瞼をゆっくり閉じ、浅い眠りに入った。
* * *
部屋を出て歩くと、回廊の途中に女が立っていた。
薄水色の品のある衣をまとっているが、髪は下女のように一つにまとめただけで、宝飾品は一切着けていない。
そして両手首には枷がはめられている。
「……なぜ許したの。わたくしを」
両脇を兵士に挟まれる蕭貴妃は、強い眼差しでレイカを睨みつけている。
レイカと咲羅を呪い、韋王妃に殺人の罪を着せ、正憲を害し続けた女。
通例なら死刑を言い渡され、今ごろ毒酒をあおって死んでいるはず。
しかしこの貴妃は、四六時中こうして監視下におかれるものの、元の屋敷での生活を続け、こうして正憲のもとへ足を運ぶことも許されている。
その処遇を自ら下したレイカは、冷ややかに返した。
「“わたしの世界”では、人を呪うだけでは罪にならない。それにあなたが自供しなければ、韋氏の冤罪と真犯人を突き止めることはできなかったわ」
そのまま視線すら交わさず、貴妃の横を通りぬける。
すれ違いざまに「偽善者」と鼻で笑うような声が聞こえた。
「哀れね。その偽善すら誰にも理解されないなんて……。自分が今、宮中で何と呼ばれているか知ってる?」
レイカは立ち止まり静かにふり返る。
貴妃は前手で拘束されている腕を曲げ、大声で叫んだ。
「娘を絞め殺し、陛下に毒を盛った悪女!────夜な夜な男を侍らせる売女!」
両脇の兵士が慌てた様子で貴妃の肩を掴むが、貴妃は萎縮するそぶりも見せない。
「……」
レイカは表情を崩さず、貴妃の言葉を聞いていた。
どの悪評も、初めて聞くものでは無かった。
人はあらゆる凶悪事件の真相について、刺激を好み、複雑さを嫌う。
宮中でおこった数々の悪行は、ひとりの女が権力ほしさにおこなった。そういう分かりやすいシナリオが、最も受け入れられただけだ。
文字通り全てを失い、もはや怖いものなどない貴妃は、嬉々とした様子で続ける。
「下賎のくせに、のし上がろうとするからそうなるのよ!じきに即位するあなたの息子も、しょせんは毒婦の子と忌み嫌われ────」
「───っ」
レイカは腕をふり上げて、正面に何かを思いきり投げつけた。
それは貴妃の肩に当たったあと、床へ転がり落ちる。
「ひっ……いやぁっ!」
貴妃は足下を見たとたん悲鳴とともに飛び上がり、自分の名が書かれた呪詛人形を蹴飛ばした。
そして腰をかがめ、小さな人形を遠ざけながら、 ぶるぶると震え出す。
「……あんたを許したわけじゃない」
レイカは冷酷な顔で貴妃のもとへにじり寄り、釘の刺さった人形を左足の踵で踏みつけた。
そして貴妃の手枷から伸びる鎖を握りしめる。
貴妃の両手は、まるで縛り上げられたように持ち上がった。
レイカはぐっと顔を寄せる。貴妃の目元には多くの小じわと、頬には大きなシミを見つけた。
「奪われながら生きること。それが死よりも辛いと知っているからよ」
鎖から手を放すと、貴妃は固い床へ転んだ。
打ちつけた体の痛みにうめく貴妃へ、兵士が駆け寄る。
しかし兵士らはレイカの顔色をうかがいながら、手をさしのべるかどうか躊躇う。
「そうやって、もがき苦しみながら生きなさい」
女の金切り声を背に、レイカは颯爽と清龍殿をあとにした。