#007『重力とパンケーキ』
『重力とパンケーキ』
三月も半ばを過ぎたというのに、北海道のこの町にはまだ重たい雪が居座っていた。
窓枠で切り取られた外の景色は、灰色の空と汚れた雪の白の二色に支配されている。しかし、ストーブが静かに燃えるリビングの中だけは、嘘のように暖かく、時間が緩やかに淀んでいた。
「……よく寝るわね、本当に」
キッチンに立つ塔子は、独り言のように呟いた。
視線の先には、日差しの降り注ぐラグのど真ん中で、腹を見せて完全に弛緩しきっている茶トラの老猫でムギの姿があった。前足を投げ出し、喉の奥でかすかにゴロゴロと音を鳴らしながら、深い午睡の只中にいる。
世界で戦争が起きようが、誰かが絶望して泣き叫ぼうが、この猫にとっては春の陽だまりの温度だけが絶対的な真実なのだ。その無防備で身勝手なまでの平和な姿が、今の塔子には少しだけ羨ましかった。
塔子は視線を外し、ボウルの中の粘り気のある薄黄色の液体に泡立て器を沈めた。
今日は朝からパンケーキの生地を仕込んでいた。市販のミックス粉は使わない。薄力粉とベーキングパウダーを二度ふるいにかけ、卵黄と牛乳を混ぜ、別のボウルで卵白を角が立つまで泡立ててからさっくりと合わせる。
手間はかかるが、こうすることで生地は空気を抱き込み、分厚く、暴力的なまでにふんわりと焼き上がるのだ。
なぜ、急にそんな手の込んだものを作ろうと思ったのか。
それはおそらく、二階の部屋で死んだように眠り続けている娘――美結の存在が、塔子の胸の奥に冷たい泥のような不安を沈殿させていたからだ。
東京の広告代理店で働いていた美結が、アパートを引き払い、トランク一つで五年ぶりにこの家に戻ってきたのは一週間前のことだった。
「ちょっと、疲れちゃった」
玄関先で力なく笑った娘の顔は、塔子の記憶にある勝気な美結のそれではなく、中身を抜かれた抜け殻のように見えた。それ以来、美結は食事と入浴の時以外は部屋に引きこもっている。何をしているわけでもない。ただひたすらに眠り続けているのだ。
無理に理由を聞き出すことはしなかった。ただ、娘がひどく損なわれて帰ってきたことだけは、言葉がなくとも痛いほどに伝わってきた。
だから塔子は、祈るような気持ちで小麦粉を練っていたのだ。
甘くて、温かくて、胃袋にどっしりと溜まるもの。重力のある食べ物を体に入れれば、娘の魂がふらふらとどこかへ消えてしまうのを繋ぎ止められるのではないか。そんな、ひどく原始的で馬鹿げた呪術だった。
フライパンにバターを落とすと、ジュッという小気味良い音と共に、乳脂肪の甘く暴力的な匂いがキッチンに充満した。お玉で生地を流し込み、弱火でじっくりと火を通していく。
「……いい匂い」
背後から、掠れた声がした。
振り返ると、スウェット姿の美結がキッチンの入り口に立っていた。寝癖のついた髪、血の気のない唇。しかし、塔子の目を釘付けにしたのは、彼女の右手で頼りなく揺れている物体だった。
それは、ヘリウムガスが半分ほど抜け、シワシワになった虹色の風船だった。アルミフィルムでできたその派手な風船には、『HAPPY』という文字が歪にプリントされている。
「美結、それ……どうしたの?」
「ん? ああ、これ」
美結は力なく風船を持ち上げた。カサカサと乾いた音が鳴る。
「さっき、窓を開けたら、庭のナナカマドの枯れ枝に引っかかってたの。どこかの卒業パーティーか何かで飛んでいったのが、ここまで流れてきたのかな。なんだか、見て見ぬ振りができなくて」
美結はふらふらとした足取りでダイニングテーブルに歩み寄り、椅子に腰を下ろした。虹色の風船の紐を指に巻きつけると、風船はテーブルすれすれの低い空中で、所在なさげに漂った。
塔子はフライパンの上のパンケーキをひっくり返した。美しいきつね色に焼けた表面が顔を出し、さらに甘い香りが広がる。
「すぐ焼けるから。コーヒーでいい?」
「……うん。ありがとう」
塔子は二枚の厚いパンケーキを皿に乗せ、たっぷりのバターとメイプルシロップをかけて美結の前に置いた。マグカップに注いだコーヒーからは、白い湯気が立ち上っている。
「いただきます」
美結はフォークとナイフを手に取り、パンケーキを小さく切り分けた。一切れを口に運び、ゆっくりと咀嚼する。その間、テーブルの横で漂う虹色の風船が、ストーブの熱対流に揺られて不規則に踊っていた。
「……美味しい。すごく、重たい」
美結はぽつりと呟いた。
「重たい?」
「うん。ずっしりしてる。東京で食べてた、口に入れた瞬間フワッて溶けちゃうスフレパンケーキとは全然違う。噛みごたえがあって、小麦粉と卵の味がしっかりして……お腹に、石みたいに落ちていく感じがする」
なんという表現をするんだ、と塔子は思ったが口にはしなかった。娘は何かを話そうとしている。
美結はナイフを置き、テーブルの上の虹色の風船のシワを指でなぞった。
「私ね、この風船みたいだったんだよ」
娘の告白に、塔子はコーヒーを飲む手を止めた。
「東京でいろんなプロジェクトを任されて、毎日がキラキラしてた。虹色みたいに派手だった。周りからも『すごいね』『輝いてるね』って言われたよ。私自身も、自分は特別な人間で、どこまでも高く飛んでいけるって本気で信じてた」
美結の視線は、風船の歪んだ『HAPPY』の文字に固定されていた。
「でも、中身はただのガスだったの。自分の中には何の実体もなくて、ただ外側から吹き込まれた期待とか、見栄とか、そういう軽い空気だけでパンパンに膨らんでただけ。だから、ちょっとしたトラブルで針が刺さった瞬間、あっという間に空気が抜けちゃった。……気づいたら、地面スレスレのところを、こんなシワシワになって這いつくばってた」
美結の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。メイプルシロップの海に落ちて波紋を作ったように見えた。
「お母さん、私、空っぽになっちゃった。あんなに頑張って膨らませたのに、何も残ってないの。もう、どうやって息を吸っていいのかもわからないんだよ」
嗚咽が漏れた。美結は両手で顔を覆い、子どものように声を上げて泣き始めた。
五年間の虚勢と、挫折と、自己嫌悪。それらが決壊した音だった。
塔子は無言で席を立ち、美結の隣に立った。そして、娘の震える細い肩を抱き寄せた。美結の髪からは、何日も洗っていない埃っぽい匂いがした。
「……空っぽでいいじゃない」
塔子は、できるだけ静かで低い声を出した。
「無理に膨らむ必要なんてないのよ。風船は、空を飛ぶために作られてるから、空気が抜けたらゴミになっちゃうかもしれない。でも、人間は違う。人間は空なんて飛ばなくていいの。地面を這いつくばって、重力に逆らわずに生きていけばいいのよ」
塔子は、美結の前に置かれた皿を指差した。
「見てごらん。このパンケーキ、飛べそう?」
泣きじゃくりながら、美結は顔を上げて皿を見た。半分残ったパンケーキは、シロップを吸ってさらに重たそうに皿の上に沈殿している。
「飛ばないよ。重たいもん」
「そうよ。粉を練って、卵を混ぜて、火を通したものは重たいの。飛んでいかないの。それでいいのよ」
塔子は美結の背中をゆっくりと撫でた。
「空っぽになったら、また重たいものを食べればいいの。お腹に溜まるものを食べて、重力に縛り付けられなさい。そうすれば、風に吹かれても、どこかへ飛ばされたりしないから。あなたは私の娘なんだから、そんな薄っぺらいアルミの風船なんかじゃないわ」
美結は再びパンケーキに視線を落とし、それから、テーブルの横で揺れるシワシワの虹色の風船を見た。
彼女は鼻をすすり、深く息を吐き出すと、風船の紐を指からほどいた。
風船はふわりと床に落ち、そのまま二度と浮かび上がることはなかった。完全に、重力に捕まったのだ。
「……お母さん」
「なあに?」
「……パンケーキ、もう一枚食べたい。焼いてくれる?」
美結が、真っ赤な目で塔子を見上げて言った。
「ええ。いくらでも焼くわよ。生地はまだたくさんあるからね、甘えんぼさん」
塔子がキッチンに戻り、再びフライパンに火を入れた時だった。
「にゃー」
不意に、部屋の隅から間延びした声がした。
振り返ると、今まで死んだように眠り続けていた老猫のムギが、前足をぐーんと伸ばして大きなあくびをしていた。
ムギはゆっくりと立ち上がると、床に落ちた虹色の風船を一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。そして何事もなかったかのように、今度はストーブの前の特等席へと移動し、再び丸くなって目を閉じた。
人間の抱える絶望も、再生の兆しも、この猫にとっては知ったことではないのだ。ただ腹が減れば鳴き、眠くなれば寝る。その圧倒的で図々しい「生命のサイクル」が、塔子には何よりも頼もしく思えた。
「ムギは、相変わらずだね」
フライパンの音の向こうで、美結が少しだけ笑ったような気がした。
「そうね。あの図太さを、あんたも少しは見習いなさい」
ジュッと新しい生地がフライパンに落ちる。
窓の外では、灰色の空から再び細かな雪が舞い始めていた。春はまだ遠い。けれど、この重たくて甘い匂いの充満する部屋の中でなら、私たちは何度でも、地に足をつけてやり直すことができる。
ストーブの火がはぜる音と、猫の静かな寝息が、新しいパンケーキの焼ける匂いと一緒に、部屋の空気を優しく満たしていった。




