Ⅳ「世界で一番苦くて甘い香りを振りまいている貴方へ」
桜の蕾が、一夜にしてすべて弾けたような、そんな満開の午後。
私は大学の卒業式を終え、袴姿のまま『Bitter & Bloom』の扉を叩いた。
カランコロン、と鳴るいつもの音。でも、お店の雰囲気が、今日だけは少し違った。カウンターの奥に立つ蓮見さんの私を見る目が、いつもの優しさだけではなく、真剣な色を帯びていた。
「……卒業、おめでとうございます。咲楽さん」
「ありがとうございます。最後にどうしても、蓮見さんのコーヒーが飲みたくて」
客の途切れた店内に、春の陽光が差し込んでいる。蓮見さんは何も言わず、いつものように豆を挽き、丁寧にドリップを始めた。
立ち上る香りは、いつもと同じ。でも、今の私にとっては、この上なく苦く感じる香りだ。
カップを差し出す時、彼の指先がわずかに震えているように見えた。
「咲楽さん。あの、早咲きの桜を見に行った夜のこと……覚えていますか?」
唐突な問いに、私は息を呑んだ。
嘘をついて逃げ出した、あの月夜。
忘れるはずがない。心臓が、あの時と同じように騒ぎ出す。
「足がよろけたって、君は言いましたね。……私も、そのまま知らないふりをして、君の嘘に付き合い続けるのが、一番の正解だと思っていました。そうすれば、君を傷つけずに済むし、君をこの場所に留めておけるから」
蓮見さんは眼鏡を外して一度拭いてからかけなおし、真剣な眼差しで私を見つめた。
「私は、自分が君を惹きつけてしまっている自覚がありました。二十二歳の君が向ける、まっすぐな視線。……それを受け入れるには、私は大人になりすぎている。あなたのその視線は、『大人への憧れ』だろうと、片付けようとも思いました」
「違っ……私は……!」
私が自分の本当の想いを告げようと口を開きかけた時、彼は静かに首を振ってその先の言葉を制した。
「けれど、拒絶するには……君が、あまりに愛おしすぎたんです」
心臓の音が、耳元まで響いてくる。
蓮見さんは、カウンター越しに私の手元へ、ゆっくりと手を伸ばした。触れるか触れないかの距離で、彼は言葉を続けた。
「だから私は、あの境界線の上に立ち続けてきました。君が嘘をつくなら、私もその嘘に付き合う。それが、今の私にできる唯一の誠実さだと思っていたから」
外では、風に舞った桜の花びらが、窓ガラスを静かに叩いている。蓮見さんの声は、少しだけ掠れていた。
「でも、卒業して新しい世界へ行く君の背中を見送る時、嘘をついたままではいられないと思った。……咲楽さん。私は、君のことが好きです。店主としてではなく、一人の人間として。一人の男性として」
視界が一気に滲んだ。
ずっと、ずっと欲しかった言葉。
でも、同時に分かっていた。この言葉は、二人の関係を「これまで通り」ではいられなくする、終わりの始まりでもあることを。
「……気づいて、いたんですね」
「ええ。君の気持ちも、私の気持ちも。……でも、十歳の差は、君が思うよりずっと遠い。私が歩んできた時間と、これから君が歩む時間は、スピードが違う。すぐに『付き合おう』なんて無責任なことは言えません」
「でもっ……!」
「それでも」
蓮見さんは、私の頭に掌を置き、優しく、慈しむように微笑んだ。
「君が社会に出て、いろんなものを見て、それでもまだ……この苦いコーヒーの香りを恋しいと思ってくれたなら。その時は、もう一度この店に来てくれませんか? 今度は『試食係』としてではなく、私の隣を歩く人として」
それは、未来への約束。
今の私を縛り付けるのではなく、自由に羽ばたかせるための、彼なりの精一杯の愛の形。
「……はい。必ず、来ます。もっと大人になって、この苦味を本当の意味で楽しめるようになって」
私は涙を拭い、満面の笑みで答えた。
カウンター越しに重なった手は、春の陽だまりのように温かい。
私は一つ、深呼吸をしてから言葉を紡ぐ。
「私もあなたが、好きです」
琥珀色の香りに包まれた、世界で一番苦くて甘い、この愛しい場所で。
両手で抱えきれないほどの感謝と、ようやく伝えることができた本当の想いをのせて。
窓の外で、満開の桜が風に舞っている今日。
私たちは、新しい季節の一歩を踏み出した。




