表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/26

V 「琥珀色の境界線に咲いた桜」


 


 四月の風は、街中に桜の花吹雪を散らし、石畳を薄紅色に染めている。


 私は、三年間使い古したビジネスバッグをぎゅっと握りしめ、少し急ぎ足で路地裏の角を曲がった。


 『Bitter & Bloom』───少し先に見える真鍮の看板は、前より少しだけ色を深めて私を待っている。扉を開けると、カランコロンとあの日と同じ乾いた音が響く。


「いらっしゃい。……おや、今日は少し早いですね、咲楽さん」


 カウンターの奥、糊のきいた白いシャツに紺色のエプロン。眼鏡の奥で少しだけ目を細めて笑う蓮見さんは、あの頃よりも少しだけ目尻の皺が増えた気がするけれど、その穏やかな空気はちっとも変わっていない。


「仕事が早く片付いたんです。今日は『試食係』の依頼がかかってましたよね?」


 私がいつものカウンターの隅に座ると、蓮見さんは「ええ、準備はできていますよ」と、いたずらっぽく微笑んだ。




 社会人三年目になった私は、もう研修のミスで泣き言を言う新人ではなくなっていた。理不尽なことに小さくため息をつくことはあっても、それを飲み込んで、自分なりの「Bloom」を見つけられる程度には、この世界の苦味に慣れてきていた。


 私が席に座るとすぐに、蓮見さんが丁寧に豆を挽きはじめた。けれど、今日店内に漂っているのは、コーヒーの重厚な苦味だけではなかった。ふわりと鼻をくすぐる、春の陽だまりのような甘酸っぱい香りが店内にかすかに漂っている。


「これ、新作ですか? すごく……優しい匂い」


「ええ。三年前、君に食べてもらった試作品の『完成版』です」


 差し出されたのは、クリスタルグラスに層を成した『桜とエチオピアのカフェ・ジュレ』。透き通った琥珀色のゼリーの上に、淡いピンク色のムースが重なり、仕上げに塩漬けの桜の花びらが一ひら、静かに浮かんでいる。


「今の君なら、この繊細なバランスがわかるはずです」


「ふふっ……そんな事言われると緊張しちゃいますね……じゃ、いただきます」


 私はわざとらしく姿勢を正し、銀色の柄の少し長いスプーンで一口すくって喉を通した。エチオピア産の豆が持つシトラスのような爽やかな苦味と、桜の奥ゆかしい甘み。そこに微かな塩気が重なり、鼻から抜ける香りは、まるで卒業式の日に見たあの桜並木のようだった。


「……おいしい。苦いだけじゃなくて、こんなに爽やかな味がするなんて」


「今の咲楽さんみたいでしょう?」


 蓮見さんは、カウンターに片肘をついて私を見つめた。その視線は、かつての温かく見守るようなものではなく、対等な一人の女性に向けるものに変わっているように感じた。


「社会に出て、揉まれて、それでも自分を見失わずに磨き続けた。今の君には、この凛とした甘さがよく似合う」


 その言葉を聞いて胸の奥が、トクンと疼く。

 彼がこんなことを言うなんて、珍しい。



 私はグラスを置き、まっすぐに彼を見つめ返した。


「蓮見さん。私、あの夜の約束……一度も忘れたことはありません」



 店内に、二人だけの静寂が流れる。


 窓の外では桜が舞い、ガラスを音もなく叩いている。


 蓮見さんはゆっくりと立ち上がり、カウンター越しに私の手に、自分の大きな掌を重ねた。




「知っていますよ。君がここに来るたび、少しずつ大人びていく顔を見ていましたから。……正直に言うと、君が外の世界で誰かを見つけてしまうんじゃないかと、私の方が焦っていたくらいです」


「えっ、蓮見さんが? 嘘でしょう?いつもあんなに余裕たっぷりだったのに」


「大人のフリをするのも、楽じゃないんですよ。……特に、君の前では、ね」



 彼は照れくさそうに笑うと、ポケットから小さな、白い小箱を取り出した。

 それをカウンターの上、私と彼のちょうど真ん中に置く。



「咲楽さん。君が社会という荒波を泳ぎきって、それでも私のコーヒーを一番に求めてくれた。そんな日々を積み重ねて来て……私はどうやら、我慢の限界が来たようです」


 

 その小箱を開けて見る。

 中で光っていたのは、桜の花びらを象ったピンクゴールドのリング。




「新作の『おまけ』ではありません。本編の、始まりです。……私の隣を、一緒に歩いてくれませんか? もう、試食係としてではなく、ちゃんとした人生のパートナーとして」


「………!」




 視界が一気に滲んだ。

 私は溢れそうになる涙を堪えて、自分ができる最高の笑顔で彼の手を握り返した。


「……はい。喜んで。その代わり、これからも新作は私が一番に食べますからね?」


「ふふ、もちろんです。一生分の『甘さ』を約束しましょう」


「『苦さ』も時々ないと、『甘さ』は引き立ちませんよ?」


「……そうですか。貴方の注文は厳しくなりそうですね」



 私たちは顔を見合わせて二人で笑いあう。

 そして、どちらからともなくカウンター越しに唇を寄せた。






 窓の外で、満開の桜が風に舞っている今日。


 甘くて苦い、琥珀色の香りに包まれたこの愛しい場所で、私たちは新しい季節の一歩を踏み出した。








 Fin.



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ここまで読ませていただきました。窓の外は満開の桜が風に舞う夜に、通じ合う二人の心が印象的でした。 そして、試作品は完成版に。苦味と甘味と、卒業式に見た桜のような香り、素敵ですね。時に苦さもあるからこ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ