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「あおの世界で君と共に」




 多くの観光客を集める日本の古都、京都。その北部に位置する大原には、喧騒に包まれた市街地とは違う、時が結晶化したような静寂が横たわっている。なかでも三千院の庭園は、この時期に訪れる者の魂を翡翠色の世界へと誘う。


 この時期、幾重にも重なり合ったもみじの葉が初夏の陽光を濾し、苔生す庭園に柔らかな光を降らす。見渡す限り、視界を埋め尽くすのは鮮烈な緑色。秋の燃えるような紅色と黄色の世界とはまた違う、若々しくも一種の幽玄さを感じる光景を、蒼士そうしは、眩しそうに目を細めて見つめていた。




「なぜ、これほどまでに緑なのに、あなた方は『青』と呼ぶのですか?」




 彼の脳裏によみがえるのは、かつてこの場所で交わした会話。しかしそう問いかけた人間は、今はこの世界にはいない。



「君は……まだ覚えているだろうか……エルレイデ」



 蒼士は呟きながら、ポケットに入れていた紙を取り出した。









 5年前、23歳の蒼士は疲れていた。


 新卒で入った広告代理店で待っていたのは、数字と締切に追われる日々。入社した頃の燃えるような志は、意味を成さなかった。「新入社員の常だ」と言われて、その現実を受け入れて頑張ってみても手応えがなく、まるで砂漠の中を彷徨っているようだった。積もっていく心身の疲労により、何かが折れる音が聞こえたあの日、気付けば大原行きのバスに乗っていた。





 その日は雨上がりの日で、雲間から陽光が差し込んでいた。


 バスから降りて緑色の若枝が覆いかぶさる坂道を上がっていくと、やがて歴史を感じさせる重厚な山門が現れた。


 その中に一面に広がる「緑の世界」を目の当たりにした時、蒼士はしばらくその場に立ち尽くしてしまった。そこは、彼が過ごしている日常の世界とは、明らかに時間の流れが異なっていた。


 地面を覆いつくす苔が浮かべる小さな水滴は、立ち上がる杉の枝葉の間から零れる光を受けて輝いている。そして湿り気を帯びた空気が、現実の輪郭をわずかに曖昧にしていることで、まるで異世界のように感じられた。


 蒼士はただ黙って、その光景を胸に染み込ませながら歩いた。見るものすべてに生命が宿っていると思える感覚は、苔の間にわずかに顔を出している石にすら感じたのだが、それを不思議とも思わなかった。



 そして庭園の隅、一際深く青もみじが枝を伸ばす場所で、「それ」は起きた。




 その場所に一歩足を入れた瞬間、空間が一瞬歪んだ。


 静かな旋律の中に一瞬だけ異音が混ざるような感覚に、蒼士は思わず立ち止まって周囲を見回し、動きを止めた。




 そこに立っていたのは、見たこともないほど緻密な刺繍が施された、絹の衣。夜の帳を溶かしたような漆黒の髪を持つ女性。



 その女性――エルレイデは、異世界にある小国の王女だった。


 生まれた時から彼女を取り巻いていた古い慣習、政略結婚、自由のない決められた未来だけを待つ城の中での生活は、彼女の「ここではないどこかへ行きたい」という切実な願いを、歳を重ねる毎に強くしていた。



 ある日、これ以上は耐えられないという強い思いが、王家に伝わる秘宝『翠霊玉(すいれいぎょく)』と共鳴した。



 翠霊玉の放つ魔力はこの三千院の「青もみじ」が放つ生命力に満ちたエネルギーと融合し、異界の扉を開いた。それは、ラジオの周波数がふとした拍子に重なり、遠くの国の放送が紛れ込むように、世界の理という「チャンネル」が、ほんの少しだけ横にずれた結果だった。



 自室に突如現れた扉が超常のものであり、無暗に手を出してはいけないものだとは理解できたが、そこから溢れ出ている光の美しさに誘われて、エルレイデはその光の中へ歩み入った。目の前に広がっていたのは───── 一面に広がる若々しい緑に包まれた世界だった。


「………なんという美しい光景なのでしょうか」


 自国の森とは違う神々しさを感じさせる空間に、エルレイデは言葉を失う。そして、その世界に一人立つ異装の人間を見つけた。







「……あなたは、この地の精霊様ですか?」



 恐る恐る尋ねる彼女の第一声に、蒼士は呆然としながらも、自嘲気味に答えた。


「それはこっちが聞きたいことだな。僕はただの疲れ果てたサラリーマンだよ」


「サラリー……マン?とはなんですか?」


「知らないのか?君は一体どこから……」



 それが、二人の不思議な交流の始まりだった。




 二人の距離は、言葉を重ねるごとに縮まっていった。蒼士にとって、エルレイデとの時間は味気ない現実を歩くための糧となった。


「嬉しいです……!動きやすくて、可愛くて……これで蒼士と一緒に街を歩けるのですね」


「わ!なんですかコレ?冷たくて甘い!」


 プレゼントをしたこちらの世界の洋服に顔を埋めて喜ぶ彼女の笑顔や、初めて食べるアイスの冷たさに目を白黒させて驚く顔を見るたびに、彼は乾いていた心に清冽な水が注がれるように感じるのだった。

 







 そんなある日、木陰で語り合うなかで、エルレイデが不思議そうに尋ねたのが、冒頭の問いだった。


「蒼士。この葉はどう見ても『緑』です。なのに、なぜあなた方は『青もみじ』と愛おしそうに呼ぶのですか?」


 蒼士は、かつて学生時代に学んだ知識を辿りながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「それはね、この国で古くから『あお』という言葉が指す範囲が、とても広かったからなんだよ」


 彼は彼女の手をそっと握りしめながら、隣に座って教えた。


「現代の僕たちは『青=ブルー』『緑=グリーン』と区別するけれど、古代の日本では、色の分類はもっと抽象的だったんだ。基本となるのは4つの色だけだったらしい」





『赤』は明るく明瞭な状態。

『黒』は暗く不透明な状態。

『白』ははっきりとしている状態。

 そして『あお』は、ぼんやりとしている、淡い状態を指す。





「ぼんやり、ですか?」


「そう。だから、ブルーだけじゃなく、グリーンもグレーも、かつてはみんな『あお』だった。でも、そこには単なる色のデータ以上の意味が含まれているんだよ。平安時代に『緑』という言葉が生まれても、人々はあえて『青』と呼び続けた。野菜を青物、新緑を青葉、信号の緑を青信号と呼ぶようにね」



 蒼士は頭上の瑞々しい葉を見上げた。


「『青』という響きにはね、生命の輝き、若々しさ、瑞々しさ……そういった生命のエネルギーそのものを祝福するニュアンスが込められているんだと思う。だから、この圧倒的な緑を、僕たちは敬意を込めて今も『青』と呼ぶ……そう思うんだ」


 エルレイデは感銘を受けたように、目の前の青もみじを瞳に映した。


「美しいですね。色ではなく、生命の勢いを呼ぶ言葉……。私の国では、この色はただ『木の葉の色』としか呼ばれません。蒼士の世界の言葉は、とても優しいですね」


「言葉が優しい……か」


 エルレイデの言葉が、一滴の水滴となって蒼士の胸の奥に落ちた。



(今の僕にとって、言葉は単なる『金儲けの道具』に過ぎない……)



 蒼士は今の自分と、過去の自分とを重ね合わせた。



 過去の自分は、もっと「言葉」の持つ力を信じていた。それを「青くさい理想論」と蔑まれ、いつの間にか自分自身もそう思い込むようになっていた。

 


 蒼士の心の奥に何かが芽生え、その瞳に生命の輝きが戻り始めたのは、この時からだった。






 








「蒼士………お別れの時が来たようです」


 

 夏が過ぎ、三千院に満ちていた生命の力は、一見すればはなや燃えるような紅の中に尽きようとしていた。それは同時に、扉を繋ぎ止めていた『翠霊玉』の輝きが、限界を迎えることを意味していた。



「エルレイデ……僕は……まだ、いやずっと君と一緒に……!」


「……蒼士……私もです。ですが、貴方の話を聞いていて、私は思ったのです。私は、逃げてばかりだった、と。今一度、私は国の為に、私の為に、古い慣習と闘ってきます。それが『青い考え』と言われても……!」


「エルレイデ……!なら、僕も君に誓おう。僕は僕の言葉を取り戻す。そして……必ずもう一度君と出会ってみせる……と!」


「……蒼士……待っていて……必ず……!」



 エルレイデと蒼士がお互いに手を伸ばした瞬間、空間は無慈悲に収束した。


 彼女が最後に残したのは、一枚の古びた紙。そこには、彼女の世界の言語で綴られた魔方陣と、再会を願う祈りが記されていた。


 彼女が去った大原の庭には、緑の苔の上に静かに紅葉が舞い落ちる、美しい静寂だけが広がっていた。










 回想から戻った蒼士は、苔むした地面に視線を落とした。


 あれから5年。彼は勤めていた会社を辞め、「作家が自分の本当の心と言葉を届けられる」絵本を売り出すための会社を仲間と共に立ち上げた。「そんな事は自己満足だ」との評価を覆し、作家達が一言一句に魂を込めた作品は、瞬く間に評判となった。


 全てが順調、という訳ではなかったが、それでも生きている実感を日々感じながら働く日々は、忙しくも楽しかった。


 しかし、夏風に揺れる青もみじを見るたびに、彼の心は締め付けられるような感覚に襲われ、机の中に仕舞った彼女から受け取った古い紙を取り出し、彼女を想った。決して忘れることのできないその想いは、年を経る毎に強くなっていった。



 



 蒼士はポケットから、大切に保管していたあの「紙」を取り出した。5年の歳月を経て、端はボロボロになり、文字も掠れている。


「……もし、この場所が本当に力を溜める場所なのだとしたら」


 この初夏の季節、大気中に満ちる生命のエネルギーは、異世界の秘宝を再起動させるに十分な清浄さを湛えているはずだ。


「青嵐よ……僕の声と願いを翠霊玉に届けておくれ……!」


 蒼士は呟きながら魔方陣を広げ、静かに目を閉じた。


 「あおあらし」───それは初夏の緑を揺らして吹く風の呼び名。

 


(会いたい。君に。そして、今度こそ……)


 その強い想いが、土地の霊気と再び共鳴した。

 突如、庭園の空間が震えた。

 大地から伝わる微かな振動が苔で覆われた緑の世界を揺らす。


 蒼士の持つ紙からは、淡い、しかし確かな光が漏れ出した。それは庭園の苔の緑を反射し、さらに深く、幻想的な「青い光」となって立ち昇ってゆく。


 木々がざわめき、青もみじが音を立てる。周囲の観光客には、ただの強い風が吹いたようにしか見えないだろう。だが蒼士は、「世界のチャンネル」がエルレイデと出会ったあの時のように合わさっていくのを感じていた。


「青」という言葉が持つ、ぼんやりとした境界線の先。光が最高潮に達し、そして波が引いていくかの様に穏やかになった。


(開く…………のか?)


 光の中で、衣の擦れる音がした。

 

 一瞬、呼吸が止まる。

 ああ、これは現実なのか?

 夢じゃないのか?


 涙で視界がぼやけた世界に、あの懐かしくも愛しい、鈴を転がすような声が届く。


「……蒼士? ……少し、大人になりましたね」


 



 蒼士は、呼吸を忘れたまま振り返った。

 そこに立っていたのは、5年前と寸分違わぬ姿のエルレイデだった。


 彼女の瞳には、かつてのような窮屈な生活への怯えはなく、ただ蒼士を見つけた喜びで溢れている。


「姿は変わっても、すぐに分かりました。あなたの魂の輝きが、より強く、逞しくなっているから」


「そう……かい?」


 蒼士は、自分の顔を触った。5年という歳月は、人間としての重みを確かにその顔に刻み込んでいた。


「君は……少しも変わらないな」


「ええ。あちらの世界では、まだ1年しか経っていないのです。でも、私にはその1年が、100年にも感じられました。毎日、この青もみじを思い出しては、あなたの名を呼んでいたのですよ。この『あお』という言葉が持つ、生命の輝きを信じて」


 二人は歩み寄り、どちらからともなく手を握り合った。


 かつての蒼士は、仕事に疲れ、自分に自信がなく、彼女を自分の世界に引き留める勇気がなかった。彼女もまた、全てを捨てる覚悟ができていなかった。だが、離れていた時間が、二人に答えを出させていた。



「もう、悔いたくはないんだ。エルレイデ、僕と共に生きてほしい。この青い世界で。君が愛した、この瑞々しい国で」


「はい。私はもう、あの古びた城には戻りません。あそこでできる事は全てしました。私はあなたの隣で、この風を感じ、この色を共に眺めていたい」



 そう言うと、エルレイデは手に持っていた翠霊玉を掲げた。



「………本当に、いいのかい?エルレイデ」


 蒼士の問いに、一瞬だけエルレイデの動きが止まる。胸をよぎるのは、故郷の乾いた風や、家族の顔。そして幼い頃食べたスープの匂い。願えば、もう二度と戻れないかもしれない。それでも……


「ええ。確かに、父も、妹も、城中のお付きの者も………悲しむかもしれません。政略結婚をはねのけ、妹に未来を託せるだけの国造りをしてきた矢先ですもの。ですが、私もあなたと同じように、もう『心に決めた』のです」


「………そうか、ならば………」


 蒼士は、エルレイデの持つ翠霊玉にそっと手を添えた。


「僕は、君とずっと一緒にいる事を誓おう」


「私もですよ、蒼士」



 二人は顔を見合わせ微笑み、次いで翠霊玉を頭上に掲げた。



「「翠霊玉よ。我らの最後の願いを聞き届け給え」」


 その瞬間、辺りに満ちていた清らかな空気を宝玉が吸い込み、輝きを増した。





「我が求むるは、この地におけるただ一つの人生。対価として、我が地位も、財産も、この血に眠る霊玉の共鳴者の資格も、彼の地における全てをここに奉げん」





 エルレイデの願いを聞き届けたかのように、霊玉の放つ光は一段と強くなる。


「……これで、私は「何でもないただの人」となります」


「……じゃあ、僕から最初のプレゼントを」


「え?」


「この世界での君の名を、僕から……『(みどり)』を贈ろう」


「……みどり?」


「『青』の意味を持つ文字だけど、そう読むんだ」


「……嬉しい。まるで私たちの出会いのよう」


 彼女はその名を、まるで宝石を受け取るように抱きしめた。







 二人の想いが重なった瞬間、庭園を渡る風が一際大きく吹き抜け、異界を繋ぐ扉は、光の粒子となって木々の間に降り注いだ。


 それは世界が二人の願いを聞き入れ、二つの異なる世界の住人の新たな門出を祝福するかのようだった。



 その光が振り注ぐ中で、蒼士は碧を抱き寄せた。


「『森山 碧』それが君の名前だ。だけど困ったな」


「困った?何がです?」


「………まだ結婚式も挙げてないのに、良いのかなぁ」


「ふふっ。それでは今からこの青もみじの下で挙げましょうか?」





 辺りには新緑の清々しい香りが満ち、青もみじの隙間から幾筋もの陽光が降り注ぎ、その光のカーテンの中で、5年前の姿のままの王女と、5年の歳月を生きてた男が寄り添っている。

 

 林間をこぼれてくる陽光が、二人の行く手を明るく照らす。

 蒼士は目を細めて碧を見つめ、その身体をそっと包むように再び抱きしめた。

 その手の中にあるものを、二度と離さないという想いを込めて。


 




 風に揺れる青もみじの重なり合う葉の音は、新しい人生を歩み始めた二人の門出を祝う拍手のように、いつまでも大原の空に響き渡っていた。













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