20. 火傷
イルザは右手と右足を火傷していた。
水桶で布を濡らし、そっと冷やしていると、先ほどの侍女が侍医をつれて戻った。
侍医の見立てでは痕は残らないそうだが、赤い肌は痛々しい。
侍医が退室し、イルザの濡れたドレスを着替えさせていると、火傷を被う白い布がアルマの目に入る。
「イルザ様……、申し訳ありませんでした」
支度が終わってから頭を下げ、そう口にしたアルマを、イルザはじっと見つめた。
何故謝るのかと言いたげな顔だとアルマは思った。
「私が浅慮でした。お側を離れてはならなかったのに……。これから報告に参ります。人を呼びますので、少しお待ちください」
アルマがもう一度頭を下げて行こうとすると、イルザはアルマの袖口を掴んだ。
「……待ってください。アルマの責任ではありません」
アルマは首を振る。
イルザの専属侍女はたったの二人。
多忙なマリーの代わりにアルマが常にイルザについていなければならなかったのだ。
「……アルマは、嫌がらせを受けていたのではありませんか?」
言葉に詰まるアルマを見て、イルザは確信したようだった。
「私が、早く気付くべきでした。……大した怪我ではありませんし、報告は少し待ってくれませんか?」
「イルザ様、そんな……」
火傷を大したこと無いと言ってしまうイルザにアルマが反論する前に、突然、大きな音を立てて扉が開いた。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは長年王妃の侍女を勤めてきた侍女長だった。
数名の侍女を引き連れて、許しもなく扉を開けるというあまりの無礼にアルマが呆気にとられていると、侍女長は険しい表情でイルザの怪我を凝視した。
かと思うと、イルザに湯を掛けた侍女を鋭く睨み付けた。
若い侍女は先ほどから泣いていたが、蒼白な顔をひきつらせて震え始めた。
立っているのもやっとな彼女は普段から気が弱く、アルマへの嫌がらせもまともにできない。
指示役がいるとは思っていたが、おそらくこの侍女長だとアルマは確信した。
その怒りに満ちた表情を見るに、怪我を負わせるつもりはなかったのだろう。
だがカップに残ったお茶の色がおかしいと感じたのは気のせいではないはずだ。
(これがもし毒だったらーー)
アルマの顔は青ざめた。
これは思っていたよりずっと深刻な事態だと気付いたのだ。
さすがに本当に毒を入れることないだろうが、とにかく早くマリーに報告しなければならないし、証拠を隠そうとするであろう侍女長をここから追い出さなくてはならない。
アルマはまず侍女長の無礼を咎めようとした。
相手は侯爵夫人だが、ここで逃げるわけにはいかなかった。
アルマはイルザの前に進み出て、その振る舞いを諌めるために口を開いた。
しかし、その横を侍女長は通りすぎていった。
ぽかんとするアルマを気にも止めず、泣いている侍女に素早く近づいたかと思うと、いきなり持っていた扇子で彼女の頬を打ったのだ。
打たれた侍女は倒れ込んで尻餅を付き、呆然としていた。
目の下が切れ、白い頬に赤い血が流れている。
侍女長が握りしめる扇子は、無惨に折れていた。
その折れた扇子を、侍女長はもう一度振り上げた。
「やめて!!」
叫ぶと同時に駆け出したイルザより早く、アルマが侍女長の手を後ろから掴んで止めた。
拘束から逃れようと暴れる侍女長を、アルマは必死に抑え込む。
「何をしている!!」
鋭い声の主は、開け放たれた扉の前にいた。
険しい表情で立つミランとクラウス、その後ろには兵士とマリーの姿もあった。
力が弛んだアルマの手を侍女長が振り払い、その場にいた侍女達は全員頭を下げて壁際に後ずさる。
「イルザが怪我をしたと聞いて来てみれば、一体何の騒ぎだ」
問い詰める声に、すかさず侍女長が答えた。
「恐れながら、イルザ様に怪我を負わせた侍女を罰しておりました。それをアルマが、身の程を弁えずに止めたのです」
アルマは腹が立った。
イルザのためにやったかのような言い方だが、彼女はこの部屋に現れてから一度も、イルザの身を案じる素振りはなかった。
(自分が嫌がらせを指示して、挙げ句イルザ様に傷を負わせておいて、どの口が……!)
そう思ったが証拠はない。
アルマの行動を咎める一言までつける侍女長は狡猾だった。
反論したいが、許しなく口を開く事もできず、アルマは唇を噛む。
追及され叱責されるかもしれないと思ったが、ミランは何も言わずにイルザに歩み寄り、白い布が巻かれた右手をそっと持ち上げた。
「……申し訳ありません。私の、不注意なのです」
イルザは俯きながら答えた。
アルマは驚いて、つい顔を上げてイルザを見た。
ミランもイルザを見つめて何か言い掛けたが、唇を引き結んでしばし沈黙した。
改めて発したミランの声は、普段より幾分低い。
「……そう。これがもし、誰かの故意であれば、私はその者を許さない。君は私の大事な婚約者だ。君を傷付けることは、私に刃を向けるのと同じことだ。ーーそう思わないか? 侍女長」
ミランは冷たい目で侍女長を見た。
「私が何も知らぬと侮ったのか? 罪が一つ増えたな」
「殿下……! 何か、誤解していらっしゃいます! 私は、何もーー」
「誤解? 私が間違えたと言いたいのか?」
「ーーそ、そうではなく……」
「処分はおって下す。下がれ」
侍女長は蒼白になって震えた。
「殿下!! どうかお待ちください! これは全て殿下の御為で……!」
いい募る侍女長は、控えていた兵士に口を塞がれ拘束された。
両腕を抱えられ、口元を強くおさえられ、あれでは喋るどころか息もできないのではないかとアルマは思った。
侍女長はそのまま部屋から引きずり出され、彼女に付き従っていた侍女達も同行を求められ、泣きながら付いていく。
額から血を流す侍女は、兵士に支えられながら退室した。
騒ぎを聞き付けた数名の侍女が集まってきたが、王太子の姿と緊迫した雰囲気に、すごすごと引き下がることしか出来ない。
しんと静まり返った部屋で、アルマは息をのんだ。
心臓の音がうるさかった。
(殿下に隠し事など、できないんだわ……嫌がらせも、イルザ様の怪我の事も、真っ先に報告しなければいけなかった……)
今ならそれが正しいとアルマも思うが、もはや手遅れだった。
ミランの冷徹な態度に驚いていたイルザが、緊張した様子で口を開くも、ミランの硬い声がそれを遮った。
「他は?」
「……足を、少し火傷しました」
「見せて」
有無を言わさぬ声に、イルザは項垂れつつミランの前に立った。
壁際に控えていたマリーがイルザの後ろに椅子を用意する。
イルザがその椅子に腰掛けると、マリーとアルマはイルザの靴と薄い靴下をそっと脱がす。
ドレスを少し持ち上げて、傷を被う白い布を取ると、肌に赤い火傷の痕がはっきりと浮かんでいた。
マリーは何てこと、と呟いて絶句した。
痕は残らないとイルザは伝えたが、マリーの顔色は悪く、ミランの表情は険しい。
その厳しい眼は、そのままアルマに向けられた。
覚悟はしていたが、その視線の鋭さにアルマはたじろいだ。
「アルマ。お前が付いていながら、なぜイルザは怪我をした。申し開きがあれば聞こう」
「……申し訳ありません。イルザ様のお側を離れた、私の責任です」
もうイルザの側に仕えるのは無理かもしれないと思いながら、アルマは深々と頭を下げた。




