「胡」匈奴(2)
※小説本編 https://ncode.syosetu.com/n2273id/
前回は北方騎馬民族である匈奴が秦、前漢といった中華王朝と激戦をくりかえし、ついに戦いに敗れ従属するまでを解説しました。今回はそのつづきです。
匈奴が前漢に従うかたちで成立した平和は六〇年程度で終わりをむかえます。
その原因は、前漢が王莽によって倒され新が建国されたためでした。
西暦八年に新を建国した王莽は、匈奴をはじめとした「異民族」に対して非常に強硬的な政策を実施しました。匈奴はそれまで与えられていた特権を一方的に奪われていきます。
そしてついに人質として新の都にいた単于(匈奴の王)の息子たちが処刑されたのをきっかけに、平和は完全に崩壊しました。
匈奴は何度も新の北の国境を襲撃するようになります。その激しさは匈奴との全面戦争をおこなった前漢の武帝の時代と変わらないほどでした。
また王莽による「異民族」強硬政策は匈奴以外の少数民族にもおよんでいたため、彼らは新ではなく匈奴に服属するようになります。
匈奴はほかの少数民族をたばね、勢力を著しく拡大させました。
このころが歴代の中華王朝を苦しめ続けた「北方騎馬民族国家」匈奴の最後の時代にあたります。
匈奴の単于輿は、新があまりに強硬的・急進的な政策のために崩壊していく混乱のなか、中華王朝に従属する前の匈奴を再興しようとします。
単于輿は盧芳という群雄を支援し、新の国内(=伝統的に中華王朝の勢力圏とされている地域)に匈奴の傀儡政権をたてることに成功します。
しかし匈奴の傀儡政権は中華統一を目指す後漢の光武帝によって撃破されます。単于輿の匈奴自立の夢はこうして阻まれました。
そして単于輿の死によって後継者争いがおこると、匈奴は衰退の道をたどり始めます。
単于輿の死の前後、匈奴が支配するモンゴル高原を干ばつと蝗害(イナゴなどによって農作物が食い荒らされること)が襲いました。
そして単于輿の死後、だれが新しい単于となるかで激しい後継者争いがおこりました。
これをきっかけに匈奴にたいして反旗を翻したのが、烏桓です。
烏桓もまた匈奴と同じく、北方遊牧民です。
彼ら烏桓は前二世紀、匈奴の最盛期を築いた冒頓単于に滅ぼされた、東胡という民族の末裔でした。東胡が滅ぼされて以降、烏桓は匈奴の厳しい支配下にはいります。
また烏桓は匈奴だけでなく、前漢によっても支配されていました。
前漢は烏桓を通じて匈奴の情報を手に入れており、特権を与えた匈奴とは反対に、烏桓を苛烈に支配します。ときには匈奴の前漢侵入を防ぐために、烏桓を利用することもありました。
烏桓は匈奴と前漢という二大勢力のあいだで長年苦しめられていました。
そのため前漢が新の王莽によって滅び、匈奴が天災と単于輿の後継者争いで弱体化したこのとき、烏桓は復讐と独立のために蜂起したのです。
匈奴は天災、後継者争い、そして長年支配していた烏桓の蜂起に対処することができず、四八年に南匈奴と北匈奴に分裂します。
この分裂は現在までつづいている、と考えられています。
南匈奴は現在の中華人民共和国のなかの内モンゴル自治区や華北地域の一部におおく居住する、中国国内のモンゴル族の人々の直接の祖先だと考えられています。
その一方で北匈奴は、チンギス・カーンらモンゴル帝国、そしてフビライ・カーンらの元をへて、現在のモンゴル国に暮らすモンゴル族の人々の祖先だと考えられています。
話を歴史にもどします。
南匈奴の単于となった南単于比は五〇年に息子を後漢の宮廷へ送り、後漢に服属しました。
形式上は前漢のころと変わらない待遇に見えましたが、後漢は匈奴に対してずっと支配的な態度をとるようになります。
また南匈奴も、後漢の支配的な態度に対して抵抗できるほどの力をすでに失っていました。
後漢の光武帝が中華を統一したのをきっかけに、匈奴だけではなく烏桓をはじめとした、ほかの少数民族たちも後漢に服属するようになります。
こうして新しく服属した複数の少数民族に対して、後漢は大量の物資を与える一方で、反乱にはきわめて厳しく対処しました。
また後漢は少数民族を分轄して統治し、少数民族の蜂起に対してはほかの少数民族の兵を鎮圧に派遣しました。このようにして少数民族同士を互いに競わせ、結託して後漢に対抗することがないよう注意しながら統治しました。
こうした統治政策をうけて、後漢に服属した南匈奴は北方騎馬民族としての独自性を徐々に失っていくことになります。
その一方で北匈奴は……という話を次回でしたいと思います。後編へつづきます。
※小説本編 https://ncode.syosetu.com/n2273id/




