09 ある少年の始まり
長老と分かれて『キャンサー帝国』へと歩く道で、言葉を発する者は一人もいなかった。正確にはすすり泣く子供の声はちらほらとあったが、本当にそれくらいで乾いた地面を踏み締める音だけが響いている。
まるで屍の行進。無事に『キャンサー帝国』に辿りつけたとして本当に彼らに未来があるのかも分からない。それほどまでにそれぞれが失ったものは重すぎるのだ。さらにそこへ追い打ちをかけるように後ろからは時折派手な破壊音が聞こえてくる。
そのせいで体力よりも先に精神の方が削られる。それはハンマーで硝子を砕くような分かりやすい破壊ではないが、白蟻や癌みたいにジリジリと静かに、でも確かに心が蝕まれていくのを誰もが感じ取っていた。
そんな現状から意識を逸らす目的で、なんとなく後ろから聞こえる破壊音の方を見た時にアーサーは妙な違和感に気付いた。
破壊音は自分達に近付くどころか別の方向へ向かって行っている。自分達を追ってこないのはありがたいのだが、その方向に一抹の不安を覚えた。
「……あの破壊音、首都の方に向かってないか?」
アーサーの呟きに反応したのはアレックスだった。彼の顔色も疲労に染まっているが、それでもアーサーの問いに答えた。もしかしたらなんでも良いから思考を切り替える話題を求めていたのかもしれない。
「……そりゃあ『ゾディアック』に侵攻して来たって事はとりあえず『ジェミニ公国』を落とすつもりなんだろ。だから隣の『キャンサー帝国』に逃げるってじーさんのアイディアは流石としか言いようがねえな。下手に首都に逃げてたらどっちみち殺されてた」
アレックスは落ち着いて言っているが、それを聞いたアーサーの方はそれどころではなかった。
アーサーはアレックスに掴みかかって、
「ちょっと待て。じゃあこの国を見捨てるって事か? 俺達が首都に行けば避難が間に合うかもしれない人達を見捨てて、俺達だけ逃げるって事か!?」
「仕方ねえだろッ!!」
突然の口論に周りの目が二人に集まる。
アレックスは肩を掴んだアーサーの手を強引に振り解き、
「なら俺達に何ができるってんだよ! 相手は俺達のような遊びの延長線の手合わせなんて生ぬるいもんじゃなくて、本物の戦争を生き残った魔族だぞ! しかも同じ戦争で英雄って言われたじーさんをあんな目に合わせる化け物だぞ! 俺達が束になったって勝てる保証なんてどこにもねえんだよ!! だったら俺達は逃げて首都の連中に全部任せた方がまだ良いだろ!? 王様直属の部隊とかならなんとかなるかもしれねえしな!!」
「でも犠牲者をゼロにはできない、必ず死者が出る。そもそも首都の連中は魔族が来た事を知ってるのか? 不意打ちを食らったらどれだけの犠牲が出ると思う!?」
「……知るかよ、んなもん」
目を逸らして答えたアレックスの表情には葛藤が見られた。彼もアーサーの言わんとする事は分かっているが、それでも生物の自然な流れとして自分の命が一番なのだ。
くそっ、と小さく呟くと、アーサーは側にいたアンナに視線を移す。
「アンナ」
呼ばれたアンナは何も答えず、視線だけアーサーの方に向けた。
「お前は首都に行って魔族の事を知らせに行ってくれ」
「……アーサー達は?」
発せられた声に覇気はなかった。それでも二人の心配をするアンナの優しさに感謝すると共に、これからしようとしている事でアンナを傷つけてしまう事に罪悪感を覚える。
それでもアーサーは決意を込めた声音で伝える。
「俺達はみんなの避難の時間を稼ぐ」
「それって……」
「俺とアレックスが魔族と戦う」
「ちょっと待てよ! 俺はまだ了承してねえぞ!!」
アンナの顔が絶望に染まり、アレックスの顔は困惑に染まる。それでもアーサーの決意は揺るがない。
「二人とも頼む、今動けるのは俺達しかいないんだ。俺達がやらないと大勢の人が死ぬ。この村で生まれた絶望よりも大きな絶望がこの国を覆う事になる。それだけは絶対に止めなくちゃいけない」
「アーサー……」
勿論アンナだって首都の人達を助けたいとも思う。減らせる犠牲なら減らしたいし、自分達の行動でこの国が辿るであろう悲劇的な結末を変えられるかもしれないのなら行動したいと思いはするのだ。
しかし、それでもじーさんに救われた命を捨てるような真似を、友達二人がみすみす死にに行くような真似を許容するのは難しいものがあった。
ただ、アンナの中には同時に別の思いも存在していた。。
せめて他の人達には大切な人を失うような思いはして欲しくないと。
あの憎い魔族に一泡吹かせてやりたいと。
国の人達を想ったり、友達を想ったり、魔族への憎しみを想ったり。
アンナ・シルヴェスターというごく平凡の少女の中には様々な葛藤があった。
色んな迷いが頭の中で交錯し、それでも最後には唇を噛みしめて震える声でゆっくり答えた。
「……分かったわ、魔族の方はアーサー達に任せる。……ただし、絶対に生きて帰ってくるって約束して」
それだけ言い残すとアーサーの答えも聞かずにさっさと首都の方へ走っていってしまった。
一方的に押し付けられた約束。それがアーサーの胸の内に確かな熱として残った。
「……正気かよお前ら」
ポツリ、とアレックスが呟いた。
「本気であの魔族を止められると思ってんのか?」
「止めなくちゃいけない。そうしないと『ゾディアック』は魔族に侵略される。そうしたらたとえ今は『キャンサー帝国』に逃げ込んでも生き残っても、そのうちまた同じ悲劇が繰り返されるぞ。しかも今度は村なんていう小さな規模じゃなくて、『ゾディアック』っていう人類全体の規模でな」
言い切るアーサーに一瞬アレックスは押されるが、すぐに立て直して重い口を動かす。
「……いいかアーサー、確かに下級魔族ならなんとかなったかもしれねえ。そもそも俺たちが何かをするまでもなくじーさんと衛兵だけで対処できたはずだ。それが出来てねえって事は十中八九中級魔族がいるんだよ! テメェは魔力が欠片しかねえから分かんねえだろうが、さっきからすげえ濃い魔力が伝わってくるんだよ!!」
「何人だ?」
一瞬の逡巡もなくアーサーは聞き返す。
「その濃い魔力ってのは何人いる?」
「……それを聞いてどうすんだ」
「一人なら俺達だけでもやれるかもしれない。だから中級魔族と下級魔族の数を教えてくれ」
「本当に馬鹿じゃねえのか!? なんでテメェには逃げるっていう正常な思考がねえんだよ!!」
今度はアレックスの方がアーサーの胸倉を掴んで引き寄せ、至近から全力で叫ぶ。
「お前だって知ってんだろ! 人間は魔族に対して数の面では完全に勝ってる。俺達人間の中で戦力って呼べる数は全部で数十万人以上いるのに対して、魔族は下級魔族が数万と中級魔族が百人いない程度。上級魔族に至っては四人しかいないし、その上の魔王を入れたって人間と魔族には数十倍の数の違いがある。それなのに今日まで人間と魔族の争いが終わらないのはその絶対的な個体値の違いだ。俺達二人程度の戦力じゃ逆立ちしたって中級魔族を殺せやしないんだよ!!」
そう、これが現在の人間と魔族の戦力図。
例えば軍隊アリはその圧倒的な数によって、人間どころか自分達よりも数百倍大きい動物ですら捕食できると言われている。だがしかし、仮にこの軍隊アリの中の一匹が人間と真正面から戦ったとしたら、その一匹のアリは勝つどころか生き残る事すら難しいだろう。
つまりはそういうこと。確かに数百人単位の人間を集めて一斉に魔術を発動したとしたら中級魔族とはいえ生き残るのは不可能に近い。だがアーサーとアレックスの二人が中級魔族と正面から戦ったとしても、中級魔族の優位は覆らない。これは精神論ではどうにもならないこの世界ににおけるルールのようなものだ。
この事実を改めて突き付けられアーサーは、
「それなら逆立ちしたまま宙返りしてでも倒すよ」
そう答えて、真っ直ぐアレックスを見据えた。
「……なんでお前はそこまでしようとすんだよ。俺にはさっぱり分からねえ。お前とは長い付き合いだが、未だにお前がたまに見せるその引かない姿勢の正体が掴めねえ!! ましてや今回は命がかかってんだぞ!? お前をそうまでして突き動かしてる核が俺には全く見えない……ッ!!」
胸倉を掴むアレックスの手は震えていた。それが力いっぱい握りしめているからなのか、恐怖によるものなのか、はたまた全く別の理由から来るものなのか、アーサーには判別できなかった。
アーサーはそんなアレックスに対して自身の心中を吐露する。
「ここで逃げたら、俺は一生後悔すると思うから。もう二度と、あんな思いはしたくない」
それは独善的で、独りよがりで、ただの自己満足で、他人に命を賭けさせる相応しい理由とは到底言えるものではなかった。
しかしそれを聞いたアレックスはひどく複雑な表情で、
「……アーサー。テメェまだレインのこと引きずってんのか……」
「一生引きずるよ」
アーサーは曖昧に笑って答えた。
「……それを差し引いたってあんな村の連中を助ける理由なんてあるのか? いつも俺達を小馬鹿にしてくるような連中だぞ。衛兵の隊長のブライアンやその取り巻き連中に限っては、衛兵っていう肩書を盾にじーさんの見てない場所じゃみんなを恫喝してるようなクズだぞ」
「確かに俺達はみんなから良くは思われてないんだろう。まあ大体の原因が俺達にあるのは置いといても、正直俺達の事を良く思ってないヤツらや、衛兵の肩書を悪用してるようなクズに自分の命を賭けようとは思わない」
「だろ!? なら……っ!」
「でも、少なくともじーさんとアンナは違っただろ」
「……っ」
「じーさんは俺達を逃がすために、死ぬと分かってて戦った。アンナは今首都のみんなを逃がすために走ってる。俺はそんな二人の想いを無駄にしたくない」
「……」
そこに関してはアレックスにも思うところはあるのか何も言わなかった。
「……なあアレックス、俺はさ」
そんなアレックスの様子を見てアーサーは、
「明日を後悔して生きるくらいなら、後悔しないで今日死にたい」
呪いともいえる一つの想いを口にした。
それが、アーサー・レンフィールドという少年の根幹を支える一つの想いだった。
別にアーサー自身、後悔の全く無い人生を送れるとは思っていない。人生とは選択の連続で、その選択の数だけ後悔があるのを知っている。
例えば昼ご飯にパスタを食べたいと思って食べてからラーメンにしておけば良かったと思う事もあるだろう。だからといって最初からラーメンを食べていたとして、パスタにしなくて良かったと思うものなのか? 最初に食べたかったのはパスタだったのに? きっとそうはならず、やっぱりパスタが食べたかったと思うだろう。人は二択ですらそれぞれの選択に後悔する要素をはらんでいる。
そんな行き詰まりでは人生で後悔しないのは不可能だ。
それでも後悔しないように生きるためには、今の自分がやりたいと思った事をやって、それがどんな結果になろうと過去の自分の選択を信じ続けるしか道がないのだ。
だからアーサーは一度決めた事を覆さない。たとえその選択の果てで死に絶えたとしても、笑って死ねると信じてる。
「みんなを助けるのに協力してくれなんて言わない。ただ、あの二人の想いを守るために協力してくれ、アレックス」
気付いた時にはアレックスの手はアーサーの胸倉から離れていた。
アレックス自身、まだアーサーの言っている事全てに同意できる訳ではなかった。それでも彼はわしゃわしゃと適当に髪を掻き乱す一つ大きな溜め息をついて、
「……ちくしょう。テメェといるといつもロクな目に遭わねえ」
「それはお互い様だろ?」
散々言い争ったが、最後にはアレックスの方が折れた。二人は拳を突き合わせて決意を固める。
「あのー……それで私達は何を……?」
そこでずっと二人の言い争いを眺めていた村人の女性の一人がおずおずといった調子で手を挙げた。
アーサーは手を挙げた女性の方を向くと、
「とりあえずは当初の予定通り『キャンサー帝国』に向かって下さい。……それと、万が一の時のために一つだけアンナのやつに伝言を頼めますか?」
アーサーの伝言を聞くと女性は驚いた顔をしたが、頷いて了承した。それからいくつかの質問をしてその答えに満足そうに頷くと、アーサーとアレックスは今もなお続く破壊音の方へと走り出す。勝てる保証なんてどこにもない、足止めすら困難な相手に向かって。
それでもちっぽけな少年は譲れない信念を胸に、ただひたすらに走り続ける。
ようやくここがゼロ。少年はスタートラインの上に立つ。
人間と魔族、魔術と科学。相反するもの同士がぶつかり合うどうしようもない世界の端っこから、アーサー・レンフィールドという少年の物語が始まる。
これは、異世界転生したチート勇者が魔王を倒すまでの物語―――ではない。
この物語は。
どこにでもいるごく普通の村人Aの少年が、異世界から来たチート勇者を超える物語。