26 蛍石の名
地上五階から真っ直ぐ飛び降り、突き出していた二階の屋根に着地してから、もう一度下へ降りる。そうして瑛士が最後に外の庭に着地した時、おもに抱きかかえられていた面々は激しい息をついていた。
「襟首掴んで飛び降りるとかっ、兄貴ってばあたしのこと女とか妹とかいう以前に人間として認識してないでしょ!」
「真澄さまっ、あの、あたしにも一応心の準備というものが……」
「寿命が十年縮んだ……俺、このままだと絶対早死にしちまう……」
思い思いに落ち込んでいる様子を見て、瑛士が溜息をつく。
「あー、うるさいっての。ほら、さっさと脱出するぞ」
こつんと弟の頭を小突いた奏多が、街とは逆の方向を指さした。そこには鬱蒼とした雑木が並んでいる。
「今この状況で街に戻るのは危険です。この雑木林を抜け、神都を大きく迂回しましょう」
「……一度出てしまえば、もう二度と家へは帰れないぞ」
真澄の言葉に、奏多は微笑んだ。
「元より承知の上ですよ」
その言葉に真澄は頷き、雑木林へ駆けだした。好き勝手に伸びている雑木を掻き分けながら、真澄が後続の仲間に声をかける。
「そういえば、大神核は誰が持っているんだ」
「はーい、あたし! ご心配なく!」
奈織が声を上げる。途端に黎が拳骨を落とす。走りながら器用なものである。
「お前が持っていると逆に心配だ、弟皇陛下にお預けしろ。何かあった時に唯一対処できるのは陛下なのだからな」
「うう、そう言うと思ったよ。でもま、あたしが持っていても仕方ないしね。知尋、預けるよ」
奈織に神核を渡され、知尋は不安げな顔になる。
「私で大丈夫でしょうか?」
「お前が駄目なら、世界中誰一人としてその神核を持つことはできないよ」
真澄に諭され、知尋は頷いた。
「分かりました。責任を持って預かります」
一行はそのまま雑木林を駆け抜けた。研究施設の囲いである高いフェンスに行き当たったが、そんなものは彼らには通用せず、軽々と乗り越えてしまう。同時にそのフェンスが神都の外と内を隔てる境界線であって、一行は神都を脱出することに成功したのだ。
それでも神都のすぐ傍に留まることは危険なので、彼らは急いで神都から遠ざかった。ようやく足を止めたのは、神都の城壁が点のように小さく見える距離まで来たところだった。
「……ここまで来れば、ひとまずは平気かな」
真澄が息をつく。黎が頷き、息一つ切らしていない少女を見やった。
「それで、そろそろこの少女が何者なのかをお聞きしたいのですが」
「そうだな。彼女は――」
言いかけた真澄がはたと黙り、困ったように頭を掻いた。
「……すまない、名を聞いていなかったな。教えてくれるか?」
「特に名前はないけど」
「……ん?」
真澄が瞬きをする。少女は首を傾げた。
「仲間内での呼ばれ方はあるけど、名前じゃないし。ただの記号みたいなもの」
「どういう集団と暮らしていたんだ……?」
「大神核を守る。そのためだけに生まれて、生きて、戦う。そうあるために、女子供関係なく鍛えられるところ」
「……古代人の生き残りというのも、ただ今を生きているだけというわけではなかったのだったな」
その言葉に、黎たちがぎょっとする。だが口を挟まず、挟みそうになった奈織を黎が抑える。
「とりあえず、その呼び名を教えてくれるか?」
「『蛍石』」
「石の名前か」
つまり「翡翠」とか「琥珀」とかいう名前の人がいる、ということだろう。
宙が頭の後ろで腕を組んだ。
「そのまんま蛍石って呼ぶわけにはいかないのか?」
すると少女はじっと黙った。それからぽつりと呟く。
「……もっと可愛い名前が良いな」
「あ、案外わがままだな」
宙が呆れたように笑う。と、巴愛が表情を明るくした。
「じゃあ、『蛍』でどう?」
「うん、いいよ」
「あっさりだな、おい」
がっくりとうなだれたのは、呆れを通り越した宙である。
「蛍っていい響き。気に入った」
真澄が微笑んで頷いた。
「分かった。じゃあ蛍と呼ばせてもらう」
真澄はそう言って、蛍が語った大神核の話をかみ砕いて仲間に伝えた。聞き終えた奈織が唸る。
「あとふたつも集めなきゃ、真澄の呪いが解けないなんてね……」
「で、それを消滅させる……先が長いですね」
黎も難しい顔で呟く。真澄は微笑んだ。
「大丈夫だ、まだ時間はある。もうしばらく、玖暁奪還はお預けだ」
「それにしても、まさか古代人の里が彩鈴にあったなんてねえ。あたし知らなかったよ。いてもおかしくはないだろうとは思っていたけど」
奈織の言葉に黎も頷く。本当に細々と隠れ暮らしていたのだろう。
「蛍。大神核を消してこの呪いを解けるのが君だけなのなら……力を、貸してくれないか」
真澄が真っ向からそう告げると、きょとんとした顔で蛍は真澄を見上げた。
「最初からそのつもりだったんだけど?」
「……そうだったか。有難う、助かる」
真澄は表情を和らげて頷いた。
黎は懐から通信機を取り出した。
「何にせよ、彩鈴と玖暁の神核を探さねばなりませんね。どちらを先に探すにしても、まずは一度彩鈴に戻りましょう。このまま南下して青嵐の占領下に置かれた天狼砦を突破するのは、いささか骨が折れますから」
いささかどころの話ではないのだが、彼にかかればその程度なのかもしれない。
仲間たちから少し離れて、黎は狼雅に通信を入れた。すぐ狼雅に繋がったのだが、何やら狼雅の周りが騒がしい。喧騒が黎にも伝わってきた。
『なんだ黎、どうした?』
幾分か、狼雅の声も切羽詰まっているようだ。
「目的の神核は無事手に入れました」
『おー、そうだったか。そりゃ良かった。で、真澄の呪いは解けたのか』
「いえ、それが呪いを解くには他のふたつの神核も集め、それを消滅させねばならないとかで……」
『ん、そいつは誰の情報だ?』
「面倒なので詳しいことは割愛しますが、大神核の存在をはっきりと認識していた協力者ができまして。これから、一度彩鈴へ戻ります。そののち、【大山脈】を越えて玖暁入りする予定です」
『……』
「狼雅さま?」
狼雅の声が途絶える。黎は眉をしかめた。
「何やら騒がしいようですね。貴方の声にも焦りがある。何かあったのですか?」
『……栖漸砦が、青嵐の騎士どもに襲撃されている』
「……!」
黎が言葉を詰まらせた。それから声を低くする。
「戦況は、どうなっていますか」
『ふん、こっちが圧倒的優勢だ。情報の国と舐めてかかってきやがってな、お前がしごいた騎士団の力を見くびって少数で攻めてきたんだよ。まあ……王冠じゃなかったのがせめてもの救いだが』
「とはいえ、砦で青嵐との戦闘が行われたのはもう十何年も前。砦詰めの騎士の顔ぶれも代わり、模擬戦以上の戦闘をしたことがある者は全騎士の四分の一にも満たない。戦いが長引けば長引くほど、我らが不利になります」
『そんなことは承知しているさ。だから急いで王都から援軍を送っている。勝利は間違いないが、極めて辛い勝利になるだろう』
黎のこめかみを、一筋の汗が伝う。通信機の向こうで狼雅が笑った。
『そう心配するな、戦闘経験が浅いと言っても、砦の指揮官は百戦錬磨の騎士隊長。あの矢吹もいねえ。お前の部下たちを信用しろ』
「……分かっています」
『襲ってきた騎士は、玖暁の天狼砦を攻めた奴らだ。お前らが青嵐の大神核を狙っている隙に仕掛けてきたんだろう。そう言うわけだ黎、彩鈴には戻るな! 今なら天狼砦の兵力も少ない、天狼を突破して玖暁へ入れ』
「それしかないですね」
黎がふうっと息をつく。狼雅が「それから」と付け加えた。
『矢吹が大神核を狙っているとしたら、それを手に入れた今が一番危ない。いいな黎。……知尋から、目を離すな』
「……はい」
あえて真澄らにそれを奪わせ、あとで知尋を使って取り戻す。その可能性がないわけではないのだ。そんな疑心を持って知尋に接したくない、というのが黎の本心であるが、それ以上に、知尋が真澄に刀を振り下ろす、もしくは逆に真澄が知尋を斬らざるを得ないような状況にだけは、絶対にさせたくなかった。
通信を切った黎は、心配そうな顔をしている真澄たちのもとへ戻った。そして短く告げる。
「栖漸砦が青嵐騎士に襲われています。今、彩鈴へは戻れません」
「……図られたか」
真澄が顎をつまんだ。
「彩鈴に戻れないなら、このまま玖暁へ行くしかありませんよね?」
奏多の問いに黎は頷く。
「栖漸砦を襲撃している騎士は、天狼砦を陥落させ、事後処理に残されていた騎士たちだと思われる。突破するには、今しかないだろう」
「ではこの後は天狼砦へ向かう。……にしても黎、砦の騎士たちは大丈夫か?」
黎は真澄に微笑んで見せた。
「はい。諜報国の騎士だと舐めてかかった連中は、すぐ痛い目を見ますよ」
「ははっ、末恐ろしいな」
瑛士が明るく笑った。心配だが、気にしてもどうにもならない。黎が自信を持って大丈夫だと言ったのだから、瑛士も大丈夫だと信じるのだ。
日が暮れるまで一行は玖暁へ向けて南下を続け、見覚えのある場所で野営することになった。行きでもここで一晩を明かしたのである。
奏多が夕食作りを引き受け、宙が止めなかったので真澄らは安心して奏多に準備を任せた。そうして出来上がった食事を見て、一同おおいに驚く。何かと抜けている奏多だが、料理の腕前だけは超一流と言っていいほどだったのだ。巴愛と奏多がいれば、食事には困らないだろう。それまで巴愛ひとりに負担がかかると思って全員が交代で食事当番を務めてきたが、どうやら巴愛も奏多も食事を作ることはさほど苦ではないようなので、これからはふたりに任せて他は雑用に専念しよう、という方針が決定した。
何か考え込んでいたような知尋が口を開いたのは、夕食の片づけが終わった時だった。
「真澄」
「どうした、改まって?」
知尋は真澄の正面に膝をついた。
「呪いを解く方法が、三つの大神核を消滅させるしかないということは分かっています。それでも賭けてみたいのです。私の魔力と、真澄に呪いを刻んだこの神核で、呪いが解けるのではないかと――」
真澄は驚いたように目を見張り、蛍を見やった。蛍は頷く。
「……大丈夫だとは思うけど、気を付けて」
「――よし、ならやってみてくれ」
知尋は頷き、炎の大神核『神炎』を取り出した。鈍い光を放つそれを、知尋はそっと地面に置く。それから知尋は、いつも使っている治癒術用の神核を掌に握った。「呪い」という能力を持つ神核で、真反対の「解呪」を行うなら、「治す」という力を持つ神核が必要なのだ。本来はそんなこともないのだが、大神核の力が半端ではないので、知尋は完全を期するために治癒の神核を用意している。
呪いを隠している布を、知尋がそっと取る。そこにある紋章の色は、確かに赤く染まりつつある。
知尋はその紋章に手を当てて目を閉じ、【集中】する。淡い光が呪いの紋章を包み込む。その様子を、仲間たちは固唾を呑んで見守っていた。
「大神核を使えるなんて、すごい……」
蛍がそう呟いた。
だが、すぐに知尋は術をやめた。真澄の腕を離し、神核を下ろす。真澄の紋章に変化はなかった。
「……駄目、ですね。なんともありませんか、真澄?」
「ああ……私は平気だ」
「そうですか。それなら良いんですが……」
そう呟いた知尋の身体が前のめりに倒れた。真澄が慌てて抱き留める。
「知尋……!」
「すみません……少し、力を使いすぎました……」
「無理をするな、頼むから……! 私のためにそこまでしなくてもいい。まずは自分を大事にしてやれ」
知尋は微笑んだ。
「自分を大事にしたら、私にできることはなくなります……多少身を削ってでも、私は私のすべきことをしなければ……」
真澄は目を見張った。知尋は顔を上げる。
「……それで迷惑かけているのだから、偉そうなことは言えませんね。ごめんなさい、言うこと聞かなくて」
「いや……有難う」
真澄の言葉に、知尋は微笑んだ。
その日の夜、みなが寝静まったころ。火の番と見張りを務めていた黎の傍に、真澄が歩み寄ってきた。
「兄皇陛下。どうされましたか?」
「うん……考え事をしていたら、眠れなくなって。それで少し相談……というかな」
「御堂でなくていいのですか」
「瑛士には、相談しにくいな。すまない、聞いてくれるか?」
「はい、お役に立てるのならばなんでも」
真澄はふっと笑みを浮かべた。
「……矢吹佳寿とやらは大神核を狙っているはずだ。それなのにあの研究施設。確かに警備の人数は多かったが、あれほど容易く突破できたことが引っかかってな。国を滅ぼしてまで手に入れたいものの内の一つを、ああも簡単に奪われる……そんなことがあるものなのかと、ずっと考えていたんだ」
真澄は黎の隣に腰を下ろした。黎は焚火に薪をくべながら、尋ねる。
「その結論は?」
「もう一度、私の手から奪い返す手段なり自信なりがある、ということだ」
どきりとした。真澄は、ある結論に達しているのではないだろうか。黎が最も回避したい結論に。
「何もひとつひとつ矢吹が自分で見つけなくとも、私は呪いを解くために大神核を集めているのだ。いずれ私はすべての大神核を手に入れる。逆に言えば、矢吹は私に神核を集めさせるために、私に呪いを刻んだのではないだろうか」
「……そうですね」
「そして三つ集まった時、それを奪う」
黎は沈黙した。
「黎。貴方は……というより、貴方と狼雅殿は知尋を怪しんでいるだろう。知尋が神核を奪うつもりだと」
「兄皇陛下……!」
「いやいい。――私も同じ結論に至っている」
真澄の声は静かだった。黎は浮かしかけていた腰をまた下ろした。
「いつから、そうお考えに?」
「最初からと言えば最初からだ。知尋と再会できたのは嬉しかったが、どうもそれだけではないような気がしてな。……まったく、実の弟を信じることができないなんて、私は酷い人間だな」
「いえ……さすが陛下は聡明ですね。御堂はそのことを……」
真澄は顔を上げて瑛士を見やる。刀を抱えて木の幹に寄りかかり、瑛士は眠っている。見る限り起きている様子も、聞こえている様子もない。
「気づいているさ、あれでもな。ただ瑛士の場合、不思議に思ったことが疑心に変わる前に、相手を信じる気持ちに変えてしまうんだ。あいつはそんなことをするはずがない、とな」
「……御堂の性格をとやかく言うつもりはありませんが、そんなことで大丈夫なのでしょうか? 騎士団長ともあろう者が楽観的というか、無条件に相手を信じてしまうなど」
「ごもっともだ。……だけど、瑛士はそれでいいのだと思う。信じることで希望ができて、希望を信じればそれが現実になるかもしれない。そんな前向きな考え方も、確かに必要なんだ。私のように、身内を最初から疑いの目で見てしまうより、余程……」
彩鈴を旅立つ前、狼雅は真澄と瑛士のことを「知尋と再会できて盲目になっている」と言ったが、それは大きな間違いだった。真澄は最初から疑心を抱き、死んだと思っていた弟との再会を心から喜べない自分を嫌悪していたのだろう。そしてそれを隠していた。あの狼雅にも読み取らせないように、疑心を隠して知尋と接していた。
「もし知尋が矢吹の手に落ちたのだとすれば、考えられることはふたつ。知尋が自分の意思で矢吹と取引したか、知尋も知らないうちに奴の手中に落ちているか……」
黎が頷く。
「取引だとすれば、民の命を盾にされたかもしれませんね」
「ああ……けれど、それにしては私たちに対して後ろめたさがない。知尋は分かりやすい奴だからな、考えていることはすぐ顔に出るのだが」
「そうですね。兄皇陛下らと接している弟皇陛下は、自然体そのものです」
「――だから私は知尋を信じる。あいつは、矢吹の手中にはいない。いたとしても、それはあいつの意思ではない。そう……信じたい」
真澄はそう断言した。その眼差しはいつもと変わらないが、握りしめた拳が少し震えていることに黎は気づいた。信じると口に出すことで、自分の意思を再確認していたのだ。
「……私も信じています」
黎はそう言った。
「しかしもしもの時は、私は弟皇陛下を斬ります」
「黎……」
「そんな日が来ないことを、祈りますがね」
黎が微笑むと、真澄も頷いた。
「……有難う。頼りにしている」




