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第30話 幻影の試練~責める亡霊たち~

 「あっ、あれですよ! あれ! あれが天狗の冷泉です!」


 スイリアが興奮気味に指をさした先には、峠道の途中に泉がこんこんとわいているのが見えた。


彼女の銀紫色の髪が風に揺れ、瞳は宝石のように輝いている。


 「おっ、ついに見つけたな。途中で変な怪物に妨害されたが、見つけられてよかった」


 そう言って泉に近づこうとした瞬間、まだ薄暗い樹林の奥から、ごぅ、と低く唸る風の音が聞こえてきた。


それが合図だったかのように、まるで生き物のように霧が寄せ集まり、俺たちを包囲してきた。


 「わっ……!?」


 思わず身構えた瞬間、視界が白く染まる。体を動かそうとするも、足元がどこかに沈み込んだかのように重い。砂に足を取られたような感覚に、恐怖が背筋を走る。


 「芦名殿!」


 スイリアの呼ぶ声が遠くに聞こえ、次第に意識が霞んでいった。


まるで深い夢の中に引きずり込まれるように、俺の体は霧の渦の奥へ落ちていった。


 ――ズウゥンッ。


 腹の底に響く爆発音。鼻を突く硝煙と、海水と油が混じった焦げ臭いにおい。乾いた喉に、かつて覚えのある恐怖が蘇る。


 「この匂い……まさか」


 視界が晴れると、そこは艦の甲板だった。傾きかけた駆逐艦「白雪」の甲板。上空には黒々とした飛行機の編隊が舞い、海上には炎上する輸送船が散在している。海は黒く濁り、あちこちに死体が浮かんでいる。


 「ビスマルク海……!?」


 動揺を抑えきれず呟く。1943年3月3日、あの地獄の光景がまるで現実のように再現されていた。あの日、数百機の連合軍機が一斉に襲ってきたあの恐怖が、身体に蘇ってくる。


 「何で、俺はまた……ここにいる?」


 まさか夢にしてはあまりに生々しい。足元には倒れた水兵がうめき声を上げている。周囲からは断末魔の叫び、爆撃機の爆音……あの日の記憶が鮮明によみがえり、胸が激しく痛んだ。心臓を握りつぶされるような痛みに、息が詰まる。


 「俺は……戻ったのか……? いや」


 「これが、"幻影の試練"か……クソッタレが……!」


 甲板が激しく揺れる。煙が視界を塞ぎ、爆弾の衝撃が鼓膜を揺らす。慌ただしく叫ぶ声が周囲を飛び交うが、なぜか耳にこびりつくノイズのようで、内容がうまく分からない。まるで水中で聞くような、不思議なこだまを伴っている。


 「艦長……助け……」


 足元に倒れ込んでいる水兵が、濁った血を吐きながら手を伸ばす。その姿が痛々しくて、俺は無意識に膝をつき、彼の肩を支えた。彼の軍服は血で濡れ、顔は蒼白で、瞳にはもう輝きがない。


 「大丈夫か……! いま、俺が……」


 言葉をかけるが、その瞬間ふっと周囲の音が途絶える。


水兵の目は焦点を失い、息絶えてしまったのか静かに沈黙している。


その口からは一片の言葉も聞こえてこない。


冷たくなっていく彼の体を抱きしめながら、俺は無力感に押しつぶされそうになる。


 「やめろ……こんなの……」


 苦しくなる。かつての悪夢が現実となって迫ってくる。自分の中で必死に否定しても、この光景の生々しさが否応なく心を削る。


胸の奥がえぐられるような痛みに、思わず目を背けたくなる。


 「艦長……どうして……守ってくれなかったんですか……どうしてこんなところに連れてこられたんですか……!」


 振り向けば、何人もの亡霊がそこに立っている。目を背けたくなるほど血みどろで、恨みのこもった視線をこちらへ注いでいる。どうしようもない罪悪感が、全身を締め付けた。彼らの表情には怒りと失望が混ざり合い、無言の責めが俺を貫いている。


 「俺は……守りたかった。だけど……間に合わなかったんだ、あの時は……」


 頭で分かっていても、その言い訳は何の救いにもならない。


戦死した仲間たちからすれば、艦長の俺が無能だったという結論にしか至らないのかもしれない。


あの時、もっと早く撤退命令を出していれば、もっと違う判断をしていれば……そんな「もしも」が頭の中を埋め尽くす。


 「それでも……あなたがもっと強く反対していたら、こんな作戦は……!」


 誰とも知れぬ亡霊の言葉。たしかにあの無謀な輸送作戦を止めようとしたが、一介の艦長がどこまで通せただろう。


そう自分に言い聞かせながらも、後悔が消えることはない。


当時を思い出せば、確かに俺はもっと強く主張すべきだったのかもしれない……。


 「……くそっ!」


 拳を握りしめ、立ち上がろうとしても脚が震える。息が上手くできない。


甲板がガタンと音を立てて傾くと、亡霊たちがそれに合わせて漂う。彼らの顔が、どこか歪んでいるようにも見えた。


 「艦長、また同じだ……! 何も変わらず、再び沈む……!」


 結局は、守れない艦長という烙印を押されただけじゃないのか?


幻の水兵たちが一斉にこちらを責め立てる。血の匂いが鼻をつき、炎の熱が肌を焦がす。


全てが本物のように感じられて、現実との区別がつかなくなる。


 「うるさい……黙れ……!」


 歯を食いしばるが、身体が震えて動けない。


まるで水底に沈んでいくように、視界がぐにゃりと歪む。


息が詰まるような窮屈さに、胸が締め付けられる。


 「艦長! なぜ……助けてくれなかった……!」


 目の前に血まみれの部下がうつ伏せになり、震える手を伸ばしている。


彼は酸欠のように肩で息をしながら、殺意にも似た視線を俺に向けた。生気のない瞳が、それでも強い非難の意を込めて俺を見つめる。


 「見捨てた覚えは……ない、俺は……!」


 言葉に詰まる。事実、あの時、俺は止めきれなかった。


物量に勝る連合軍の猛攻を前に、仲間を救おうとしても指示が後手に回り、多くの命が失われた。ど


れだけ必死に戦っても、勝ち目のない戦いだったのだ。


 周囲にも、憎悪を帯びた顔が次々と現れる。


みな軍服を焦がし、満身創痍で、すでに息絶えた仲間たち。


彼らの表情に歪んだ怒りと、彼らの身体に浮かぶ無数の傷跡。軍服はずたずたに裂け、肌は焼けただれている。


 「艦長……娘に、伝言を……」


 「どうして、もっと早く撤退させてくれなかった?」


 「あなたを信じていたのに……」


 耳をふさぎたくなる悲痛な声。甲板は火炎に包まれ、煙が視界を奪う。息苦しさと罪悪感で、俺の身体はズルズルと膝をついてしまった。目をつぶっても声は止まず、耳をふさいでも悲鳴は聞こえる。


 膝をついたまま顔を上げると、霧の中から一人の少女が現れた。高校生の制服に身を包んだ陽菜だ。だが彼女の顔色は悪く、明らかに毒に冒されている。


 「さだっち……どうして助けてくれないの? あたし、死んじゃうの……?」


 陽菜の声は震え、その姿は徐々に透明になっていく。


 「待て、陽菜!」


 俺は必死に手を伸ばしたが、彼女の姿は霧の中に溶けていった。代わりに現れたのは、銀紫色の髪を持つスイリアだった。


 「芦名殿、あなたは本当に誰かを救うことができるのですか? それとも、またすべてを失うのですか?」


 スイリアの声は厳しく、彼女の目には失望の色が浮かんでいる。俺は動けなくなった。そのとき、背後から別の声が聞こえた。



逃げられない現実に、俺は打ちのめされていく。


 そして、血まみれの木村司令官が俺に恨みをこもった目で見つめた。


いつもの温厚で頼もしい表情は消え、今は苦悩と失望だけがその顔を支配している。


 「貴様、あなたはこの世界でもまた守れないのだろう? 今度は誰を見殺しにするんだ?」


 その言葉が、まるで刃のように俺の胸を貫いた。

第29話をお読みいただき、ありがとうございます!


今回は、芦名が直面する「幻影の試練」の始まりを描きました。


彼の心に深く刻まれた戦争のトラウマが、亡霊となって彼を責める場面です。


過去の罪悪感と向き合うことは、誰にとっても困難なこと。芦名はこの試練をどう乗り越えるのでしょうか?


次回、芦名は幻影と対峙し、自らの心と向き合います。スイリアの力も加わり、二人はついに冷泉の水を手に入れることができるのか? そして陽菜を救うことはできるのか? ぜひ次回もお楽しみに!



皆さんの応援が私の創作の原動力となっています。


少しでも楽しんでいただけたなら、ブックマークや感想、評価ポイントなどをいただけると大変嬉しいです。


「良かった」「このキャラクターの言動が印象的だった」など、ほんの一言でも構いません。


読者の皆さんの声を聞くことで、より良い物語を紡いでいけると思っています。

よろしくお願いいたします。

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