第22話 エルフの村の温泉宿~心の距離を縮めて~
俺たちが辿り着いたショワルの村は、タジマティアと比べると一回り小さな山間の集落だった。
一本の道の両側にはパラパラと建物が並び、その周りには田畑が広がり、さらにその先には緑深い山々が村を優しく抱きかかえるように取り囲んでいる。
だが、何より違うのは村人たちだ。長く尖った耳、透き通るような白い肌、彫刻のように整った顔立ち
——これがエルフという種族なのか。
スイリアは銀紫色の髪こそ持っているものの、顔立ちは人間に近かったので、これまであまり気にしてはいなかった。
だが、今この瞬間、自分が異世界にいるのだという実感が胸に迫ってきた。
エルフたちは俺のことを、まるで珍しい生き物でも見るかのような視線で見つめてくる。正直、居心地はよくない。胸の奥が少しざわつく。
「すみません、芦名殿」
スイリアが俺の耳元で囁くように言った。彼女の甘い香りが鼻をくすぐる。
「この辺りはエルフの村で、人間があまり寄り付かないのです。でも、私がいるから大丈夫ですよ。ちょっとだけ我慢してくださいね」
彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。その表情があまりにも愛らしくて、つい見とれてしまう。
「ああ、気にするな。お前が案内してくれるなら安心だ」
俺はそう答え、村の道を歩み続けた。
町に入ってから10分ほど歩くと、木々に囲まれた小さな宿屋に到着した。
宿屋の受付に二人で入ると、優雅な佇まいのエルフの女将が現れ、スイリアを見るや否や、目を輝かせた。
「これはこれは、王女様、ようこそおいでくださいました! ささ、こちらへどうぞ」
俺は「そろそろ王女と呼ばれている意味を話してもらおうか」という視線を送ると、スイリアは苦笑して、まるでバレてしまったという顔でペロッと舌を出した。
その仕草があまりにも可愛らしくて、思わず「かわいい」という言葉が脳裏に浮かんだ。
——いかん、いかん。こんな時に変な感情を抱いてはいけない。
俺は慌てて視線を外した。
「お連れの方もこちらへどうぞ」
女将にそう案内され、「おつきの者ではないのだが」と心の中でつぶやきながら、仲居さんに連れられて部屋へ向かった。
この宿は温泉宿だった。仲居さんは異邦人であるはずの俺にも親切に館内の案内をしてくれた。この地方には数々の温泉があるらしく、村ではここが唯一の温泉宿とのことだ。
スイリアとは、一旦休息を取った後、19時に宿の食堂で夕食をともにしながら落ち合うことにした。
俺は部屋に戻り、持参した荷物を整理すると、温泉へ向かった。
湯は熱く、体の芯からじんわりと温まる。南方に進出して以来、温泉に入るのはかなり久しぶりだ。疲れた体に湯が染み渡り、一瞬だけ心が緩んだ。
風呂から上がり、海軍で身についた5分前行動を心がけ、19時少し前に食堂へ向かった。
木の温もりを感じる素朴な食堂には、既にスイリアの姿があった。銀紫色の髪が優しい灯りに照らされて、美しく輝いている。ドレスではなく、シンプルな服装だが、それでも気品が溢れていた。
「お待たせしました」
俺が席に着くと、スイリアは開口一番、申し訳なさそうな表情を見せた。
「私の正体について気になりますよね……?」
「王女様、か」
「はい。正式には、私はノースアイヴェリア王国の第三王女、スイリア・ホルシーナと申します」
彼女は真剣な表情で自己紹介を続けた。
「父はノースアイヴェリアの王で、母はこの辺りを治めているサウスアイヴェリア王国の王女です。ですから、人間とエルフの政略結婚の結果生まれたのが私というわけです」
「そうだったのか」
視線を落とし、少し遠慮がちに話すスイリアの姿に、様々な思いが交錯しているのを感じ取った。
「でも、王女であるならば王都にいるはずではないのか?」
「それはその、ちょっと事情があって……」
スイリアは言葉を濁し、視線を落とした。その表情に何か深い痛みを感じ取り、俺は追求するのをやめた。深く事情を聴くような間柄でもないし、無理に聞き出すのは失礼だろう。
そのとき、料理が運ばれてきた。見た目も鮮やかな野菜料理と、香ばしそうな肉料理。どれも地元の食材を使ったものらしく、エルフの料理人の腕前は確かなものだった。
「それでは」スイリアは話題を変えるように言った。
「芦名殿、貴方のことも教えてくださいな」
「俺?」
「昨日、貴方は『この世界では』とおっしゃいました。ずいぶん変わった言い方だと思いました。貴方は一体どこの出身なのですか?」
彼女は身を乗り出し、まっすぐに俺の目を見つめた。その視線の鋭さに、ただのハーフエルフの医師ではない、王族としての威厳を感じた。
俺は一瞬ためらったが、嘘をつく理由も見当たらない。観念したように言った。
「実は、俺は全く違う場所——いや、世界といった方がいいかもしれないな——そこから来たんだ」
「違う世界?」
「ああ。昨日まで、南洋の戦場で戦っていたんだが、そこで死んだと思った瞬間、この場所に倒れていたんだ」
「異世界というわけですか……」
スイリアの瞳が驚きで大きく見開かれた。
「どうりで見たことのない服装をしていると思いました。戦場とおっしゃいましたが、貴方は軍人さんなのですね?」
「そうだ」
俺は頷いた。
「というと、こちらにも軍人という職業があるのか?」
「はい。サウスアイヴェリアには軍隊はありませんが、ノースアイヴェリアには軍隊があります」
スイリアは少し表情を曇らせた。
「でも、私自身、軍人というものにはあまりいい印象がなくて……ごめんなさいね、貴方とは関係のない話ですよね」
「いいんだ」
俺は穏やかに微笑んだ。
「軍人が活躍する時代など来てはいけないものさ。逆に言えば、軍人を必要としない社会というのは、すなわち平和な時代ということだからな」
南方での戦争の記憶が一瞬脳裏をよぎる。あの悲惨な光景を、この世界で繰り返してはならない。
「いつの世でも、軍人は政治に関与してはいけないんだよ」
スイリアは俺の言葉に驚いたように目を丸くした。
「貴方のような考えを持った軍人もいるのですね。ノースアイヴェリアでは、軍人たちが何かにつけて政治に干渉してくるので困ったものです」
「そうなのか」俺は苦笑した。
「まぁ、俺のは上官の受け売りなのだがな」
俺はある軍人の顔を思い浮かべた。
あの方は、二・二六事件で青年将校に銃撃され、何度も心停止をするも、奇跡的に復活し、今頃は東京で枢密院副議長をしているはずだ。
この異世界に来なければ、きっとあの方――鈴木貫太郎海軍大将――の下でもっと学ぶことがあっただろう。
「ということは」スイリアが思案顔で訊ねた。
「貴方は今どこにも属していないということですか?」
「まぁ、そうなるな」
食事をしながら、俺は来たときの状況を話した。
「来た時に、神様とやらが現れて、この世界を救ってほしいといわれたんだ。それをすれば元の世界に戻すのもやぶさかではないと」
「そうでしたか……」
スイリアはそうつぶやくと、何やら考え込んでいるようだった。その長い睫毛が灯りに照らされて、美しい影を頬に落としている。
ちょうど二人とも料理を食べ終わった頃、俺は壁にかけてある時計を見た。
「もういい時間だし、今日はそろそろお開きにしようか。明日だが、朝から湧水を取りに行って、できれば明日中にタジマティアの町に帰りたいと思うが、それは可能だろうか」
スイリアは考え込んでいたようで、不意を突かれたように慌てた様子を見せた。
「え? あぁ、そうですね……えーっと、朝に出れば、水を回収して夕方には戻れると思います。でも、泉に行く道は今日ほど整備された街道ではなく、本格的な山道なので、獣が出る可能性が高いです。戦いながらとなると、どうかわかりません」
「わかった。まぁ、だめなら再びここに戻って一泊してもいいしな」
俺は少し心配そうに付け加えた。
「ただ、あのお嬢さんのことが心配だから、一刻も早く戻ったほうがいいと思ってね」
「そうですね」スイリアは優しく微笑んだ。
「まぁ、いざとなれば家に帰るだけなら飛行して帰ってもいいですし」
「じゃあ、明日はよろしく頼む。今はスイリア……王女様が頼りだ」
俺が名前の読み方で言い淀んでいると、スイリアはくすりと笑った。その笑顔に、どこか緊張が解けていくのを感じる。
「スイリアでいいですよ。こちらこそ、よろしくお願いしますね、芦名殿」
そう言って彼女が差し出した小さな手を、俺は恐る恐る握った。柔らかくて温かい、しかし意外なほどしっかりとした手だった。
俺はスイリアと別れた後、部屋に戻り布団に入った。窓の外からは、山の夜の静けさと、時おり聞こえる虫の音だけが聞こえる。
ここ2日間の出来事を思い返す。
海戦から突然異世界に転移し、歩いたり、怪物に襲われたり、ハーフエルフの王女に助けられたりと、まさに怒涛の日々だった。
一番気がかりなのは、あの輸送作戦の行方だ。
司令官は助かっただろうか、水雷戦隊の幕僚や副長以下の部下たちは……。
俺には、一刻も早く帰って、乗員たちの安否を確認する義務がある。
しかし、今は異世界にいる身。あのふざけた神の言う通り、ここの問題を片づけて元の世界に戻らなくては。
自分だけ、異世界といえども内地に帰るなんて許されることではない。
そして次に思い浮かべたのは、陽菜のことだった。
若い彼女は今頃どうしているだろう。朝になったら早々に湧水のところまで行き、治療に必要な水を持ち帰らなければ。
そんなことを考えているうちに、目蓋が次第に重くなっていった。
異世界の夜は、戦場より遥かに静かで平和だった。
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