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第20話 フーネガハーナ峠の休憩

 フーネガハーナ峠の休憩所は、想像していたよりもずっと小さな山小屋だった。


 俺とスイリアは小屋の軒先のベンチに腰を下ろし、長い上り坂を登った後の心地よい疲労感を味わっていた。


「疲れましたか?」


 スイリアが心配そうな瞳で俺を見上げてきた。その透明感のある青紫色の瞳に見つめられると、どうにも心が落ち着かない。まるで海面に月光が反射したような、そんな神秘的な輝きを持つ瞳だ。


「いや、全然平気だ。それより、お前こそ大丈夫か? 魔法を使って二人を飛ばすとなると、相当な魔力を使うだろう」


 俺の言葉に、スイリアは小さく微笑んだ。薄い唇が弧を描く様子は、見ているだけでどこか心が和む。不思議な感覚だ。


「大丈夫です。実は私、エルフの中でも魔力の回復が早い方なんです。ほんの少し休めば元気になりますから」


 そう言いながら、スイリアは小さなガラス瓶から青い液体を一口含んだ。その動作は優雅で、洗練されている。


「それは何だ?」


「マナポーションといって、魔力を回復する薬です。ちょっと苦いんですけどね……」


 スイリアが苦い物でも食べたように顔をしかめるのが、なんとも可愛らしい。まるで小さな子供が嫌な薬を飲まされているようだ。思わず笑みがこぼれそうになるのを必死で抑えた。


「そうか、そういう便利なものがあるんだな」


 俺は峠から見える景色に目を向けた。はるか下方に緑の絨毯が広がり、その向こうには鏡のように光る湖が見える。



「ところでスイリア、この先の下り道は安全なのか?」


 何となく気になって尋ねると、スイリアは真剣な表情になった。さっきまでの柔らかな表情から一変して、眉間に皺が寄る。


「はい、基本的には安全です。でも……」


 彼女が一瞬言葉を切ったのを見逃さなかった。


「でも?」

「時々、魔物が出ることもありますから、油断はできません」


 スイリアの口調に緊張感が混じる。単なる注意喚起ではない、何か具体的な懸念があるような口調だ。俺の軍人としての勘が鋭く反応した。


「魔物か…… こっちの世界の魔物について、もう少し詳しく教えてくれないか?」


「そうですね…… この辺りにはゴブリンの群れが時々出ます。小柄で緑色の肌をした人型の魔物で、棍棒や短剣などの武器を持っています。ほとんどは人を避けるのですが、中には集団で旅人を襲うこともあるんです」




 スイリアが説明するうちに、休憩所の中から年老いたエルフの男性が出てきた。長い銀髪に、深い皺が刻まれた顔。それでいてどこか気品が漂う。まるで古い樫の木が人の形になったような風貌だ。


「おや、王女様じゃないですか! こんなところで何を?」


 老エルフは驚いた表情でスイリアに深々と頭を下げた。王女様と呼ばれるスイリアの表情が、一瞬だけ固まった。彼女の瞳に微かな動揺が走る。どうやら彼女はあまりその立場を人前で出したくないようだ。


聞かなかったことにするか。


「シーラさん、お久しぶりです。ショワルの村に行く途中なんです」


 彼女は自然な笑顔で返答した。その場の空気を壊さない滑らかな対応に、俺は内心で感心する。やはり育ちの良さというものだろうか。


「そうですか。でも、これから下りは気をつけて行かれた方がいいですよ。昨日から、ゴブリンの一団が活発に動いているという報告がありました。どうやら新しいボスが現れたようで、いつもより大胆になっているとか」


 老エルフが心配そうに言う。その声音には、ただの世間話以上の警告が込められていた。俺は反射的に軍刀の位置を確認した。視認してない敵でも、常に警戒を怠らないのは軍人の基本だ。千鳥が危険を察知するように、五感を研ぎ澄ます。


「それは心配ですね。ありがとうございます、気をつけます」


 スイリアは丁寧にお礼を言うと、俺に向き直った。その大きな瞳に不安の色が浮かんでいる。夕日に映える湖面のように、その瞳は微かに揺れていた。


「少し危険かもしれませんね…… 私の魔法もまだ完全に回復していないですし……」


「ふむ、何か対策はあるか?」


 俺は冷静に尋ねた。危機的状況でパニックになったところで解決しない。それは海軍軍人として身に染みついた教訓だった。いつだって冷静な判断が部下の命を救う。今は部下こそいないが、スイリアを守る責任を感じていた。


「そうですね……」


 スイリアは考え込んでから、小さな袋から緑色の粉を取り出した。微かに芳香が漂ってくる。何か薬草を乾燥させて挽いたような感じだ。澄んだ森の香りと、微かなスパイスのような刺激が混じり合った独特の匂い。


「これは忌避粉です。ゴブリンが嫌う香りがするので、身につけていれば近寄りにくくなります」


 スイリアは粉を少し手に取り、自分の首筋や手首にすり込んだ。優雅な仕草だが、その手つきには医者としての手慣れた感じがある。彼女の指先が自分の肌をなぞる様子に、思わず見入ってしまう。長い指、滑らかな肌、エルフ特有の繊細さ。


「これを首や手首につけてください。匂いは少しきついかもしれませんが……」


 俺は言われた通りに粉を手に取った。確かに独特の香りがする。樟脳に似た匂いだが、何か甘みも感じられる。あまり悪くない匂いだ。首筋と両手首に粉をすり込んでいくと、スイリアがじっと見つめてくる。


「芦名さん、もう少し丁寧に……こうやって」


 スイリアが俺の手を取り、粉の塗り方を教えてくれる。その手が触れた瞬間、思わず息を呑む。温かく、柔らかい感触。前世では女性と手を繋ぐことも少なかった俺は、少し動揺してしまった。


「よ、よし、これで準備万端だな」


 動揺を隠すように、俺は椅子から立ち上がった。




 俺たちは休憩を終え、峠から下り始めた。


 時々、スイリアが立ち止まって周囲を観察する。おそらく魔物の気配を探っているのだろう。彼女の長い耳がわずかに動いて、森の音に敏感に反応しているのが見て取れた。異世界だからこその光景に、思わず見入ってしまう。魅了されるように彼女の仕草を追う自分がいた。



「この辺りには希少な薬草も多いんですよ」



 スイリアは道端の小さな青い花を指さした。


「これはソラニウムといって、傷の治療に効果のある薬草です。私もよく使うんですよ」

 スイリアが薬草について話す時の表情は、いつもより生き生きとしている。


自分の専門分野だからだろう。医師としての彼女の一面を垣間見る気がした。彼女の熱心な様子に、思わず笑みがこぼれた。


「へえ、それは興味深いな。俺の世界でも薬草は使うが、こんな鮮やかな青色のものは見たことがないよ」


 俺が答えると、スイリアは嬉しそうに微笑んだ。彼女の笑顔は、この森の美しさに負けないほど輝いている。心がじんわりと温かくなるような、そんな笑顔だった。


「芦名さんは薬草に興味があるんですか?」


「まあ、知識として知っておくのは悪くないと思ってな。戦場では医療物資が不足することも多い。そんな時に自然の力を借りられるなら……」


 俺の言葉が途切れたのは、突然の物音に気づいたからだ。茂みが揺れる音と、かすかに聞こえる笑い声のようなものが耳に入る。人間のものではない、奇妙な笑い声だ。


 背筋に冷たいものが走る。恐怖ではない。戦闘に入る前の緊張感だ。狙われている——そんな感覚が全身を駆け巡る。


 俺は反射的にスイリアの前に立ちはだかった……。

お読みいただき、誠にありがとうございます!


皆さんの応援が私の創作の原動力となっています。


少しでも楽しんでいただけたなら、ブックマークや感想、評価ポイントなどをいただけると大変嬉しいです。


「良かった」「このキャラクターの言動が印象的だった」など、ほんの一言でも構いません。


読者の皆さんの声を聞くことで、より良い物語を紡いでいけると思っています。

よろしくお願いいたします。

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