12ルベルトの思惑
リリスティアが高熱を出して寝込んでいるという情報に、私はかつてないほどに動揺した。あまりの慌てぶりに、側仕えの者は私の正気を疑い、あるいは誰かが私に成りすましているのではないかということまで考えたらしい。
だが、私は正気だった。正気で、そして心からリリスティアのことを心配していた。
ここ数日のリリスティアの心労は、第一王子としていずれは国を統治することになる私が普段から感じているプレッシャーの何倍も大きなものだっただろう。
父であるグレイシャス伯爵は捕らわれ、地位も住処もすべてを失い、多くの者に頭を下げて宿を探した。さらには、自分より圧倒的に力のある者たちが、数の多い者たちが、悪意を持って接近してくる。目の前で長年家に仕えた者が倒れ、決死の覚悟で治療を行った。
ああ、言葉にするほどにリリスティアを襲った怒涛の事件の重さを感じてめまいがした。こんなにも多くの試練を乗り越えてきたのだ。家令が無事だとわかって気が抜けてしまったのは仕方がないことだろう。
だが、果たして彼女は本当に大丈夫なのだろうか。ろくな栄養を取ることも、心地よい寝具で眠ることもできない彼女は、このまま弱って亡くなってしまうのではないかと思った。
一度そう考えてしまえば、気が狂いそうなほどに彼女を心配する思いが胸の中で膨れ上がった。
何とかして、彼女を救いたい。彼女に手を貸したい。再び、私に向かって笑いかけてほしい。私の隣に立って、ともに歩んでほしい。
気づけば、私は彼女を王妃に望んでいた。そんなことができるはずがないのに。
何しろ、彼女は我が国が誇る貨幣に泥を塗ったグレイシャス伯爵の血を引く娘だ。グレイシャス家の滅亡はもはや逃れ得ず、彼女は平民となって私の知らぬ場所で生きていく。
――リリスティアが、私の知らぬ場所で生きて、知らぬ男と夜を過ごし、子を産み育てるというのか?
ああ、気が狂いそうだ。あるいは、私はすでに気が狂ってしまっているのだろうか。
彼女を愛おしいと思うこの気持ちは、もはや留まるところを知らなかった。
「……は?グレイシャス家への罰を下げろ、ですか?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたレスティナート王国の使いを見ながら、私はひどく心が冷えていった。
この者たちが無能だから、グレイシャス伯爵が貨幣の偽造に手を染めることになったのではないだろうか。あるいは、実はこの者たちこそがヒルベルム硬貨の偽造の真犯人で、グレイシャス伯爵は濡れ衣を着せられただけではないのだろうか。
そう思えば、もはやレスティナート王国に気を遣う必要性は全く感じられなかった。
ええと、あの、と汗をぬぐいながらしどろもどろに告げる肥満体型の男の存在が不快だった。国民が汗水たらして稼いだ税金を横領しているという目の前の男に比べれば、献身的に多くの民の命を救ってきたグレイシャス伯爵の方がよほどまともに見えるのは、やはり俺の気が狂っているからだろうか。
これ見よがしにため息をついてみれば、男はびくりと体を揺らす。腹についた脂肪が大きく波打ち、脂ぎった汗のにおいが立ち込めた。
「……これはヒルベルム王国からの要請だ。グレイシャス家の処分を軽くしておけ」
「いえ、ですがそれだと……」
「処罰が軽すぎるとして我が国との関係に亀裂が入るかもしれないと?あるいは、その事実を他国に知られたくないと?」
「はっ、レスティナート王国はヒルベルム王国と今後も良好な付き合いをしていきたいと検討しております」
汗をだらだらと流す醜男がこれ以上目の前にいるのは不快で、何よりブヒブヒと出荷されていく豚のように自らの保身のための言葉だけを紡ぐこの男の言葉をこれ以上聞きたくもなかった。
安心しろ、と突き放すように言えば男はこれでもかと目を輝かせた。
……馬鹿が。こんな無能を送ってくるとは、レスティナート王国の人材はどうなっているのだか。
「我が国とレスティナート王国の関係の悪化は事実だからな。すでに情報は他国に広まっているぞ?今更取り繕ってどうする?」
「いえ、ですがいくら何でもグレイシャス家の処罰を軽くするというのは……」
「ふむ、私であればヒルベルム王国の心象を酌んでここは無言でうなずくところなのだが……な?」
少しにらんでやれば、男はぶるぶると首を縦に振って見せる。いや、ただ震えているだけだろうか。顎下の分厚い筋肉のせいで顔がろくに動かないような男だから、うなずいているのかもわからん。
本当に、レスティナート王国の中枢は腐り果てているらしいな。
「王子殿下、本当によろしかったのですか?」
何が、というあたりを避け、不興を買う覚悟をにじませながら聞いていた護衛に、私はむしろ何が言いたいのかと尋ね返した。
しばらく言いよどむようなそぶりを見せたが、やがて彼はおずおずと先ほどの交渉の件を述べた。まあ、その件だろうとわかってはいたが。
私に面と向かって意見を述べる胆力があることは後で護衛長に報告しておくとしよう。
「殿下?」
「ん?ああ、グレイシャス家の罪を軽くする理由だったか。最大の理由など簡単だ。レスティナート王国とヒルベルム王国の関係を悪化させるためだ」
目が点になった騎士が、周囲の警戒も忘れて呆けている姿を見ながら、私は新しく入れなおさせた紅茶に口をつけた。
換気したにも関わらず、あの男の臭気が紅茶の香りに混じっている気がする。
後であの男の横領の証拠をレスティナート王国に送っておくとするか。
そんなことを考えているうちに、ひどく真っ青な顔をした護衛の騎士はうろたえながらしどろもどろに言葉を紡いだ。
「ど、どうしてですか。まさか、戦そ――」
「気が早いな。いや、血気盛んだな、とでも言うべきか?……お前は先ほどの男を見てどう思った」
「……正直に言えば、無能、ですかね」
「ああ、私もそう思うな。あんな存在がはびこっているレスティナート王国という国など不要だとは思わんか?」
「だから、レスティナート国とヒルベルム王国の関係は悪化していると周辺諸国に目に見える形でお示しになりたい、ということですか?」
なるほど、この男は頭の回転は悪くないらしい。突飛な発想に飛躍するのは、知識を増やせばどうにでもなるだろう。指揮官向きか?後で話を回しておけばいいな。
「グレイシャス家という我が国にとって最大級の罪人を軽い刑罰で処したとなれば、他国は我が国との関係悪化を恐れてレスティナート王国との距離を開けるだろうな。そうして経済的に追い詰めてしまえば、この国はすぐに干上がるだろうさ」
わざと悪辣な笑みを浮かべて見せれば、騎士は顔を青くしてうつむいた。それからいきなり自分の両頬を叩いたかと思えば、背筋をピンと伸ばして護衛任務に戻った。
そんな騎士に一瞥をくれてから、私は再び紅茶をすすり、その香りを楽しみながら思索にふける。
騎士に語ったのは、本心とは程遠かった。
グレイシャス家の罪を軽くするように要請した大きな理由は二つある。
一つは、リリスティア・グレイシャスを守るため。このままいけば一族郎党処刑となりかねない状況で、彼女のような逸材を失うのは惜しいと思った。
いや、もう本音で語るべきか。俺は彼女を手に入れたい。だから彼女を縛るすべてを取っ払ってしまいたい。それは例えば、この国そのものだ。
そして、もう一つ。これはヒルベルム王国王子としての判断だが、やはり今回のグレイシャス伯爵の一件は何かがおかしい。
これほど早く計画が露呈して、あろうことかレスティナート王国の王女ごときが俺に情報を提供したというのが異常だ。さらには、グレイシャス伯爵には貨幣偽造の動機がなく、さらには協力者も今のところ見つかっていなかった。
貨幣の偽造という重大な犯罪に手を染めようとする以上、情報の漏洩を恐れて必要最低限の協力者に絞るというのはわからなくもないが、彼にはそもそも協力者がいた気配もないのだ。
現に、グレイシャス伯爵はどれだけ絞っても、協力者はいないと告げている。
この違和感を解消するためのアイデアが、グレイシャス家の罪を軽くするというものだった。それは口を貝のように閉ざすグレイシャス伯爵の口が軽くなるかもしれないという期待からではない。
ここでグレイシャス家の処分を軽くすれば、背後に隠れている者たちの気が緩む可能性があるからだ。グレイシャス伯爵に贋金造りの動機がないのだとすれば、彼に偽造を依頼あるいは命令した者がいる可能性が考えられる。
グレイシャス伯爵にとって多大な恩があるか、あるいはもし口を滑らせれば恐ろしい未来が待っていると思わせるような相手が、背後に潜んでいる可能性があった。
貨幣の偽造計画によって――実際に偽造したことが発覚すればまた違うが――一族郎党皆殺しでないと知れば、彼らの気が緩み、より大胆な行動に出る可能性がある。
あるいは、黒幕が無能であれば俺に甘い汁を吸わせようとしてくるかもしれない。
まあなんにせよ、リリスティアが助かるのであればそれでいい。
頭から離れないリリスティアの姿を思い出しながら、私は小さく息を吐いた。
次にリリスティアと会うことができるのはいつになるだろうか。




