壁のない部屋と1枚の似顔絵
第1話:壁のない部屋と一枚の似顔絵
松江恵太の部屋には、壁に飾られた感謝状が一枚もなかった。
床に転がり、本棚の隙間に挟まり、脱ぎ捨てた制服のポケットからしわくちゃになって出てくる。警察署長、地域の民生委員、果ては市長名義の立派な台紙まで――雑に扱っているわけではない。ただ恵太自身が、「受け取った後の扱い」にまるで無頓着なだけだった。
だが、机の上だけは違っていた。
子どもが描いたクレヨンの似顔絵が、一枚だけ画鋲で留められている。顔の半分ほどもある大きな目をした恵太と、その手を握って笑う幼い少女。裏には震える文字で「けいたおにいちゃんありがとう」とあった。
迷子だったその子を、恵太は交番まで二時間かけて歩いて届けたことがある。急ぐ理由がなかったからではない。少女が「まだあるきたい」と言ったからだ。
川で溺れていた老人を引き上げたときの感謝状も、振り込め詐欺を直前で食い止めたときの感謝状も、恵太にとってはどれも同じ価値しか持たない。困っている人がいた。だから手を差し伸べた。ただそれだけのことだった。
松江恵太――西日本一帯を統べる総合商社「松江グループ」のトップに君臨する社長の息子である。
生まれたときから何不自由なく育ち、望めば大抵のものは手に入った。けれど、彼が真に求めたのは最新のゲームでもブランドの靴でもない。「目の前の不条理を、そのままにしないこと」だった。
十四歳、中学二年生。
クラスで特別目立つわけではない。喧嘩が強いわけでも、運動神経が飛び抜けているわけでもない。それでも彼の周りには自然と人が集まる。頼りがいがあるから――というよりは、「あいつなら、なんとかしてくれる」という根拠のない、しかし揺るぎない安心感があるからだ。




