メインはこはくの配信
通話を切ると、友丸は携帯をテーブルへ置いた。
テレビではまだ、東京異界で発見された新たなエリアについて報じている。
日本政府と《ヴァルカ》による大規模調査も、残り五日。
予定になかった発見だけに、今後どこまで調査を進めるのか。画面の向こうでは専門家たちが様々な予想を口にしていた。
「さて」
友丸は膝の上へ目を落とす。
「行くか」
「にゃ」
こはくを床へ下ろし、押し入れから使い慣れたバックを引っ張り出した。
もともと、こはくのことで遅かれ早かれ深層から配信するつもりだった。
なら、ちょうどいい。
撮影機材に予備のバッテリー。水と食料。それから、近藤に貰った予備の猫マスク。
「こはく」
「にゃ」
呼ばれたこはくはふわりと浮かび、そのままバックへ収まった。
琥珀色の顔だけを外へ出している。
「じゃあ行くぞ」
小さな耳がぴくりと動いた。
◇
東京異界は、今日も大勢の冒険者で賑わっていた。
巨大なゲートを抜けた先に広がる一区では、国内外の冒険者が行き交い、素材を積んだ荷車が通りを走っている。
友丸はその中へ紛れ、普段と変わらない足取りでゲートを抜けた。
浅層へ入り、主要な探索路を外れる。
そこからさらに奥へ。
人の姿が減り、やがて周囲から気配が消えたところで、友丸は一度だけ振り返った。
誰もいない。
「こはく。ちょっと飛ばすぞ」
「にゃ」
「中にいろよ」
バックから覗いていた顔が引っ込む。
それを確認して、友丸は地面を蹴った。
一気に景色が後方へ流れた。
木々の間を抜け、岩場を越え、崖を駆け上がる。
道をたどる必要はない。
目的地までの最短距離を、ただ走ればいい。
東京異界はとてつもなく広い。
世界中から冒険者が集まっているとはいえ、人間が集中するのは主要な探索路、その周辺がほとんどだ。一度そこを外れれば、何時間進んでも誰とも出会わないことなど珍しくはない。
まして友丸は、気配まで消している。
近くに高ランク冒険者でもいれば気づかれる可能性はあるが、それ以外なら姿を捉えることすら難しい。
人の気配を感じれば避ける。
魔物も進路を塞ぐものだけ片づけ、それ以外は相手にしない。
日本政府と《ヴァルカ》は、未知の土地を調べながら進んできた。
地形を記録し、植物や鉱物を採取し、魔物の生息域を確認する。そうして地図の空白を一つずつ埋めている以上、当然時間はかかる。
友丸には、その必要がない。
行き先も、道も知っている。
ならば最短距離を進めばいい。
休憩も最低限に留めた。
食事と水分を取り、こはくにも食べさせれば、すぐに走り出す。
そうして、ほぼ一日。
◇
翌日。
東京異界、深層。
大規模調査の期限は、残り四日。
友丸は木々の間を抜けたところで速度を落とした。
「……この辺だな」
かなり先に、大勢の人間の気配がある。
その中には、深層でも滅多に感じないほど強いものがいくつも混じっていた。
間違いない。
日本政府と《ヴァルカ》の調査隊だ。
友丸は人目がないことを確認してバックを下ろすと、近藤から貰った猫マスクを取り出した。
北海道異界で使った白猫とは別の種類だ。
頭からすっぽり被って位置を直す。
「こはく、出ていいぞ」
バックから飛び出したこはくは、友丸の周囲を一度ふわりと回り、そのまま猫マスクの上へ降り立った。
「……そこなのか?」
「にゃ」
「まあいいけど」
どうせ飛べるので、落ちる心配もない。
撮影機材の入ったバックを背負い直し、今度は普通の速度で歩き出した。
ほどなくして、木々の向こうに調査拠点が見えてくる。
最初に友丸へ気づいたのは、外周を警戒していた冒険者だった。
「――止まってください」
友丸は素直に足を止めた。
「所属と名前をお願いします」
「撮影者と呼ばれてます」
「……はい?」
「撮影者」
冒険者の顔に困惑が浮かぶ。
毎回顔が違うのだから、分からなくても仕方がない。
「にゃ」
ちょうどその時、頭上でこはくが鳴いた。
冒険者の視線が上がる。
「…………こはく?」
「ああ」
もう一度、猫マスクを見る。
「じゃあ……本当に撮影者さん?」
「そうだ」
「撮影者さん!?」
声が大きかった。
周囲で作業していた人間が一斉に振り返る。
「撮影者さん?」
「どこだ?」
「こはくいるぞ!」
「なんでこんなところに?」
ざわめきはあっという間に拠点中へ広がった。
新エリアが発見された翌日。
深層の最前線に、世界中で話題の撮影者さんが突然一人で現れたのだ。騒ぐなという方が無理だろう。
「責任者いる?」
「あ、はい。少々お待ちください」
冒険者の一人が慌てて奥へ走っていった。
待っている間にも人が集まってくる。
ただ、友丸本人より頭上のこはくを見ている人間の方が多い。
「お前、人気だな」
「にゃ」
しばらくして、人垣の向こうから数人が歩いてきた。
そのうち二人は、友丸も知っている。
「アンと……心さんか」
名前を呼ばれ、金髪の女――アンが意外そうに目を瞬いた。
「私たちのこと知ってるんだ?」
「有名だからな」
「初対面だよね?」
「ああ」
「へえ」
アンは興味深そうに友丸を眺め、すぐにその視線を頭上へ移した。
「それがこはく?」
「そう」
「触っていい?」
「いいぞ」
アンが手を伸ばしかけたところで、その隣から心が口を挟んだ。
「その前に、用件を聞いた方がいいんじゃないか?」
「あ、そっか」
アンが素直に手を引っ込める。
友丸は心を見る。
「北海道にいた人だろ?」
「そこまで知ってるのか」
「ニュースで見た」
「なるほどな」
直接会うのは初めてでも、この二人ほど有名なら顔と名前くらいは知っている。
残る三人には見覚えがなかった。
「《ヴァルカ》副マスターのロウです」
「ケンだ」
「来道です」
「どうも」
簡単に挨拶を交わす。
ロウは丁寧だったが、残る二人は違った。
ケンは値踏みするように友丸を見ている。
来道も、最初からどこか面白くなさそうな顔をしていた。
もっとも、友丸にとってはどうでもいい。
「それで?」
ケンが腕を組んだ。
「世界中で有名な撮影者さんが、こんなところまで何の用だ?」
「話をしに来た」
「誰に?」
「お前らに」
友丸は彼らの後方へ視線を向けた。
さらに奥。
昨日、日本政府と《ヴァルカ》が発見した新たなエリアがある。
「あそこ、明日から入るんだろ?」
「その予定だけど」
アンが答えた。
「なら、知ってることを話しておこうと思って」
「知ってる?」
「ああ」
友丸は何でもないことのように言った。
「前に入ったことがある」
周囲の空気が止まった。
「……あそこに?」
アンの声から先ほどまでの軽さが消える。
「ああ」
「どこまで?」
「奥まで」
今度は心の表情も変わった。
昨日まで、まともな記録すら存在しなかった場所だ。
それを目の前の男は知っているという。
「いつの話だ?」
「かなり前」
「記録は?」
「ないな」
心は少し考えたものの、それ以上は追及しなかった。
代わりに来道が口を開く。
「それで、わざわざ俺たちに忠告しに来たんですか?」
「忠告?」
「危険だから行くな、と」
「いや?」
「……違うのか?」
「知ってることを話しに来ただけだ」
友丸は本気で不思議そうに首を傾げた。
「未知を求めてここまで来た連中を、俺が止める道理がどこにある?」
「…………」
「知らないで入るのと、知って入るのは違うだろ。それだけだ」
来道が黙る。
代わりに心が小さく笑った。
「なるほどな。なら遠慮なく聞かせてもらおう」
「うん」
アンも頷く。
「あの先には何があるの?」
「まず、魔物は普通に強い」
「どのくらい?」
「深層相応。Aランクでも装備をしっかり揃えてれば、大抵は戦える」
そこまでは想定の範囲内だったらしい。
誰も大きな反応は示さない。
「それと、地面からガスが出る」
ロウがすぐに反応した。
「毒性のあるものですか?」
「いや。眠くなる」
「……眠く?」
「睡魔が来る」
数秒、沈黙が落ちた。
ケンが拍子抜けしたように眉を上げる。
「それだけか?」
「深層で眠ったら死ぬぞ」
「寝なきゃいいだろ」
「まあな」
「なら大したことねえ」
来道も同意する。
「睡魔程度なら、攻略を中止する理由にはなりませんね」
「だから中止しろなんて言ってないだろ」
「……分かってるよ」
返ってきた声が、わずかに強い。
アンが二人を気にすることなく質問を続けた。
「ガスはどこから出るの?」
「地面。序盤はランダムだ。出る場所も時間も読めない」
「予兆は?」
「ほとんどない」
「なら、息を止めれば?」
「意味ないぞ」
アンの目つきが変わった。
心も腕を組み直す。
「呼吸しなくても作用するのか?」
「ああ。普通に眠くなる」
「……それは面倒だな」
心の声から軽さが消えた。
「中盤以降は?」
「ほぼずっと出てる。濃さも上がる」
「なるほどね……」
アンも新エリアへ視線を向け、何かを考え始めた。
対して、ケンと来道はさほど気にした様子がない。
睡魔。
言葉だけを聞けば、どうしても脅威には感じにくいのだろう。
「Aランクは?」
アンが尋ねる。
「対策用の装備をしっかり揃えれば、まあ行けるかな」
「Sランクは?」
「人によるな」
「例えば?」
友丸は目の前にいる面々を順番に見た。
アン。 心。ケン。 来道。
「アンと心さん、それとケンなら、装備なしでも何とかなると思う」
「俺も?」
ケンが自分を指した。
「ああ、ある程度までなら」
「俺のこと、さっきまで知らなかっただろ」
「今日初めて見た」
「じゃあ何で分かる」
「見れば大体分かるだろ」
「……随分適当だな」
ケンは呆れたように言ったものの、それ以上は追及しなかった。
だが――。
「……待ってくれ」
低い声が割り込んだ。
来道だった。
「俺は?」
「装備した方がいいと思うぞ」
「…………」
来道の眉がぴくりと動いた。
「俺もSランクなんですけど」
「そうなのか?」
「――っ」
明らかに顔が引きつった。
「初対面ですよね、俺たち」
「ああ」
「俺の能力も戦い方も知らない。それなのに、三人は大丈夫で俺は装備しろって?」
「見れば大体分かるからな」
「それが――」
「来道」
心がすぐに割って入った。
「落ち着け」
「でも心さん、こいつ――」
「情報を持ってきてくれた相手だ。喧嘩を売るな」
「……別に売ってません」
「売ってるだろ」
来道が口を閉じる。
友丸は二人のやり取りを見ながら、少し首を傾げた。
「別に馬鹿にしてないぞ」
「だったら、なんで俺だけなんですか」
「本当のことを言っただけだけど」
「それが腹立つんですよ!」
「来道」
心が今度は肩を掴んだ。
来道は何か言いたげだったが、しばらくして大きく息を吐く。
「……分かりましたよ」
「まあ、対策装備があれば大抵は行けるんだから、いいだろ」
「そういう問題じゃないんです……」
低い呟きが返ってきた。
友丸には、やはり何が問題なのか分からなかった。
アンはそんな二人を横目に、新エリアへ視線を戻す。
「どちらにしても、装備は見直そう。特にAランク組は対策なしで入れない方がいいね」
「賛成だ」
心も頷く。
「呼吸を止めても作用するなら、普通のガス対策で済むとは考えない方がいい」
「俺はいらねえけどな」
ケンが言う。
「俺も必要ありません」
来道も即座に続いた。
心が隣を見る。
「お前は着けろ」
「なんでですか!」
今度はアンが吹き出した。
友丸はよく分からないまま、頭上のこはくを撫でる。
結局、行かないと言い出す者は一人もいなかった。
危険性は理解した。
装備も見直す。
それでも――睡魔程度なら、どうとでもなる。
この時点では、大半がそう考えていた。




