異界とい場所
翌朝。
東京異界の深層には、昨夜の騒ぎなど関係なく朝が来た。
巨大な木々の隙間から朝日が差し込み、川面を白く輝かせている。
その川辺では、朝から香ばしい匂いが漂っていた。
『おはようございます。今日も東京異界からです』
調理台の前に立った絢香が、いつもの調子で配信を始める。
昨夜の配信は、世界中で大きな話題になった。
行方が分からなくなっていたユリアが突然現れ、その場に撮影者さんまでいたのだから当然だろう。
その影響もあって、今日は配信開始直後から視聴者が押し寄せていた。
日本だけではない。
海外からも大量に流れ込み、ただ朝食を作るだけの配信だというのに、同時視聴者数は早々に数億人へ達している。
《おはよう!》
《朝から数億人いて草》
《ユリア本当にいるw》
《YULIA!》
《ZANは!?》
《SAMURAIを映せ!》
画面に映っているのは、絢香とユリアだけ。
友丸は今日もカメラの後ろだった。
「朝から暇な人が多いのね」
『ユリア目当てでしょ』
「昨日も出たじゃない」
『だから今日も来たんじゃない?』
「物好きね」
《お前を見に来たんだよw》
《世界的有名人の自覚を持て》
《昨日何も説明しなかったからだぞ》
《三人の関係を説明しろ》
もちろん、二人とも答えない。
絢香はユリアへ野菜を渡した。
『これ切って』
「野菜?」
『昨日の魚で失敗したでしょ』
「初めてだったのよ」
『今日は野菜で練習しようね』
「子供扱いしないで」
文句を言いながらも包丁を握る。
昨日よりは慎重に刃を入れているが、切り分けられた野菜は明らかに厚かった。
絢香が横から覗き込む。
『もう少し薄く』
「これくらいでしょ」
『厚いよ』
「食べれば一緒よ」
カメラの後ろから友丸が口を挟む。
「昨日から進歩してねえな」
「撮影者は黙ってなさい」
《wwwww》
《昨日と同じこと言ってる》
《魚禁止されてて草》
《ZANいた!》
《声だけ参加するSAMURAI》
《こいつら本当にどういう関係なんだよ》
数億人に見られているとは思えないほど、いつも通りの朝だった。
パンを焼き、卵を炒め、昨日残しておいた魚にも火を通していく。
もう少しで朝食が完成する。
そんな時だった。
電子音が鳴った。
絢香の携帯である。
『ごめん、ちょっと待ってね』
火を弱め、携帯を取る。
『はい』
最初は普段通りだった。
だが、電話の向こうから話を聞くうちに表情が変わる。
『場所は?』
短く確認する。
『……分かりました。すぐ向かいます』
通話を切った。
友丸も声の調子だけで察したらしい。
「何かあったか?」
『一つ先の砂漠エリアで救助要請』
「砂漠?」
『うん。異界関係の部署から。怪我人が出てるみたい』
《救助要請?》
《え?》
《空気変わった》
《近くなのか?》
《大丈夫なの?》
昨夜から配信をしている以上、三人がこの森にいることは異界を管理する側も把握している。
近くで緊急事態が起きた。
それなら協力要請が来ても不思議ではなかった。
友丸が立ち上がる。
「行くか」
「ええ」
ユリアも迷わず包丁を置いた。
絢香はカメラへ向き直る。
『ごめんなさい。救助要請が入ったので、今日の配信はここまでにします』
《行くの!?》
《気をつけて!》
《朝飯は!?》
《それどころじゃねえだろ》
《無事に戻ってきて》
『じゃあ、またね』
そこで配信は終了した。
◇
砂漠エリアへ入って間もなく、三人は救助対象の冒険者たちを発見した。
何人かが怪我をしている。
すでに戦闘地点からは十分に距離を取り、動ける者たちが負傷者の手当てを始めていた。
ひとまず、こちらは大丈夫そうだった。
問題は、その先である。
轟音が響いた。
遠くで砂が高く舞い上がる。
「まだ誰か戦ってるな」
友丸が目を細めた。
砂煙の向こうで、一人の若い男が魔物と戦っている。
相手はドラゴンだった。
大きさは三メートルほど。
巨大というほどではない。
だが――速い。
一瞬で姿が消えたかと思えば、次の瞬間には数十メートル先で若い男と激突していた。
轟音。
男が弾き飛ばされる。
それでも空中で体勢を立て直し、着地と同時に前へ出た。
すれ違いざまに一撃。
ドラゴンも即座に反転する。
再び両者がぶつかった。
「速いな」
「ええ。それに、あの子も強いわね」
ユリアが感心したように言う。
「ああ」
友丸も同意する。
若い。
それでも動きに迷いがない。
負傷者たちがここまで逃げられたのも、あの男が一人でドラゴンを引き受けたからだろう。
絢香はドラゴンを見ながら眉を寄せた。
『この砂漠に、あんなのいたっけ?』
「いねえな」
友丸にも見覚えはなかった。
深層では、稀にある。
本来そのエリアには生息していない魔物が、突然現れることが。
イレギュラー。
それだけで、普段なら問題なく活動できる冒険者が窮地に陥ることもある。
友丸はしばらく戦闘を眺め、それから絢香へ手を出した。
「カメラ貸してくれ」
『撮るの?』
「ああ。こういうのは見せといた方がいいだろ」
絢香からカメラを受け取る。
電源を入れ、戦っている男へレンズを向けた。
そして配信を再開した。
数分前まで朝食を見ていた視聴者たちが、一気に戻ってくる。
《復活した!》
《何があった!?》
《砂漠?》
《戦ってるぞ》
《ドラゴン!?》
友丸はカメラを構えたまま簡単に説明した。
「さっき救助要請があった場所な。怪我人はもう後ろまで下がってる」
ドラゴンが動いた。
速い。
カメラがその姿を追う。
若い男も反応した。
攻撃をかわし、そのまま反撃。
だが次の瞬間にはドラゴンが反転し、男が大きく弾き飛ばされた。
「こいつ強いな」
友丸が呟く。
するとコメント欄が一気に流れた。
《木場だ!》
《木場じゃん》
《Sランクの木場だぞ》
《木場が押されてる!?》
《若手Sランクの木場知らないの?》
友丸はモニターへ一瞬だけ目を落とした。
「木場っていうのか」
《知らなかったw》
《撮影者さん木場知らないのかよ》
《Sランクだぞ!》
《かなり有名な若手》
「へえ、Sランクか」
改めて木場へカメラを向ける。
「そりゃ強いわけだ」
木場が再びドラゴンと激突した。
真正面から攻撃を受け流し、反撃を叩き込む。
それでもドラゴンは止まらない。
友丸はその戦いをしばらく撮影してから口を開いた。
「ちょうどいいから、若い奴とか、これから冒険者になろうと思ってる奴は見といた方がいいぞ」
コメントの勢いが僅かに変わった。
「今戦ってる木場って奴、Sランクなんだろ?」
木場がドラゴンの攻撃を受ける。
砂の上を十数メートル滑った。
すぐに立ち上がる。
「見りゃ分かると思うけど、相当強い。それでもこうなる時がある」
友丸は戦闘からカメラを逸らさない。
「異界は魔物だけじゃない。トラップもある。いきなり別の場所に飛ばされるようなのもあるし、昨日まで何もなかった場所に、今日も何もないとは限らない」
《転移トラップ怖いんだよな》
《初心者はマジで気をつけろ》
《撮影者さんが言うと説得力ある》
ドラゴンが再び加速する。
木場が反応する。
防いだ。
だが勢いまでは殺しきれず、大きく後方へ押し込まれる。
「あのドラゴンみたいに、本来そこにいない魔物が突然出てくることもある」
友丸は淡々と続けた。
「Sランクになったからって、安全になるわけじゃない」
《木場が実例になってる……》
《Sランクでもこれか》
《異界怖え》
「そう。怖いぞ、異界は」
脅しているわけではない。
ただ、事実を言っているだけだった。
「強くても死ぬ時は死ぬし、トラップ一つでどうにもならなくなることもある」
《冒険者になろうと思ってるんだけど》
《怖くなってきた》
《子供も見てるだろうな》
そんなコメントが流れていく。
友丸は少しだけ黙った。
それから言った。
「でも、夢もある」
《お?》
《夢?》
《続き聞きたい》
「ここでしか見られない景色がある。ここにしかない物もある。まだ誰も行ったことがない場所だって、いくらでも残ってる」
カメラの向こうには、果ての見えない砂漠が広がっている。
人類が異界へ足を踏み入れるようになって四十年。
それでも、すべてを知った者など誰もいない。
「一発当てりゃ人生が変わるような物だってあるしな」
友丸は軽く笑った。
「だから冒険者になるなとは言わん。俺だって長いこと潜ってる」
そして、目の前で戦い続ける木場を映す。
「ただ、怖い場所だってことだけは忘れんな」
直後。
ドラゴンが木場の防御を弾いた。
轟音とともに身体が吹き飛ぶ。
何度も砂の上を転がり、ようやく止まった。
木場は起き上がろうとする。
だが、先ほどまでとは明らかに動きが鈍い。
ドラゴンは待ってくれない。
「……そろそろきついか亅




