冴木工務店
翌日。
友丸が目を覚ましたのは、午前十時をとうに過ぎた頃だった。
薄いカーテン越しに差し込む夏の日差しが、狭い部屋を容赦なく暖めている。枕元には昨夜コンビニで買った飲み物。携帯には相変わらず大量の通知が溜まっていたが、確認する気にはならなかった。
昨日は深層まで潜り、氷竜まで相手にしたのだ。
今日は何もしない。
昼まで寝て、適当に飯を食べて、漫画でも読みながら一日を潰す。
昨夜そう決めていた友丸だったが、起き上がって顔を洗ったところで、あることを思い出した。
「あ……ナイフ」
昨日、帰りに冴木のところへ預けていた。
氷竜の背中へ何度も突き立てたせいで、刃先がかなり傷んでいる。放っておいて直るものでもない。
友丸はしばらく考えた末、着替え始めた。
どうせ昼飯も買わなければならない。
それだけ済ませたら、今度こそ何もしない。
そう決めてアパートを出た。
東京の下町。
大通りから一本外れた路地を十分ほど歩くと、古びた二階建ての建物が見えてくる。
軒先に掛けられた看板には『冴木工務店』。
名前の通り、本業は住宅の修繕や内装工事などを請け負う小さな工務店だ。
ただ、異界が出現して四十年も経てば、こうした昔ながらの工務店も昔のままではいられない。
建材として異界産素材が使われることも珍しくなくなり、魔物素材を扱える職人の需要も増えた。
冴木もその一人だった。
もっとも、友丸がここへ持ち込むのは建材ではなく、もっぱら武器だったが。
「おはよう」
引き戸を開ける。
奥から研磨機の音が聞こえていた。
「昼だ」
いつもの声が返ってくる。
作業場へ入ると、五十代半ばの男が研磨機の前に座っていた。
短く刈った髪には白いものが混じり、着ているのは油汚れの残る作業着。
冴木は友丸を一瞥すると、顎で作業台を示した。
「そこ」
「もう終わった?」
「見りゃ分かるだろ」
作業台には、昨日預けたナイフが置かれていた。
友丸は手に取る。
潰れていた刃先も、細かな刃こぼれも綺麗に消えている。
軽く角度を変えると、蛍光灯の光が刃の上を滑った。
「さすが」
「何回刺した?」
「覚えてない」
「だろうな」
冴木は研磨機を止めた。
「昨日、途中から配信見たぞ」
友丸が顔を上げる。
「見たの?」
「見た」
「俺って分かった?」
冴木が眉間に皺を寄せた。
「分からねえと思ってたのか?」
「顔ぼかしてたから」
「声そのままだったろうが。何年お前の装備見てると思ってんだ」
言われてみれば、その通りだった。
友丸は納得してナイフを鞘へ戻す。
「結構騒がれてるみたいだな」
「みたいだね」
「他人事だな」
「顔は映ってないし」
「そこじゃねえんだよ」
冴木は呆れたように言うと、作業台の端に置いてあった携帯を取った。
画面を数回操作し、友丸へ向ける。
異界関係のニュースサイトだった。
昨日の絢香の配信から切り抜かれた氷竜の姿と、その手前に小さく映り込んだ黒い人影。
『謎の日本人探索者、世界で話題に』
その下にも関連記事が並んでいる。
『未公表のS級戦力か』
『海外専門家も戦闘映像を分析』
『既知の日本人Sランクとは一致せず』
「すごいな」
「感想それだけか」
「だって俺だし」
自分のことを記事にされても、あまり読む気になれない。
冴木は携帯を引っ込めた。
「まあ、騒ぐ理由は分かるけどな」
「氷竜倒したから?」
「違う」
即答だった。
「あれを倒しただけなら、ここまで騒がれねえよ」
冴木は近くの椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「日本のSランクは全員知られてる。Aでも上の連中なら、異界関係を追ってる奴には顔も声も大体知られてる。まして龍種を一人でやれるような奴ならな」
「ああ」
「なのに昨日、いきなり知らねえ日本人が出てきた」
冴木が友丸を指差す。
「声も一致しない。戦い方も一致しない。使ってる武器にも見覚えがない。それで絢香は昔からの知り合いだと言ってる」
「そうなると?」
「誰だこいつ、ってなる」
「ああ」
ようやく友丸にも理解できた。
強い人間が氷竜を倒したこと自体が問題なのではない。
それだけの実力を持っているはずの人間を、誰も知らない。
だから騒ぎになっている。
「掲示板じゃ政府が隠してる秘密戦力なんて話まで出てるぞ」
「違うけど」
「知ってる」
「新しいSランクとか」
「違うな」
「海外のSランクじゃないかとか」
「お前、海外ほとんど行かねえだろ」
「パスポート切れてる」
「だろうな」
冴木は鼻で笑った。
「当てられるわけねえよ」
「なんで?」
「誰がCランクまで探すんだ」
友丸は黙った。
それは確かにそうだった。
世界中の人間が昨日の映像から正体を探している。
だが、氷竜を単独で倒す人間を探すのに、わざわざCランク冒険者の登録情報まで調べようと考える者はいないだろう。
「便利だな、Cランク」
「そういう制度じゃねえ」
冴木が呆れたところで、友丸はふと思い出した。
「そういえば」
「なんだ」
「冴木さんなら、昨日の氷竜倒せるでしょ?」
「あの程度ならな」
「まあな」
それで会話は終わった。
昨日、同時接続二千万人の視聴者を沸かせ、現在も世界中で映像を解析され続けている氷竜である。
決して弱い魔物ではない。
Aランク冒険者であっても、一対一なら命を落としかねない危険種だ。
ただし――世の中には、その基準から外れた人間もいる。
そして今、この小さな工務店には二人いた。
「ただな」
冴木が友丸の腰を見る。
「俺なら、それで戦おうとは思わん」
「これ?」
「それだ」
友丸が直ったばかりのナイフを抜く。
「使いやすいよ」
「千円だろ」
「千二百円くらい」
「誤差だ」
「二割違うけど」
「そういう話してんじゃねえ」
冴木は頭を掻いた。
「氷竜相手にホームセンターのナイフ持って突っ込む奴があるか」
「小太刀持っていくつもりだったんだけど、撮影するには邪魔だったから」
「じゃあカメラ置け」
「絢香に撮影頼まれてたし」
「龍が出てきた時点で撮影どころじゃねえだろ」
「途中で止めたら怒るよ、あいつ」
「……ああ」
冴木が僅かに考える。
絢香の性格を知っているだけに、否定しきれなかったらしい。
「まあ、それはいい」
「いいんだ」
「お前らの付き合いに口出す気はねえ」
そう言って立ち上がると、冴木は作業場の奥へ入っていった。
戻ってきた手には、長い布包みがある。
作業台へ置き、布を開く。
現れたのは白銀の牙だった。
氷竜の牙。
昨日、友丸が冴木へ預けていった物である。
「こいつも見た」
冴木の声から、先ほどまでの気の抜けた調子が少し消えた。
友丸も作業台へ近づく。
「どう?」
「かなりいい」
冴木が牙の表面を指先でなぞる。
「硬度もある。魔素の通りも悪くねえ。氷属性への親和性は当然高いが、それだけじゃなさそうだ。ちゃんと加工すりゃ、かなり面白い物になる」
「売ったら?」
「高いぞ」
友丸の目が僅かに変わった。
冴木がすぐに気づく。
「売ることしか考えてねえ顔すんな」
「家賃あるから」
「まず家賃を滞納する生活をどうにかしろ」
「今月は払うよ」
「先月分は?」
「……それは払った」
冴木は深々と溜息を吐いた。
世界中が正体を知りたがっている謎の実力者。
政府の秘匿戦力ではないかとまで疑われている男が、氷竜の牙を前に考えていることは家賃だった。
冴木は白銀の牙と友丸を交互に見る。
「売るのはいつでもできる。しばらく置いとけ」
「邪魔じゃない?」
「こんなもん邪魔扱いする工房があるか」
「工務店じゃなかった?」
「うるせえ」
友丸は笑いながら、直ったナイフを腰へ戻した。
これで用事は終わった。
今日はもう何もしない。
帰りにコンビニへ寄って昼飯を買い、冷房の効いた部屋で漫画でも読もう。
「じゃ、帰る」
「ああ」
「修理代いくら?」
「三千」
友丸の足が止まった。
ゆっくり振り返る。
「ナイフより高いんだけど」
「二度と龍なんか刺してくんな」
「でも、また欠けたら持ってくるよ」
「もっとまともな武器買え!」
冴木の怒鳴り声を背中に受けながら、友丸は工務店を出た。
外へ出れば、真夏の日差しと蝉の声。
昨日までいた雪原が嘘のようだった。
友丸はポケットへ手を入れ、財布の中身を確認する。
修理代三千円。
昼飯。
それから先月分の家賃。
「……牙、ちょっと売ろうかな」
世界中から正体を探されている男の悩みは、今日もそれほど大きくなかった。




