壁画から始まる欧州行き
瀬戸内海異界から戻って、三日が過ぎた午後だった。
友丸の携帯電話が、座卓の上で短く震えた。
窓際では、こはくが日差しを浴びながら昼寝をしている。着信音に片目だけを開けたが、すぐにまた丸くなった。
画面に表示された名前を確認し、友丸は通話をつなぐ。
『私だ』
「……」
『わた――』
「分かった。何だ?」
電話の向こうで、塁が小さく息を吐いた。
『燿さんから、こはくの映像と銀色の首輪について聞いた』
「ああ」
『欧州の異界で、古い壁画と機械遺跡が見つかった』
「壁画?」
『そこに描かれている生き物が、こはくに似ている』
通話を続けたまま、携帯電話へ画像が送られてきた。
友丸は画面を切り替える。
映っていたのは、黒い石壁に刻まれた白い線画だった。
丸い頭。左右へ伸びた耳。胸元へ寄せられた短い前脚。そして、地面から浮かんでいるように描かれた身体。
風化はかなり進んでいる。線の一部は欠け、顔の細かな形までは分からない。
それでも、長い尾まで含めた姿は、こはくを思わせた。
「確かに似てるな」
その声に反応し、窓際で寝ていたこはくが身体を起こした。
ふわりと宙へ浮かび、座卓の上へ降りる。携帯電話の画面へ顔を近づけ、壁画をじっと見つめた。
「何か分かるか?」
「みゃ」
「分からないらしい」
『そうか』
塁は、それ以上を聞かなかった。
『壁画の近くには、用途の分からない機械設備も残っている。発見されたばかりで、内部の調査はまだ始まっていない』
瀬戸内海異界で見た搬送施設が、友丸の頭をよぎった。
異界に残された人工物が、すべて同じ存在によって造られたとは限らない。
これまでに見つかった建造物や道具、記録装置は、形も用途もばらばらだった。壁画の生き物と機械遺跡に関係があるのかも、現時点では分からない。
それでも、こはくに似た姿が描かれた場所で、正体不明の設備が見つかった。
ただの偶然で済ませるには、少し気になる。
『現地の調査に入る知人から、お前とこはくに協力を頼めないかと連絡が来ている』
「俺たちに?」
『壁画に描かれた生き物が何なのか、こはくなら何か反応するかもしれない。銀色の首輪についても、日本政府の管理下で持ち込めるよう話を進めている』
千葉異界で見つかった、細い銀色の首輪。
こはくが近づいた際に反応したこと以外、その用途は分かっていない。
壁画や機械遺跡と関係している保証はない。だが、確かめる価値はあった。
こはくは、まだ画面から目を離さない。
友丸は、その小さな背中を一度だけ撫でた。
「行く。こはくに関係があるなら、見ておきたい」
『分かった。ただ、調査参加の許可と首輪の移送には数日かかる。日程が固まり次第、改めて連絡する』
「ああ」
そこで通話が切れた。
友丸は画像を拡大し、白い線で描かれた輪郭を見つめる。
偶然、似ているだけかもしれない。
それでも、こはくに関わる手がかりを、確かめずに放っておく気にはなれなかった。
「欧州へ行くことになりそうだな」
「みゃ」
こはくは壁画を見つめたまま、小さく鳴いた。
数分後。
座卓へ置いた携帯電話が、再び震えた。
今度の相手は、絢香だった。
「もしもし」
『友丸、欧州へ行くんですって?』
「塁から聞いたのか?」
『ええ。こはくに似た生き物が描かれた壁画が見つかったんでしょう?』
「似てるだけだ。まだ、こはくと関係があるとは分かってない」
『だから確かめに行くんでしょう?』
「まあな」
絢香は、少しだけ間を置いてから続けた。
『それなら、調査の前にスイスへ行きましょう』
「何でスイス?」
『ユリアよ。日本を離れる前に、いつか自国で一緒にキャンプをしようって誘ってくれたでしょう』
「みゃ!」
友丸が答えるより先に、こはくが勢いよく鳴いた。
壁画を見つめていたときとは違い、琥珀色の尻尾が楽しそうに揺れている。
『今の、こはくちゃん?』
「ああ。キャンプに反応した」
「みゃあ」
こはくが友丸の目の前まで浮かび、もう一度鳴いた。
北海道異界で一緒にキャンプをして以来、こはくはすっかり気に入ったらしい。楽しそうにしていた姿は、友丸も覚えている。
「行きたいのか?」
「みゃ!」
今度は迷いのない返事だった。
『こはくちゃんは乗り気みたいね』
「そうだな」
『友丸はどうするの?』
聞くまでもないだろうと、友丸は思った。
こはくを一匹で行かせるわけにはいかない。それに、欧州まで向かうのなら、調査が始まるまでスイスへ立ち寄る程度の時間はある。
「こはくが行きたいなら、俺も行く」
「みゃあ!」
こはくが嬉しそうに友丸の頭上を一周する。
そのまま肩へ着地し、携帯電話へ向かって胸を張った。
『決まりね。ユリアにも伝えておくわ』
「もう行くつもりだったんだろ?」
『もちろん。ユリアと約束したもの』
絢香の声は、いつもより少し楽しそうだった。
「飛行機はどうする。こはくを普通の便に乗せるのは難しいだろ」
『ユリアの家の飛行機を出してもらえるそうよ。日本政府側の手続きは、塁が進めてくれるって』
「そこまで話が進んでるのか」
『あとは日程が決まるのを待つだけね』
「ああ。分かった」
『ユリアも、こはくに会えるのを楽しみにしていると思うわ』
友丸の肩に乗ったこはくが、名前を呼ばれたことに気づいて首をかしげる。
「みゃ?」
『それじゃあ、詳しいことが決まったらまた連絡するわ』
「ああ」
絢香は満足そうに通話を終えた。
肩から降りたこはくが、座卓の上へ着地する。
携帯電話の画面には、知らない誰かが残した壁画が映っていた。
欧州のどこかにある異界。
こはくに似た生き物と、正体不明の機械遺跡。
そこに何が残されているのかは、まだ分からない。
その調査へ向かう前に、友丸たちはまずスイスへ立ち寄ることになった。




