ニュー・ワールド
四十年前。
世界は、一日でそれまでの常識を失った。
最初に確認されたのは、南米の山岳地帯だったという。
何もなかった岩壁の一部が陽炎のように揺らぎ、その向こうに見たこともない森林が広がっていた。空の色も、植物の形も違う。調査に向かった者たちが持ち帰った映像は、瞬く間に世界中を駆け巡った。
当初は大規模な自然現象だと考えられていた。
だが、その日のうちに北米、欧州、アジア、アフリカ、中東、オセアニア――世界各地から同様の報告が相次いだ。
洞窟の奥。
廃鉱。
山中。
砂漠。
都市の地下。
中には、昨日まで何もなかった場所に突然巨大な入口が出現した例さえあった。
入口の形も、大きさも、出現した場所も違う。
共通していたのは一つだけ。
その先が、地球上のどこにも繋がっていなかったことだ。
後に《異界》と呼ばれることになる未知の領域。
最初に足を踏み入れたのは、各国の軍や政府機関だった。
そして人類は、早々に思い知らされることになる。
そこは、人間のために用意された新天地などではなかった。
銃弾を弾く外皮を持つ獣。
炎を吐く巨大な爬虫類。
音もなく空から人間をさらっていく飛行生物。
既存の生物学では説明できない存在が、異界には当たり前のように生息していた。
後に《魔物》と総称されることになる生物たちとの遭遇によって、初期の調査隊からは多くの犠牲者が出た。
調査隊が丸ごと帰還しなかった異界もある。
入口そのものを軍が封鎖し、二度と人間を入れないと決定した国さえあった。
当時の人類にとって、異界とは災害以外の何物でもなかった。
――ところが。
人間という生き物は、恐怖だけでは未知から離れられなかった。
命懸けで持ち帰られた異界の物質を調べた研究者たちは、そこに途方もない可能性が眠っていることを発見する。
未知の鉱石。
地球上のどの植物とも異なる薬効を持つ草木。
軽量でありながら鋼鉄を遥かに上回る強度を持つ魔物の外皮。
特殊な性質を持つ骨や牙。
そして、内部に莫大なエネルギーを蓄積する結晶――魔石。
研究が進むにつれ、それらは医療、工業、建築、電子機器、エネルギー、航空宇宙、そして軍事まで、次々と利用されていった。
不治とされていた病の治療薬が生まれた。
数十年前には論文の中でしか成立しなかった技術が実用化された。
魔石を動力源とする機器が普及し、異界素材を利用した新しい産業が次々と誕生した。
異界出現によって人類は多くの命を失った。
同時に――それまでなら百年かかっても届かなかったかもしれない場所まで、文明を押し上げられた。
人類は異界を恐れた。
そして、それ以上に魅了された。
異界出現から十年も経つ頃には、世界各国が競うように探索へ乗り出していた。
だが、そこで新たな問題が生まれる。
異界は世界中に現れた。
しかし、決して平等ではなかった。
十を超える異界が出現した国。
世界最大級に分類される巨大異界を抱えた国。
小規模な異界しか持たない国。
そして――国内に一つとして異界が出現しなかった国。
当初は単なる運の違いと考えられていたそれが、十年、二十年と経つにつれて国家の命運を左右し始めた。
異界で採掘された鉱石は輸出できる。
魔石も、植物も、魔物素材も売ることができる。
だが、異界そのものは輸出できない。
未知の鉱脈を世界で最初に発見する権利。
新種の植物を研究する機会。
これまで存在すら知られていなかった素材を独占できる可能性。
そのすべてが、異界への入口を持つ国に存在した。
巨大異界が一つ出現したことで、かつては国際社会でほとんど存在感を持たなかった小国が、わずか二十年で世界有数の資源国家へ成長した例もある。
反対に異界資源をほとんど持たず、高額な輸入へ依存するようになった国もあった。
石油。
天然ガス。
希少金属。
それらだけで国家の価値が語られていた時代は、とうに終わっていた。
国境線は変わっていない。
大陸の形も変わっていない。
それでも四十年前と現在では、世界の勢力がまるで違う。
当然、異界を持たない国々も黙って見ていたわけではない。
異界資源の加工技術へ巨額の投資を行い、他国から輸入した素材を高付加価値の
商品へ変えることで成長した国。
自国に異界を持たない代わりに冒険者の育成へ国家予算を注ぎ込み、優秀な人材
を世界各地の異界へ派遣することで利益を得る国。
異界保有国と長期契約を結び、資源の安定供給や共同研究の権利を確保した国もある。
異界を持つ国だけが必ずしも強国になるわけではない。
異界を持たない国もまた、技術、人材、資本、外交――それぞれの武器を使い、この四十年を生き抜いてきた。
異界の出現は、世界に新たな資源をもたらしただけではない。
国家が何を持ち、何を売り、何を武器に生き残るのか。
その形さえ、大きく変えたのである。
そして、そうした時代の中で生まれた職業が――《冒険者》だった。
名前だけなら、まるで物語の中から飛び出してきたような職業。
だが現在では、れっきとした仕事である。
未知の領域を探索する。
魔物を討伐する。
希少素材を採取する。
研究機関に依頼されて新種の生物を探す。
企業の採掘隊を護衛する。
行方不明者を捜索する。
未踏区域へ足を踏み入れ、地図に新しい一本の線を加える。
かつて軍や政府機関が担っていた仕事の多くを、現在では民間の冒険者たちが担っている。
一攫千金を夢見る者。
誰よりも強くなりたい者。
未知の景色を見たい者。
有名になりたい者。
ただ魔物との戦いが好きな者。
理由など、人の数だけあった。
異界で発見した新種の植物一つで人生が変わることもある。
誰も知らなかった鉱脈を見つければ、一夜にして億万長者。
未踏区域の攻略に成功すれば、その名が世界中へ知れ渡る。
危険だからこそ、夢がある。
四十年経った今でも、冒険者を志す者が後を絶たない理由だった。
そして十年前。
そんな冒険者の世界に、二度目の大きな転換期が訪れた。
異界内外を繋ぐ通信技術が実用化されたのである。
それまで異界の奥へ入るということは、地球との繋がりを捨てることに等しかった。
電話は繋がらない。
衛星も使えない。
何が起きても助けを呼べない。
仲間が死んでも、帰還するまで外には伝わらない。
探索隊そのものが消え、数か月後に装備だけが発見されることも珍しくなかった。
通信技術の確立によって、それが変わった。
探索中の情報をリアルタイムで共有できる。
地上の専門家から助言を受けられる。
魔物の情報をその場で照合できる。
緊急時には救難信号を送ることもできる。
企業による大規模探索も、それまでとは比較にならないほど行いやすくなった。
そして――誰かが考えた。
だったら、異界から生配信できるんじゃないか、と。
最初は物珍しさだった。
誰も見たことのない巨大森林。
空に浮かぶ島。
夜になると淡く発光する草原。
地平線の彼方まで続く巨大遺跡。
そして、人間より遥かに巨大な魔物との戦い。
映画ではない。
CGでもない。
その瞬間、本当に異界で起きていることが自宅のスマートフォンへ流れてくる。
人気が出ないはずがなかった。
異界配信は瞬く間に世界的な娯楽へ成長した。
今では数百万人、数千万人という視聴者を抱える冒険者も存在する。
企業スポンサーを背負い、最新装備で未踏区域へ挑む者。
魔物討伐だけを専門にする者。
希少素材を探し続ける者。
異界料理を作る者。
美しい景色を巡る者。
中には一度の探索配信だけで、普通の会社員が一生かけても稼げない金額を動かす冒険者までいる。
トップ冒険者は、もはや単なる探索者ではない。
スターだった。
子供たちは彼らに憧れる。
企業は彼らを奪い合う。
国家でさえ、一人の優秀な冒険者を自国へ迎えるために破格の待遇を提示する。
異界が国家の力を変えたように――冒険者一人が国家へもたらす価値さえ、四十年前とは比較にならないほど大きくなっていた。
だが。
どれほど人類が進歩しても、変わらないものがある。
異界は、今も危険だ。
四十年間の調査によって、異界にはいくつもの共通点が確認されている。
その一つが魔力濃度。
入口付近では人体への影響はほとんどない。
だが奥へ進むほど、大気中に含まれる魔力は濃くなる傾向にある。
魔力への耐性が低い者が一定以上の濃度に晒されれば、頭痛、吐き気、めまい、呼吸困難を起こす。
さらに濃くなれば意識を失い、そのまま命を落とす。
そのため深部へ向かう冒険者にとって、魔力を遮断、希釈する専用呼吸器は必需品だった。
見た目がよく似ていることから、冒険者たちは昔からそれを《酸素ボンベ》と呼んでいる。
装備は進歩した。
通信技術も進歩した。
異界専門の病院もある。
救助隊もいる。
四十年分の膨大な地図と資料が蓄積され、世界中の研究者が今も異界を調べ続けている。
それでも――人類はまだ、異界を攻略していない。
現在、世界で確認されている異界は大小合わせて数百。
小規模なものには全域調査が完了した例もある。
だが、大型異界は違う。
四十年近く探索されながら、いまだ最奥へ到達できていない異界。
人工衛星など当然使えず、総面積すら分からない異界。
一つの山脈を越えたところで、その向こうにさらに巨大な大地が発見された例さえある。
地図へ一本の道を書き加える。
その先へ誰かが進む。
新しい土地が見つかる。
さらにその向こうへ進む。
四十年間、人類はそれを繰り返してきた。
それでも地図の空白はなくならない。
むしろ探索技術が進歩するほど、人類は思い知らされていた。
――異界は、自分たちが想像していたより遥かに広い。
奥へ行けば魔力は濃くなる。
魔物は強くなる。
見たことのない資源が現れる。
未知の遺跡が見つかる。
そして、そのさらに向こうには何があるのか。
誰にも分からない。
だから人は、今日も異界へ向かう。
金のため。
名誉のため。
研究のため。
国のため。
そして――まだ誰も見たことのないものを見るために。
そんな現代。




