三十七章 傲慢
娘が焼身自殺を謀って、一週間が経った。
いつもは病室で眠り続ける娘をずっと見守り続けているのだが、今日は違った。見慣れてしまった娘の担当医に会いにいき、ずっと考えていたことを伝えると、彼は難しい顔をした。
「……本当にそれでよろしいのですか」
頷く。娘が意識不明になってから常に頭をよぎっていたことだった。いずれかはそうしなければならないことが分かっていて、それでも希望を捨てることはできなくて、中々踏ん切りがつかなかった。昨晩寝ずに考えて、ようやく自分の中で決心がついた。
「娘の生命維持装置を外してください」
「……分かりました」
娘を殺す決断。意識不明の娘が目覚める可能性は、再び日常生活を送れるようになる可能性は、限りなく低いがゼロではない。それを断ち切る。娘がもう二度と目覚めないように。娘がこれ以上苦しむことがないように。
娘が中学でいじめられていたとき。高校で不登校になったとき。
私は慰めでも許しでも共感でもなく、叱責を選んだ。娘の心に傷を残してしまうことは、娘をますます追い詰めてしまうことは、承知の上だった。娘を傷つけてでも、私は紫苑に強くなってほしかった。
強くならなければいけない。他人の悪口を笑い飛ばせるほど、他人の視線が全く気にならなくなるほど。そこまではいかなくても、自分という存在を自分が一番愛せるようになるくらいには強くなってほしかった。
社会に出てもやっていけるように。何歳になっても止むことのない他人の嘲笑や悪口に、負けてしまわないように。自分の人生を歩んでいけるように。
私が死んだ後で、あの子が困ることがないように。
私はあの子を心から愛している。腹を痛めて産んだ子を愛おしく思わないほうが、どうかしているだろう。紫苑は優しい子だった。自分よりも人のことを優先しがちで、だからこそ自分の中に溜め込んでしまう質だった。あまりにも私を心配させて、あまりにも私を癒してくれた。
まさしく私の宝物で、自分の命よりも大事な存在だった。
それを私は失った。自分自身の行動によって。
紫苑の部屋を埋め尽くす画集や小説や、レコードたち。大事なものだということは勿論理解していた。あの部屋で好きなことをしている紫苑の顔は、何をするときよりも輝いていたから。
母親の私が気づかないはずがない。
しかし、学校にも行かずに一日中それにのめり込んでいる様子に、私の中にだんだん危機感が募っていった。
あの子は現実から目を逸らしているだけではないのか。逃げ続けているだけではないのか。目を逸らせば逸らすほど、現実から逃げれば逃げるほど、その皺寄せが来たときにもっと苦しくなることを知らないのではないか。
紫苑の部屋に行って説得しようとするも、何にも答えずに体を丸める娘の姿を見るたびに、胸が苦しくなった。
私が戻してあげなければいけない。現実を直視させなければいけない。
貴方が嫌いだからやっているわけではない。むしろ逆だ。貴方のことが大好きで、可愛くて仕方がなくて、だからこそ気が狂うほど心配で、口を出したくなる。
私がいつまでも貴方を保護できるなら、何にも言わなかっただろう。ひどく楽しそうに画集を眺める貴方を、ただ見守っていただろう。
でも、そうはいかないのだ。紫苑を永遠に守ることはできない。いつか独り立ちしなければならないときがくる。
その時が来たときに、あの子が戸惑うことがないように。苦しむことがないように、「美しいもの」に囲まれた夢の世界から連れ戻さなくては。
そんな理由で、あの子の宝物を全て処分した。
そんな私の勝手な行動が、あの子を自殺に追いやった。
「ごめんね……」
私は生命維持装置が外された我が子を見つめる。死んでいるとは思えないほど安らかな表情に、涙腺が緩んだ。
この一週間、泣かなかった日はなかった。きっとこれからもそうだろう。何よりも大事な娘を失った、娘を殺してしまった後悔は決して消えることはない。
世界一可愛い娘の頭を撫でていたときだった。一人の女の子がいつのまにか病室にいることに気づいたのは。
いつ入ってきたのか。全く気付かなかった。私は驚いて声を出すこともできず、少女をしげしげと眺める。足音も気配もしなかった、幽霊のようなその少女は。
余りにも綺麗だった。
髪は乱れ、顔は火傷で崩れ、シルクのワンピースにも皺が寄っていたが、それでもはっとしてしまうほどに少女の顔は整っていた。人形のよう、とは少し違う。例えるなら人形と人間のちょうど中間のような。美少女であることには間違いないのだが、やけに生々しい……人をどこか惹きつけて離さない、そんな魅力に溢れた子だった。
どこかのお嬢様だろうか。誰かのお見舞いに来て、病室を間違えたのか。その割にはひどく汚れてしまっているが……。
そんなことをつらつらと考えるも、心のどこかでは確信していた。私が娘の顔を見間違うはずがない。たとえどんなに変化してしまっていても。たとえ火傷によって、元の顔立ちの原形を留めていなかったとしても。
この子は紫苑だ。私の娘だ。
紫苑は死んだ。私が殺した。しかし、ここにも紫苑がいる。これはどういうことなのだろう。
来世。
そんな言葉が頭に浮かぶ。来世。来世。何度か舌の上で言葉を転がす。そういうことか、と納得できた。
この美しい子は来世の紫苑なのだ。来世で生まれ変わった紫苑が、私に会いに来てくれたのだ。紫苑は優しい子だから。前世の自分が死んだことを感じ取り、私を励まそうとしてくれているのだろう。
来世で自分は幸せになっているから、大丈夫だよと伝えに来てくれたのだ。
この一週間で一番、いや今までの人生で一番、私は自然に微笑むことができた。
私の娘はこんなに優しいいい子だと、こんな子が十六年間だけでも私の娘として生きてくれたのだと思うと、涙が出るほど嬉しかった。
こんな美しい子の母親になれて、私は世界一の幸せ者だ。
私の笑みに、自分の想いが届いたことを確信したのだろう、来世の紫苑は綺麗に微笑んだ。そのまま病室の白い壁にすうっと消えていく。最後には花の香りがほんのりと残った。
紫苑の置き土産を私は胸いっぱいに吸い込む。鉛が沈んでいるようだった心がいくらか軽くなったように感じた。
娘の死体に向き直る。力なく置かれた手に、そっと自分の手を重ねた。
紫苑。心の中で呟く。
貴方の生命維持装置を切ったのは、貴方が現実に戻ってこれ以上苦しむ姿を見たくなかったから。
貴方が幸せになってくれるなら、それが貴方の夢の中でも構わない。その世界に私がいなくても、貴方が心の底から笑ってくれるのなら。
来世の貴方は、今の貴方と同じくらい綺麗だったよ。
シオンの花言葉は、「君を忘れない」「遠くにある人を想う」「追憶」。今の貴方と私に、ひどくお似合いだ。
誰もいない病室で、私は娘の爛れた鼻にそっとキスをした。




