番外編3
POV —ナオミ
白の都市の状況は、相変わらず希望が持てないものでした。第一階層が失われてから、もう一年が経っています。当局は公式には、すべては薔薇色の霧の突発的な発生によるものだと発表していました。けれど住民の間では、失敗した感染体実験が原因だったのではないかという噂が絶えませんでした。
どちらが真実なのか、私には知る術がありません。ですが、恐怖と不満が日に日に募っていることだけは、紛れもない事実でした。
私は小さな慰霊碑の前で足を止めました。
「どこにいても……幸せでいてね、お兄ちゃん」
その日は、兄の命日からちょうど一年目にあたる日でした。あれからどれほど時間が経っても、きちんと別れの言葉を告げられなかったことが、今でも胸を締めつけます。
「大丈夫だよ、ナオミ。何があっても、俺がそばにいる」
アレクシス・前原が、私の指にそっと自分の指を絡めました。彼と一緒になって、もう一年以上が過ぎています。
「うん。……そばにいてくれて、ありがとう」
私が第二階層に移り住めるよう取り計らってくれたのは、アレクシスでした。本当は兄も一緒に連れてくるつもりだったのです。時間はまだあると、そう信じて疑いませんでした。まさか第一階層が、あんな一瞬で消え去ってしまうなんて、思いもしませんでした。
「それでも……兄のことを忘れられない」
アレクシスは、静かに私を抱き寄せてくれました。彼はいつも私を支えてくれていて、今となっては、彼を疑っていた自分が恥ずかしいくらいです。
彼の父親――前原伊織博士は、白の都市でも指折りの要職に就いている人でした。出会った当初は、私にも優しく接してくれていました。けれど、あの災厄以降、態度は一変してしまいました。研究室に籠りきりで、たまに姿を見せても、疲労で憔悴しきった顔をしているばかりでした。最後に話しかけたときは、お前はアレクシスの気晴らしにすぎなかった、あの災厄が起きたときに第一階層に残っていてくれた方がよかった――そう言い放たれました。
その言葉に、私は深く傷つきました。けれどアレクシスは、実の父親に食ってかかってでも私をかばってくれたのです。そのとき初めて、彼の気持ちが本物なのだと理解しました。
だからといって、私たちに幸せな結末が待っているとは限りませんでした。第一階層を失ったことで、生産力の大半と、多くの医療従事者が失われてしまったのです。
物資は不足し、抗議デモは日を追うごとに激しさを増し、評議会への圧力も高まる一方でした。今この瞬間にも、待遇改善を求めるデモが起きています。かつては第一階層の住民しかしなかったようなことが、今では当たり前になっていました。
さらに悪いことに、警報が静寂を切り裂きました。
『警告。第三階層への全入口は、十分後に封鎖されます』
抗議に参加していた人々は、戸惑いを隠せない様子でした。何が起きているのか分からず、辺りを見回しています。
「……何が起きているの?」
アレクシスは、ドームを険しい表情で見上げていました。私の手を握る彼の手に、ぐっと力がこもるのを感じます。
「……まずいな。今すぐここを離れよう」
その表情を見た瞬間、すべてを悟りました。また何か――別の異変が起ころうとしている。第三階層への入口が封鎖される前に、なんとしても辿り着かなければ。けれど数歩も歩かないうちに、地面が揺れ始めました。まるで都市全体を大地震が襲っているかのように、建物という建物が振動しています。
そして、ドームに映し出されていた空が消えました。代わりに映るのは、毒々しい赤一色。警告メッセージが繰り返し表示されていましたが、その映像すらも点滅を始め、今にも壊れてしまいそうでした。
巨大な亀裂が、ドームの表面を瞬く間に走っていきます。まるで、外側から何か途方もなく巨大なものに叩かれているかのようでした。
『注意。避難プロトコルは中止されました』
『第三階層への入口は、すべて封鎖されました』
人々が悲鳴を上げ始めました。すすり泣く声もあちこちから聞こえてきます。私たちは、見捨てられたのです。次の瞬間、耳をつんざくような轟音が都市全体を揺さぶりました。
「今のは……一体何なの……?」
薔薇色の疫病から私たちを守ってきた最大の盾――ドームが、まるでガラス細工のように、無数の破片となって砕け散りました。
巨大な影が、都市全体を覆い尽くしました。私は本能的に空を見上げました。降り注ぐ瓦礫の向こう側、薔薇色の霧の中から立ち上る、途方もなく巨大な黒い影しか見えません。
それが何なのか、確信は持てませんでした。けれどそれが動き出した瞬間、それが生きているものなのだと悟りました。その輪郭だけで、今しがた開いたばかりの穴を、すっかり覆い隠してしまうほどでした。
薔薇色の霧が、まるでその怪物の意のままに操られているかのように、共に急速に降りてきます。
「あれは……いったい……? 私たち、これからどうすれば……」
恐怖に足がすくみ、その場に膝をつくしかありませんでした。もはや逃げることにも、避難場所を探すことにも、意味はありません。これで終わりなのです。あれほど容易くドームを打ち破ったものを、都市の中の壁ごときが食い止められるはずがありません。
アレクシスは私の前に膝をつき、これから起こることから守るように、強く抱きしめてくれました。
「本当に……すまない」
「どうして、謝るの……?」
彼の声は、悔しさと痛みで震えていました。
「幸せにしたかった。お前を、こんな目に遭わせたくなかった」
頬を涙が伝うのを感じました。私は首を横に振りました。
「違う……」私は最後に、彼の手を取りました。「今まで、本当にありがとう」
涙の中で、私は微笑みました。もう、この運命を受け入れていたのです。
「本当に……最後まであなたのそばにいられて、幸せだった」
薔薇色の霧が私たちを包み込みました。ほんの一瞬、私たちの体が薔薇色の塵となって崩れていくのが見えました。けれど、最後の最後まで、私たちは一緒でした。もしかしたら、これこそが――幸せな結末と呼ばれるものなのかもしれません。
◇◇◇
POV —チェスター
俺の主が去ってから、もう一年が経った。おそらく、もう故郷の世界に帰っているはずだ。どこにいようと、あの人がついに幸せになれることを、俺はただ願っている。だが、あの人が幸福を掴んだからといって、あの人を壊した連中の罪が消えるわけではない。
奴らの誰一人として、幸せになる資格などない。
俺の視界に映るのは、敵ばかりだ。俺の主の心と体を、徹底的に打ち砕いた連中。あの人が味わわされた苦痛は、俺が受け継いだ記憶の中に今も生々しく息づいている。そして、その記憶こそが、俺を前に進ませる原動力だった。
奴らさえいなければ、アメリアは今も生きていた。俺の主が壊れることもなかった。あの人は、全員を救うことができたはずなのだ。
***
[通知:サポートシステム――過去一年間の習得スキル一覧]
<> 習得スキル:「疫病適応」
<> 習得スキル:「生体耐性」
<> 習得スキル:「ウイルス親和性」
<> 習得スキル:「病原読解」
***
そのすべては、俺の主が持っていた病理コアの複製――ウイルスや細菌を格納し、制御するための器官を中心に成り立っている。この一年、俺はひたすら自身のスキルを磨き上げてきた。「ウイルス親和性」を用いることで、薔薇色の疫病に感染した者たちを操り、小さな微生物を代わりに世界の各地へと送り込み、探索させることができるようになった。
そうして、感染者たちの集落をいくつも見つけた。その多くは、積極的に他者を傷つけようとはせず、できる範囲で平穏に生き延びていた。中には、決して無垢とは言えない者たちもいた。それでも俺は、主の教えに従い、俺が「更生の余地あり」と“判断”した者たちには手を差し伸べた。それ以外の者については、もはやどうでもよかった。俺に直接害を及ぼさない限り、放っておけばいい。
この一年で、いわゆる「清浄都市」に関する情報も、かなりの量を集めることができた。そこは、いわゆる「文明」なるものが辛うじて保たれている場所であり、その外側にいる者たちは皆、人間として扱う価値すらない、ただの塵芥として扱われていた。
俺は、最初の標的として白の都市を選んだ。
理由の一つは戦略的なものだ。俺の主があの地下研究施設から脱出した後、あの都市の外部区域はすでに人の住めない土地と化していた。
だが最大の理由は、俺たちにあれほどの苦しみを与えたのが、他でもない奴らだったからだ。もっとも、たとえ相手が別の都市であったとしても、結末はいずれ同じだっただろう。
白の都市は、これから崩れ落ちていく数多の都市の、最初の一つに過ぎない。
情報収集の間、俺は薔薇色の霧の中に身を潜めていた。「生体耐性」と「疫病適応」を併用することで、俺の体を何度でも再構築させることができた。俺の細胞の一つ一つが作り替えられ、奴らが与えた苦しみの一部を、そのまま返してやるための力を手に入れていた。
都市に近づいた瞬間、自動防衛システムが即座に反応した。
無数の弾丸が俺の体に降り注いだ。人間どもが「弾丸」と呼ぶ、あの金属の塊だ。皮膚をわずかに突き破る程度で、「生体耐性」がすぐさま傷を癒していく。
まさか俺のような存在が、奴らの終焉の時を決める側に回るとは、思いもよらなかっただろうな。とはいえ、細心の注意は必要だった。他の都市に俺の存在を気づかれるわけにはいかない。気づかれれば、来るべき包囲に備える猶予を与えてしまうことになる。
幸い、濃密な薔薇色の霧が都市の通信をことごとく妨害していた。俺は白の都市第二階層を守る、あの巨大なドームの前に立った。汚染区域を探索していたところを捕らえた研究者たちの言葉によれば、あの防壁こそが人類最大の誇りの一つだという。
薔薇色の霧を使えば、一瞬で消し去ることもできただろう。だが、どれほど耐えられるものか試してみたくなった。俺は尾を振り上げ、渾身の力でドームを叩きつけた。
衝撃で都市全体が揺れたが、ドームは最初の一撃を耐え抜いた。だから二度、三度と叩き続けた。どこまで持ちこたえるのか、単純に興味があったからだ。だが、どうやらこの好奇心が人間どもを苛立たせたらしい。攻撃の数が、次第に増えていく。次第に鬱陶しくなってきたので、体の筋肉を強化し、新たな一撃を叩き込んだ。
今度こそ、ドームは粉々に砕け散った。
俺はしばらくの間、その場に立ち尽くしたまま、小さな人影が街路を必死に逃げ惑う様子を眺めていた。奴らは感染者を「ペスト」と呼ぶ。だが俺に言わせれば、真のペストは奴ら自身だ。もっとも、そのすべての罪を一つ一つ説いて聞かせるほど、俺は暇ではない。
薔薇色の霧を使ってドームの残骸を消し去り、都市内部へと続く道を切り開いた。人間どもは、そもそも存在すらしない「救い」を求めて、必死に逃げ惑っていた。せめて残り少ない命の時間の中で、自分たちが与えてきた恐怖と苦しみを、ようやく理解してくれればいいのだが。
そして、俺が都市内部へ踏み込もうとしたその時、大量の爆発が俺の体を襲った。ドームの一部を粉砕するほどの威力で、当然、自分たちの住民をも巻き添えにして殺していた。
『……この程度の連中に、それ以上を期待するだけ無駄だったな』
筋肉が引き裂かれ、肉片が四方八方に飛び散った。
正直、痛みはあった。だが、守ろうとした人々が死んでいくのを目の当たりにしながら、生きたまま体を開かれる痛みに比べれば、こんなものは何ほどのこともない。
「ウイルス親和性」「生体耐性」「疫病適応」を組み合わせて使うことで、薔薇色の疫病の粒子が即座に俺の体の周囲へと集まり、失われた部位のすべてを瞬時に置き換えていった。俺の体は完全に再生された。どれほどの損傷を受けようと、十分な薔薇色の霧さえ存在すれば、俺は事実上の不死身だった。
薔薇色の霧に触れたものはすべて、瞬時に消し去られていった。そして第二階層の陥落とともに、残るは第三階層のみとなった――奴らが、最初からずっと、こちらを見下ろしていた場所が。
◇◇◇
POV — 前原伊織
評議会の議場は、混乱の坩堝と化していた。誰一人として、何が起きているのか理解できていない。
「くそっ! あれは一体何なんだ!?」内部治安局長、ハビエル・コルテスが叫んだ。
「そんなもの、俺たちに分かるわけがないだろうが!!」
我々の誰一人として、説明できる者はいなかった。評議会はすでに統制を失っていた。メインスクリーンには、白の都市の境界線に迫りくる巨大な影が映し出されている。あと数分もすれば、第二階層を守るドームへと到達するだろう。
「大きさは?」私は尋ねた。
分析官の一人が、答えるまでに数秒を要した。
「解析値の再計算を続けておりますが……現在の推定値では……高さ、約五百メートルかと」
五百メートル――生物として、あまりにも常軌を逸した大きさだ。既知のいかなる生物であっても、これほどの質量を支えることなどできるはずがない。それは、生物学的な常識そのものを踏みにじる存在だった。
「落ち着け」黒田議長が、平静を保とうと努めながら命じた。「黒鉄、直ちに防衛プロトコルを起動しろ」
黒鉄武は、明らかに動揺していた。
「あの防衛システムは、都市の安全を脅かす人間や感染者を想定して設計されたものです。あの規模の生物を想定したものではありません。それに、重火器を展開すれば、ドームそのものに損傷を与えかねません」
「構わん」黒田は冷たく言い放ち、彼の言葉を遮った。「あれが都市の存続を脅かすというなら、手持ちの戦力すべてを使え。第二階層のドームごとあれを叩き潰す必要があるというのなら、それは許容できる損失だ」
「……了解しました。重火器の展開準備を進めます」
他に選択肢などなかった。それは、その場にいた誰もが理解していたことだ。彼がわざわざ口にしたのは、万が一第二階層の崩壊を招く結果になった際、自らの罪悪感を和らげるためにすぎない。
砲台が一斉に射撃を開始した。無数の砲弾が、あの巨大な生物の体へと降り注いでいく。
「損傷を確認……ですが、あまりにも表面的です。実質的な傷にはなっていません」
その生物は、身じろぎ一つ見せなかった。巨大な尾を振り上げ、ドームへと叩きつける。一撃目は、ドームが持ちこたえた。二撃目で都市全体が震え、三撃目でも同様だった。だが四撃目――ドームは粉々に砕け散った。薔薇色の霧が、瞬く間に第二階層全域へと侵入していく。数秒間、誰も言葉を発することができなかった。ただ、画面を凝視するばかりだった。
「時間を無駄にするな、くそっ、あれが第三階層に近づく前に、全弾撃ち込め!」黒田自身、明らかに追い詰められていた。
「了解しました」諦観したような口ぶりで、武がそう答えた。直後、モニターに無数の爆発が映し出され、生物の体を次々と打ち据えていく。
「生物に有意な損傷を確認。この調子でいけば、数分以内に撃破可能と思われます」
一瞬、議場に安堵の空気が流れた。だが、その直後、最悪の事態が起きた。薔薇色の霧があの生物を包み込み、第二階層を離れると同時に、我々が与えたはずの傷が、信じがたい速度で塞がっていったのだ。引き裂かれた肉が再び繋がり、まるで攻撃など最初から存在しなかったかのように再構築されていく。
「こんな生命形態、これまで一度も観測されたことがない……」私は、置かれた状況を理解できぬまま呟いた。「薔薇色の疫病に、こんなものを生み出す力があるとは……知らなかった。単なる突然変異のはずがない。我々の目の前にいるのは……生物の姿をした天災そのものだ」
神よ……今、私を見捨てないでくれ。
「止めろ! 何でもいい、使えるものは全部使え! 対暴徒防衛装置でも、爆薬でも、何でもだ! あれが進み続ければ、我々は全員死ぬぞ!」
一人のオペレーターが、唾を飲み込んでから答えた。
「議長……利用可能な防衛設備は、すでにすべて稼働しております。しかし、その出力は……先ほど使用した防衛設備を大きく下回っており……それすらも、すでに完全に突破されております」
画面には、あり得ない光景が映し出されていた。生物は速度を落とすことなく前進を続けている。建物という建物が、薔薇色の霧の下に消えていく。爆発は、その歩みをわずか数秒遅らせることしかできていなかった。
せめて――せめて第三階層だけでも避難させることができれば……
「……もう……手遅れです」
私は勢いよくオペレーターの方を振り向いた。
「どういう意味だ?」
彼の顔は、完全に血の気を失っていた。
「あの生物が……たった今、第三階層の城壁を突破しました」
議場は、再び沈黙に包まれた。あり得るはずがない。あの城壁は、我々が数十年の歳月をかけて築き上げたものだ。それを、あの生物はほんの数秒で突破してみせたのだ。
私は、震える笑い声を漏らした。
「は……はは……」
いや。こんな終わり方があってたまるか。
「神よ……私はあなたの指示に従い続けた……やるべきことは全部やった……あなたは……」
言葉が、喉の奥で消えていった。肩に手が置かれるのを感じた。武だった。
「何を言っているのか分かりませんが」――彼は、耐え難いほど落ち着き払った声でそう言った――「これが最後です。せめて、尊厳を持って迎えましょう」
いや。私にはもう、尊厳など残っていない。私は見捨てられたのだ。もはや、私の人生に意味などない。
議場の白い壁が、ゆっくりと崩れ始め、薔薇色の塵へと変わっていった。それでも、薔薇色の霧は、我々の体をそのまま消し去ることはしなかった。
何が起きているのか理解できずにいると、やがて、頭の中に直接響く声が聞こえてきた。
『見つけたぞ』
その生物が、こちらを見ていた。その意識が、はっきりと我々に向けられているのを感じる。
『命令を下したのは、お前たちだったな』
我々の体は歪み始め、互いに絡み合いながらねじれていき、肉塊の螺旋と化していった。やがて残ったのは、ただ苦悶にのたうつだけの、形を失った塊――いつか誰かが、死という救いを与えてくれる日を待ち続けるだけの存在だった。




