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第19話 アメリア――第三部

視点:アメリア



「――あいつは、みんなを操ろうとしてるだけよ。

本当に思ってるの? 外の世界の誰かが、私たちより優しくしてくれるって」


……胸が痛んだ。

否定したかったのに、その言葉には、確かに真実が混じっていた。


知らない場所は、怖い。

けれど、ここは残酷でも、ルールさえ守れば生き延びられる。

現に私は――こんな体でも、今まで生きてきた。

食べ物も、水も、希望も……最低限だけは与えられていた。


私は、そもそも食事を必要としない。

それなのに、外のどこかで、誰かが私を「もっと良く」扱ってくれるなんて……

信じられなかった。


それでも、心の奥に、小さな疑問が芽を出す。


(あの人たち……あの人と一緒にいた人たち……

 誰一人、腫瘍も、歪みも、なかった)


本当?あの体は……綺麗だった?

肌は無傷で、顔には“ピンクの疫病”の痕すらなくて――。


数日前に聞いた言葉が、頭から離れなかった。

でも、たとえ奇跡が起きて、誰かが「誰か」を救おうとしても……

私だけは、救われない。それは、最初からわかっていた。


ある夜。好奇心が、恐怖に勝った。


皆が眠りについた頃、私は上の階へ向かった。


耳は、異様なほどよく利く。

遠くの足音も、壁越しの小さな呼吸も、聞き分けられる。

視界も完璧じゃないけれど、薄闇の中なら十分だった。


走れない。私の体は、昔から不器用で、脆い。

見つかれば、逃げ場はない。


……運がよかった。

見張りたちは持ち場でいびきをかいていた。


手すりにしがみつき、転ばないように階段を下りる。

一段ごとに、骨が悲鳴を上げた。

今日は殴られていないのに……長年の暴力が、体に刻み込まれている。

もうすぐ、歩くことすらできなくなるかもしれない。


それでも――辿り着いた。


東側の廊下、割れた窓。

そこからなら、見えるはずだと思った。


……見えた。


多すぎて、数えきれない。

母が数え方を教えてくれたから、今でも頭の中で練習しているのに……

それでも、無理だった。


衝撃だったのは、人数じゃない。

腫瘍がないことでも、腐った肉がないことでもない。


表情だった。


……笑っていた。


ここで見る笑顔は、嘲りか、怒りを隠すためのもの。

でも、あれは違う。

ずっと昔、ママ・カエデと一緒に暮らしていた頃に見た――

あの頃の笑顔と、同じだった。


思わず、頬に手を当てる。


今の私は、どんな顔をしているんだろう。

……笑えるのかな。


昔は、笑っていた。ママは言ってた。「笑顔はね、可愛いのよ」って。


私の笑顔は……最初から、少し違っていたけど。

でも、ママが死んでから、私は笑顔を“必要としなくなった”。


もし、あんなに幸せそうなら……

どうして、まだ来るの?

どうして、他の人たちを探すの?

どうして、振り返らずに去らないの?


私は、“救世主”と呼ばれる人物を探した。

健康な、知らない顔ばかり。

もしかして、全部が嘘?

皆で演じているだけ?

希望という仮面を被った、もっと残酷な罠……?


「……泣かない」


手の甲で、目元を拭う。

希望を背負えない人たちに、それを見せるなんて……残酷だ。


それでも、私は目を離せなかった。


――その時、気づいた。


彼は、違っていた。 歪みがあるからじゃない。

周囲の視線が、彼だけを追っていた。


人々は彼を囲み、彼自身は、その扱いに戸惑っているようだった。


跪く者もいた。

でも、彼はそれを望んでいないように見えた。


若い顔。黒い髪。

……「綺麗」?

うん、たぶん、そういう言葉。


でも、彼が私をそう見ることはない。

人として見たとしても……きっと、嫌悪して距離を取る。


それなのに。彼の周りは、幸せそうだった。


ほんの一瞬。

本当に、一秒だけ。


(もし……近づいたら?

 私も……)


……だめ。

運を試してはいけない。

ここまで生き延びてきたのに。

全部、耐えてきたのに。


窓から離れようとした、その瞬間――

視線が、合った……気がした。


そして。


……彼は、笑った。


そんなはずない。

遠すぎる。

見えるはずがない。

私を、誰かと間違えたんだ。


私はすぐに窓から身を引いた。

胸が、焼けるように苦しい。


それでも……心のどこかで、もっと見ていたいと思っていた。


「期待するな、アメリア」


「あなたは特別じゃない」


「もし、あちらへ行けたとしても……」


「彼は、あなたを嫌う」


「怪物だって、そう呼ぶ。……皆と同じように」


それでも――

ソラは、毎日来た。


優しい言葉を持って。

助けを差し出して。

誰にも、聞き入れられなくても。


夜。

すべてが静まると、私はまた忍び出る。

弱い脚を引きずり、上階の窓へ。


……ただ、彼を見るためだけに。


ママが話してくれた物語を思い出す。

塔に閉じ込められた、お姫様の話。


でも、自分の脚を見る。

歪み。

腕を覆うピンク色の腫瘍。

曲がった背中。

病んだ色に汚れた、ざらつく肌。


幻想は、簡単に崩れた。


私の声は美しくない。

歯並びも、揃っていない。


……私は、お姫様じゃない。


最初から。

一度も。


……それでも、私は戻り続けていた。

何度、同じことを繰り返したのかは覚えていない。

ただ、遠くから彼を見つめている間、胸の奥がほんのりと温かかった。

望んだわけでもないのに、小さな、小さな灯りが――

勝手に、灯ってしまったみたいで。


彼の言葉は聞こえない。

でも、仲間を罵ったり、貶めたりしているようには見えなかった。


毎晩、私は自分に言い聞かせていた。

近づけるはずがない。

もし見られたら、彼の目はきっと嫌悪で満たされる――そう。


……それでも、私は上へ向かった。

今日も、また。


けれど、その夜は違った。


彼の姿が、よく見えなかった。

私は身を乗り出し、手すりに体重をかける。

首を伸ばし、体を捻って……もう少し、あと少しだけ――。


その時。


物音がした。誰かが、起きた。


足が滑る。


「あ……」


短い息が漏れた次の瞬間、私は落ちた。


低い壁に体を打ちつけ、胸の奥で何かが軋む音がした。

空気が、一気に抜けていく。

息ができない。声も出ない。


手足は不自然に捻じれ、激しい痛みが走った。


……でも。

最初に浮かんだのは、痛みじゃなかった。


戻らなきゃ。


ここで見つかったら、もっと酷いことをされる。

自分の“場所”を離れた罰。

逃げようとした、身の程知らずだって――

壊される。


心臓が壊れそうなほど鳴り響く中、

私は瓦礫とゴミの間を、這うように進んだ。


怖かった。

とても、怖かった。


ママには「強くなる」って約束したのに……

私は、ただ諦め続けているだけ。


「……ママ……どうしたら、いいの……」


それが幻だとしても――

私は、あの子がいるはずの場所へ向かうことを選んだ。


もしかしたら。

ほんの少しだけ、何かが変わるかもしれない。


体は、もう限界だった。

でも、私を前へ押し出したのは痛みじゃない。


記憶。

かつて、幸せだった感覚。

ママの温かい声。


「もう一歩だけ……ほら、あと少し。近いわ」


心臓の鼓動を数えながら、

リズムを失わないように、自分を縛りつけて進んだ。


やがて、道は滲み、曖昧になっていく。

何度立ち止まったのかも、

何度「無理だ」と思ったのかも、わからない。


ただ――

這い続けた。


その時。


足音が、聞こえた。


……見つかる。

罰が、来る。


地面に丸まり、泣いて、謝りたい衝動が全身を走る。

体が、勝手に震えた。


殴られる。

笑われる。

きっと、また私のせいだ。


それでも、私は止まらなかった。

ほとんど動けなくなっていたのに。


「……大丈夫。落ち着いて。必ず、助けるから」


声が、した。

私は凍りついた。


この声……知っている。


必死に、片目を開ける。


――彼だった。


毎日、救いを語っていた人。

目が合った。


そこにあったのは、

嫌悪でも、恐怖でもなく――

私が“そうだと思い込んでいたもの”とは違う感情。


……心配、している?


「動かないで」


彼はそう言って、しゃがみ込んだ。


「体が……腕も……これは、普通じゃない。

 こんなふうに動くべきじゃない」


答えようとしても、声が出ない。


彼が、私の腕に触れた瞬間、

体がびくりと震えた。


痛くない。

傷つける手つきじゃない。


……こんな触れ方、

ママ以外に、されたことがない。


涙が、止まらなくなった。


「……ごめ……なさい……」


壊れた声で、謝る。


「……ごめんなさい……私……」


彼は、一瞬、黙った。

歪んだ私の体を見つめ、その表情は読み取れなかった。


「……これは、良くない。

 ……不快だ」


その言葉で――

何かが、音を立てて壊れた。


……やっぱり。

同じだった。


私は、最初から――


「あっ、ちがっ……! ごめん、泣かないで」


慌てた声。


「怪我を確認していただけだ。

 ……よく言われるんだ。俺、女性の気持ちがあまり分からないって」


「……え……?」


「要するに、だ。助けたい。

 君を救いたい。……君のそばにいたい」


「……どうして……?

 ……私、気持ち悪い、でしょ……?」


希望を壊すのが楽しいの?

理解できなかった。


「気持ち悪い?」


彼は眉をひそめた。


「どうして、そんなことを言う?

 君は、この世界の被害者だ。

 誰も、こんな痛みを背負うべきじゃない」


「……私の全部が……

 顔も、声も……いいところなんて、何も……

 私は……誰にも望まれないから……」


「不快じゃない。

 そして、“何もない”なんて言うな」


気づいた時には――

彼の腕が、私を包んでいた。


思わず、身を縮める。

汚してしまう。

この腐った体が、移ってしまう。


……でも。


彼は、離れなかった。

震えもしなかった。

目も、逸らさなかった。


まるで――

私に、価値があるみたいに。


「俺の名前は、ソラだ」


耳元で、そう告げられる。


「必ず、助ける。約束する」


私は、何も言えなかった。


疑いは、消えていない。

それでも――信じることを、選んだ。


だって。


ママ・カエデが死んでから、初めてだった。


“人として”見られていると、感じたのは。


……もし、これが夢でも。

もし、嘘だったとしても。


私は、もう少しだけ――

この夢の中に、いたかった。

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