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第1章

第1章

(1)

幻覚・幻聴、そう言った類のものだと信じたい。今目にしたものがリアルのものであっていいはずがない。

とりあえず俺は、“バタン”と大きな音を立てて思いっきり扉をしめ、新たなマイホームから一時撤退をはかった。

 のだが……

いや、まて。おかしいだろう。なんで俺の部屋に赤の他人がいる?このマンションのオーナーとか言う雰囲気じゃ明らかに無かったし、それに自縛霊だとか意味のわからないことも言っていた気がする……

今の状況を冷静に振り返り分析するが、どんなに考えても見ず知らずの女の子が、俺のこれから暮らしていく部屋に居座っている合理的な理由は見当たらない。

そこで俺は考えるのを諦め、一つの結論を出すことにした。

そうだ、あの女はきっと頭が沸いている!!そうに違いない!

と、適当な様な意外に確信を突いている様な微妙な答えを出したところで、今の状況は変わらない。

再びあの部屋の中に突入出来るほどの勇気は今の俺には、残念ながらない。

って、おかしいだろ!!なんで自分の部屋に入るのに勇気を必要としなけりゃいけないんだ!!

そんな風に半ば強引に自分を鼓舞し、再び俺の部屋のはずの扉を開け放つ!

「はじめまして!マイ・スイートルーム!!」

さりげなく、ここが自分の部屋だと強調しながら部屋に突入する。ぱぱっと靴を脱ぎ棄て、どかどかと部屋に上がり込む。

「おかえりなさーい!お早い御帰りですねえ。今ご飯用意しますから待っててくださいねー」

「あ、ああ。よろしく頼む……?」

「はい、任せてください!!料理とかそういうの得意なんですよ――って、食材がありません!!これじゃあ、カップラーメン一つ作れませんよ!!ぺヤングもUFOもチャルメラもありません……」

いや、チャルメラはカップラーメンじゃない気がするのだが?いや、そもそもこの子はカップラーメンを作ってよこす気だったのか?

「ごめんなさい、今からちゃちゃっと食材を買ってきますね!!お腹すいてると思いますけど、ちょーっとだけ待っててください!!」

そして、しゃべるだけしゃべると、二コリと笑って駆け足でこの部屋を出て行った。あまりの怒涛の出来事に、何もできずに思わず部屋の真ん中で立ち尽くす。

あいつは本当になにか食材を買ってくる気なのか?

ただ、そんなことはどうでもいい。せっかくその訳の分からない娘が部屋から出て行ったチャンスを逃す手はない。

俺は玄関まで歩いていき、ドアのカギをがちゃりと閉めた。

「ふう、よくわからんがこの部屋を取り戻せた……」

とりあえず、まだカーペットもしいていないフローリングの上に座り、ほっと一息をつく。

もしあの子が本当に買い物に行ったのだとしたら、最低でもあと20分は帰ってこない。一番近いスーパーの位置なら、もう把握済みだ。

けどまあ、あの子が本当にスーパーまで行ったのかもわからないし、あの頭のねじの外れ具合から言って、常識は通用しなさそうだ……

『お財布忘れましたぁ!!』なんて言って一瞬で帰ってくるかもしれない……

俺の18年間生きてきての直感が告げてる。

――あの女はヤバい。

だが、部屋の鍵ならかけた……籠城する覚悟ならもう出来てる!!来られるもんならどっからでも来て見やがれ!!!!

と、その時。部屋の外からドタバタとあわただしい足音が聞こえ、“ピンポーン”とやかましい音が響いた。

え、普通にインターフォン……?

「お財布忘れましたぁ!!!!」

「って、本当に忘れたんかい!!」

部屋の中を見てみると、俺の座ってる横にかわいいピンクの長財布が落ちていた。それを拾ってみたところで、ふと気付いた。

あ、どうしようこれ。返すためにはこのドアを開けなければいけないじゃないか……

なんてこった。こんな罠が張ってあったなんて……!!

くそっ!天然キャラに見せかけておいて、なんて計算高い奴なんだ!!

だが、これ以上ここで考えてもいられない。外からは「どうしたんですかー?お財布ない無いと私、買い物できませんよー?」なんて急かす声が聞こえる。

「あ、ああ。今持っていくよ」

しょうがないから素直に言われた通り財布を玄関まで持って行く……が。そこで大人しくドアを開けてやるほど、俺は愚かな人間ではない。

ドアのチェーンをかけて、腕だけを通せる状態にしてから、ゆっくりとドアを開ける。

「ほらよ」

そっけなく、無愛想に腕を突き出し財布を渡そうとする。

けれどこの子は俺の突きだした腕を見つめるだけで、財布を受け取ろうとしなかった。

「……?」

俺がその様子を不思議に思っていると、突然はっとしたように、そいつはあわてて俺の手から財布を受け取った。

「あの、ありがとうございます……」

その顔は笑ってた。けれど、その顔がすごくさびしそうで、その顔を見た瞬間たぶんこいつはこのまま帰ってこないと、そう直感した。

それは俺にとって喜ばしいことだ。こんな意味のわからない痛い女は早々に追っ払うに限る。

「じゃあ、すいません。気を取り直して再び行ってきますねー!!」

そのはずなのに……

「おい!!ちょっと待てよ!!」

気づけば俺はそんなことを口走っていた。

せっかくかけたはずのチェーンまで外して……

「昼飯ならある。さっき家に来る前に買ってきた……だからとりあえず、部屋、入れよ」

「あ、ありがとうございます……?」

チェーンを外し自由になったドアを開いてやると、この女は驚きと困惑の表情を浮かべながらお礼を言った。

部屋の中には本当に何もない。ただ段ボールがいくつか積み重ねられているだけだ。あるのはもともと付いてきたいくつかの家具だけ。

「悪いな、お茶の一つもだせなくて」

俺はなんでこんな訳のわからない女に気を遣ってるんだ?やっぱり男ってのはそんな生き物だ。女の子がさびしそうにしてたら、つい声をかけたくなっちまう……

「う、ううん。大丈夫ですよ、そんなの気にしなくて!!」

今度は客人として中に通す。ろくに座る場所もないが、適当にテーブルの前に座らせる。

本当はこんなクッションもなにもない、冷えたフローリングの上に女の子を座らせるなんて男としてマナー違反もいいとこだ。

まあ、マナーの話をしたら、いきなり人の部屋に上がり込んでいたこの謎少女は、とんだマナー違反なんだが。

「ほら、食えよ。こんなのしかないけど」

さっきコンビニで買ってきた、100円程度のパンを差しだす。

「ありがとうございます!!でも、いいんですか?ええと、あなたの分なくなっちゃいますよ?」

「いいんだよ、俺の分ならまだあるから。それと、俺の名前は隆司な。横山隆司。ま、なんとでも呼んでくれ」

「えとっ、隆司さんですね。タカシさん、タカシさん……」

必死に覚えようとしているのか、その謎少女はなんども俺の名前をぼそぼそと呟いている。

人の名前を呪文みたいに唱えるのはやめてくれ。そんなに珍しい名前でもないし、名前を呼ばれ続けるのは妙に気恥ずかしい。

「それより、お前。名前はなんて言うんだよ。人の名前を聞いといて名乗らないのは無しだぞ」

「あわわっ、そうでしたね。とんだ御無礼を働きました……」

謎少女はオーバーなくらいにあわてて、謝った。

何と言うかまあ、見ていて飽きない奴ではあるんだがな……

「えとっ、私は惣乃って言います。片桐惣乃です。“ソノちゃん”でも、“そうたん”でも、なんでも呼んでくださいね!!あ、でも、下の2文字だけとって、“うのちゃん”って呼ぶのは無しですからね!?」

「お、おう……」

なんというか、俺は早くもこの女を家に招待したことを早くも後悔し始めていた。はっきり言って、やたらにテンションが高いし、とにかくめんどくさい。

けどまあ、せっかく家に招いたんだし、少しくらいは話をしてみることにしようか。

「ええと、そのパンおいしいか?」

ああもう。こんなにも気のきいた質問ができないものかよ……なにかしら会話をしようと思って、口にした質問は本当にくだらないものだった。

本当は聞きたいことは山ほどある。なんでこの部屋に居座っていたのかとか、自縛霊ってなんのことだとか、両親はどうしてるんだとか……エトセトラ。

「あ、はい!と~~~~ってもおいしいですよ!!いやあ、やっぱり隆司さんの愛情がたっぷり込められてますからねえ」

でも、度の質問もなかなか面と向かって聞きづらものばかりだ。

「あーはいはい。そりゃよかったな……」

「いやあ、本当に!!隆司さんと偶然会えなかったら今ごろ餓死してましたよー」

こいつ、俺の入居日があと1日でも遅ければ、俺のマイホームを人が死んだいわくつきの家にしていたとでも言うのか!!??

そんな風にどうでもいい話題ばかり続いて行って、一向に本題に入れる気がしてこない。さすがにそろそろ俺もしびれを切らしはじめた。

「あ、そういえば私は幽霊だから餓死しようと思っても出来ないですね!残念です……」

それは残念なことなのだろうか……?

と、待てよ?この話の流れはちょっとチャンスじゃないか?

「なあお前、さっきからその自縛霊とか幽霊っていったいなんだよ?お前どう考えてもピンピンしてるだろ……」

目線の片桐の足先の方に向けてみる。当然地に足が着いて……る。

「うう……そんなことありませんよぉ。ほら、屈んでみても指先が足に届かない!!全然ピンピンじゃないですよ!!」

腰を曲げて、指先を地面に向けて伸ばし、準備体操でやる様なポーズをとってみせる。

「いやいやいや、それあんたが体固いだけだろ、おい。これっぽっちもお前が死んでるって証明にならんからな……」

「むう……証拠証拠って、あなたはどっかの検事さんですか!!そんなんじゃ嫌われますよ?」

「やかましい!!自称自縛霊の電波系女に言われたくないわ!」

「うう、私は電波なんかじゃありません!!」

「ほう?それじゃあなんだ、新しくきちがい系少女とかいうジャンルでも目指してるのか」

「うう……さっきから隆司さん失礼です。キチ女なんてさすがに流行らないです……」

今度は床にうずくまって泣くふりをしている。本当にいちいちオーバーなやつだ……

「ったく。本当に面倒くせえやつだなあ……」

――って、また話がずれてる!!

確かにこいつは本当に訳のわからない奴だが、どっからどう見ても普通の生きている生身の人間だ。

なぜそれをこいつは一向に認めようとしないのか。

何か幽霊だなんて嘘をつく理由でもあるのか、それとも本気で自分が幽霊だと勘違いしちゃってるイカれたパターンか……

こいつの場合、普通に後者の可能性もあるから困る。

うーん。

「???」

しばらく本気で悩んでたら、片桐が首をかしげて見つめてきた。

こんなイカれた女なのに、こんなに近くで見つめれ続けたら異様に気恥ずかしくなってきた。こうして見れば、目はぱっちりしたまん丸で、まつ毛は長く顔立ちは整っている。腰のあたりまで伸ばした髪の毛も綺麗で思わず見とれてしまう。

「と、とにかく!!お前は普通の生きてる生身の人間だ。くだらない冗談にいつまでも付き合う気はねえよ!!」

「…………そんなこと、ないんだもん」

片桐は今にも消え入りそうな声で呟いた。

「――は?

分からず屋だな。いつまで言ってんだよ。そんなつまんねー冗談に付き合ってやる気分じゃないんだよ」

いつまでも態度を変えない片桐にイラついてきた。

「……ッ!!ごめんなさい。でも、私が幽霊だって言うのはホントなんです……」

片桐は俺の声色に少し怯えたのか、申し訳なさそうにうつむいてしまった。

「ハアぁぁ………」

ここまで来たら、苛立ちを通り越して呆れてきた。ちょっと怯えさせてしまったのは申し訳ないけど、ここまで頑なな態度はちょっと異常だ。

そもそも、こいつとまともに話をするっていうのは、無理な話なのかもしれないが。

「もういいよ。そういうことにしといてやる。それより、両親はどうしたんだよ?どうしてこんなおんぼろアパートなんかに一人でいたんだよ?」

「う、ううぅ……痛いところを突きますね……」

片桐はさっきまでの申し訳なさそうな、弱弱しい顔を一瞬で崩壊させ、悪びれもせずに最初の明るい顔に戻った。

「そりゃ当り前だ。人が新生活を送ろうと思って入ろうとした新居に、訳のわからん女が先に占拠してたとなれば、そいつがなぜ俺の新居に居座っていたのか気になるのは当然だろう?それとも、“うのちゃん“には、ちょーーっと難しい話だったかなぁ??」

散々迷惑をかけられたお返しに、ちょっと嫌味っぽく言ってやる。

「うーー!!“うのちゃん”って言わないでくださいー!!それに、隆司さんの言うことくらいわかります!!

つまりは、『あれ?この部屋って、こんなにかわいい女の子が付いてくるオプションなんて付いてたっけ?』ってことですよね!?」

「うん、違う」

「ぬがあ!!即答ですか!?」

もう完全に、さっきまでのしおらしさなんて吹き飛ばして、ただのやかましい女になり下がっている。いったいなぜこんな女を部屋に引きとめてしまったのか、俺は齢18にして人生最大の選択ミスを犯してしまったかもしれない……

「ったく……で、お前はなんで俺の部屋にいたんだ?まさかここに住んでるわけじゃあるまいし……」

「そのまさかですよっ。私はこの部屋の自縛霊なんですから、ここに住んでるにきまってるじゃないですかー」

片桐は相変わらずニコニコ顔のまま、またそんなことを言いやがった。本当のことを一向に話そうとしない片桐にもう怒りの気持ちはないが、それでもなぜこんな嘘を突き続けているのか、その疑問だけは消えない。

こいつはイカれたやつだけど、理由もなしにこんな嘘を吐くほど、頭の狂ったやつではないと思う。というか、そう思いたい。

「そうかよ。じゃああれだ、両親はどうしてる。娘がこんなところで自縛霊やってるのを知ってるのか?」

「ううん、どーだろねー。いくら両親でも、死んだ娘が今何してるかなんて、わからないんじゃないかなー」

片桐はいかにも面倒くさそうに、なげやりに答える。行儀悪く足をゆすったりなんてしている。

出会ってからほんの小一時間しか経っていないけど、わかったことが一つある。こいつは自分自身について話すことを極端に避けている。

「そんじゃ、あれだ。親の連絡先くらい知ってるだろ?こっちからコンタクトとってみようぜ」

俺は極力陽気な声で話しかけたけれど、本当のところは少し面倒くさい。これまでの言動から察するに、こいつはたぶん親に嫌気がさして家を飛び出した家出少女だろう。

つまり俺は、赤の他人の家庭事情に巻き込まれたってわけだ。

「う、……お母さんには、連絡出来ないよ…………」

ビンゴ――かな?

片桐からは、あまりにも案の定過ぎる返事が返ってきた。これはもう家出少女確定でいいだろう。連絡できないってことは、喧嘩中の両親と話をしたくないってことだ。

「そういうなよ。さすがにご両親だって心配してるだろうよ?」

言ってから、しまったと思う。今の発言はこいつのなかにある“設定”を無視した発言だった。

「心配なんてしないよ。だって、もう死んでるんだもん」

やっぱりだ。ちょっとでも自分の設定と矛盾のできる発言は見逃さない。

「そう、だったな……でもさ、自分の家に帰るくらいはできるだろ?それにほら、普通幽霊って自分の住んでた家に出没するもんだろ?」

設定を無視されてしょげている片桐を、笑い飛ばすように明るく言いってやった。

本当に出会って間もない相手だけれど、こいつがしょぼくれているとなぜかイライラしてくる。バカみたいにぎゃあぎゃあ騒いでるイメージの方が強いからか?

「家には、家には帰れません……だって家に帰ってもお母さんは気づいてくれないから……」

気づいてくれない?自分が幽霊だから、家に帰っても誰も認識できないって言う、また設定の話か?

「それでも帰らなきゃだめだ」と、言おうとした。いつまでもこの家にいられても迷惑だから。

そう言おうとした時……

「だから、家には帰りません」

――笑顔で。

片桐は今まで見せた表情の中で最高の笑顔で、そう告げたのだ。

その笑顔はどこまでも明るく、なによりもきれいで、それでいて俺が生涯に見たどの笑顔より儚げだった。

「でも、わかってるんですよ?私がここに居続けたら、隆司さんの迷惑になるってことくらい」

気づいてた!?こいつを家に入れて後悔してたこととか、早く親の元に帰ってほしいとかそんな風なこと全部。こんな何にも考えてなさそうな顔して、全部気づいていたのだろうか。

かける言葉が見当たらない。そんなことないと、おまえがいたって迷惑なんかじゃないと、そう言って引きとめるべきなのだろうか。

「ではでは!!私はそろそろおいとましますね~。あ、実は私ここの部屋のほかにもいくつか秘密基地があるので、宿についてはご心配なく~!!」

こんなときでさえ、会った時と変わらない明るい、能天気な声で別れを告げた。

荷物をすべてまとめて、肩に背負った。忘れ物はないはずだ。今度こそ本当にこいつは大人しく家に帰るだろう。

「じゃあ隆司さん!ばいばいです~。また会いましょうね!!」

くつをはき終え、玄関のドアに手をかける。今ここで大人しく、こいつが家を出ていくのを見送れば、もう二度とこいつに会うことはないだろう。

けど、ひとつ気になることがある。こいつが自称幽霊の大ほら吹きだって言うのはわかりきったことだけど、まさか話した内用がすべて嘘とも思えない。

もしも、もしもの話だ。自分がもう死んでるっていう設定以外が、すべて本当のことだとしたら、こいつはただの家で少女なんかじゃなくなるんじゃ……

確かこいつは初め、この部屋に住んでるって言っていた。住んでるってことは、ほんの一日二日ここに泊まったって訳じゃないだろう。

そしてさらには、一向に家に帰らない娘を家族は、気にもしないし心配もしていないと言ってたし、挙句の果てには家に帰ったとしても誰も気づいてくれないとまで言った。

こいつの言った言葉が本当かもわからない。嘘かも知れないし、誇張して話していたかもしない。

けど、この話が本当なら、両親はひどい人たちで、こいつに帰る場所なんてないんじゃないか、そう思ってしまう。

俺には家出をする子供の気持ちなんてわからないし、冷え切った家庭の事情なんて理解も出来ない。

――家庭にも、友達にも恵まれてきた。

それなりに育ちが良いとされるような家庭に生まれた。別に金持ちというわけではないが、両親がお金に困っている素振りを見せたことはあまりない。

両親の仲も良くて、俺には優しく温かく接してくれた。そして時には厳しく叱ってくれた。

両親を憎らしいと思ったことは一度もない。本気で家を出ていこうなどと考えたことなんて、ただの一度もない。

だから、ただの同情だったのかもしれない。ただの興味本位からだったのかもしれない。

気が付けば俺は、あの騒がしい少女、片桐惣乃を追いかけていた。

まともに靴もはかず、玄関の扉を開け外に出る。ちょうどその時、片桐はアパートの階段を降りようとしているところだった。

「片桐っ!!!」

そのまま姿が見えなくなってしまうのが怖くて、思わず大声で叫んでしまう。

「え……」

片桐が振り返る。その顔には悲しみと戸惑いが混じっている。そんな表情を見ていると、泣きそうな顔で一人たたずむ片桐が、頭の中でイメージとして浮かんでしまう。

「あの、それ。あれだ。おまえこの後どうせ家帰んないんだろ?」

あわてて家を飛び出してきた所為で、言うべき言葉が見つからない。

「あのさ、もしよかったらなんだけどさ……」

片桐の表情に疑問の色が強くなる。

「今日一日くらいは、うちにいないか?ほら、俺も一人暮らし初日で不安だし、段ボールの荷ほどきもしてなくて部屋は閑散としててさびしいし……」

片桐はだまって俺の言葉を聞いている。もう、最後のひと押しだ。

「だからさ、にぎやかな片桐に今日ぐらいいてほしいんだけど……だめかな?」

――時間が止まった気がした。現に片桐は驚きの表情のまま微動だにしない。いったい何分ほどそのままでいたのかもわからない。

けどある時突然、片桐は驚きの表情を崩し、満面の笑みに表情を変えて言った。

「ご要望とあれば!!遠慮せずに騒ぎまくりますよ~~!!!!」

「やっぱ来んなあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」

こんなやつを再び家に招いた後悔を、俺は腹の奥から吐き出した。

「帰りませんよ~~。男なんだったら、一度言った言葉は撤回しちゃいけませんよ☆」

「てめえ、このやろーーー!!!」

さっきまでの悲しそうな表情はどこに行ったのか、またやかましい片桐に早変わりを遂げていた。

でも、そんな顔を見ているとどうしてか、こいつにはしおらしい寂しげな顔よりもこっちの顔の方が似合ってるなんて思ってしまった。だから、せめて俺といるときはもう寂しそうな顔はさせないようにしようと決意した。


母さん。どうやら俺の新生活は初日から騒がしいものになりそうです……


(2)

「で、あんたはいったいなにをしてるんだ?」

「何って、そりゃあ荷物整理に決まってるじゃねえですか、旦那ぁ。こんな段ボールだらけの部屋じゃあ、ちっともくつろげませんぜ」

片桐は段ボールの中を漁る手を止めもせず、しれっと答える。

「誰が旦那だ、コラ。そして、人の荷物を漁るのをやめろ!!」

「え~~、だって~~~~~~」

「だってじゃありません!!」

ぶーたれながらしょぼくれている片桐を見ながら、ちょっとしたお母さん気分を齢18にして味わう俺だった。

ちなみに片桐は、床をごろごろ転がりながら「だって~」、「だって~」と連呼してる。

「ハッ!!」

さっきまで床に寝そべっていた片桐が、急に奇声を発して、ものすごい勢いで起き上がった。

「な、なんだよ……?」

「さては隆司さん、私が段ボールをあさってる拍子に、秘蔵のコレクションが発見されてしまうのが怖いんじゃないですかぁ?」

「ギクッ!!」

図星だった……

「バ、バカ野郎。ソンナンジャナイヨ。タダ、カタキリサンニマカセルトニモツガガガガガガ………」

「なんでそんな壊れかけのラジオみたいになってるんですか~?さてはやましい気持でも?」

片桐は、ここぞとばかりに調子に乗って、にやにやと顔を緩めている。全くもって、調子のいい奴である。

「ば、バカ野郎。そんな気持ちはこれっぽっちもありやしないさ。漁りたければ漁ればいい」

大丈夫、その段ボールには入れてないし、念には念を入れてそう簡単に見つかるような場所には入れてない……!!

俺は変に慌ててからかわれるよりは、好きに漁らせて飽きられる方が賢明だと判断し、放っておくことにした。

――が、それが失敗だった。

「ん~~。なるほど。この段ボールにはないと……そしてそれなりに隠し場所には自信があるようですね~」

俺の考えは筒抜けだった。

「へっ、そうやって無駄なあがきを続けていればいいさ!!」

俺はあえて強気な態度を貫き続ける。セリフがちょっと三下チックになってしまったのは気にしない。

すると、片桐はその段ボールを漁る手を止め、急に立ち上がった。そして、ゆっくりゆっくりと円を描くようにぐるぐると、部屋の周りを回りながら段ボールの前を通りように歩き始める。

「なにをやって……………!!!!!」

真意が分かった時にはもう遅かった。俺はすでもう反応(・・)してしまっていた。

片桐はすべての段ボールの前を通ることによって得られる、わずかな俺の動揺や心の動きを観察していたのだ。

してやられた。俺はおそらく無意識のうちに、わずかに眉を動かしたのか分からないが、片桐に情報を与えてしまっていた。

ちくしょう!!どうする?もうすでに片桐は目当ての段ボールのふたを開けにかかっている。

「ふん、ばかばかしい。そんなに気になるなら全部開けて試してみろよ」

まだすべてが終わったわけじゃない。俺は最後の手段として、相手の作戦を逆手にとることにした。

最初と同じ行動パターンをとるのなら、余裕な素振りを見せればそこにはないと判断するはず!!

「ごそごそ~。あ、あった」

けどそんな苦し紛れの作戦が通じるはずもなく、俺の隠し通そうとしたモノたちはあっさりと衆目にさらされることになった。

あとはもう作戦もなにもない。実力行使、気づけば俺は駆けだしていた。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」

俺の大切な宝物~マイフレンド~達よ、おまえたちは絶対に俺が救い出す!!

プライドなんてもういらない。相手が幼い少女だったとしても容赦なんてしてやらない。友を救うため、守り抜くため、俺は、俺は!!

「すいまっせーーーーーん!!!ホントマジでそれだけは返してください!!!」

滑り込んで土下座していた。



(3)

「ごちそうさまでした!」

元気よく手を合わせて、片桐は叫んだ。

「それにしても、隆司さん料理お上手なんですね。正直、おどきました……!!」

結局、そのまま家に居座り続けた片桐に夕飯を振る舞うことになった。晩御飯の材料を買うために一緒にスーパーまで行ったわけだが食材費は倍になるし、いろいろねだられておかしを買うはめになった。

「まあ、これでも鍛えてたからな。一人暮らしするって言ったら、母さんが自炊しろって聞かなくってさ。散々しごかれたよ。

俺の母さん、普段は温厚なのに料理のことになると豹変するんだ……」

地獄のようだった修業時代を思い出して、少し体が震える。当時の自分をほめてあげたいぐらいだ。

「そ、それは地獄のような修業だったんですね……でもでも、そのおかげで隆司さんの素敵なご飯が食べられたのでよかったです!」

「あー、そうかそうかー」

夜ごはんを食べ終わって、少し横になる。春先でフローリングの床が少し冷たいけど、それも気にならないくらい疲れていた。

今日東京にやって来たっていうのが嘘みたいだ。けど、部屋中にまだ山積みなっている段ボールたちを見ると少し現実に引き戻される。

「で、結局片桐はいつ帰るんだ?もう外も暗いし、そろそろ帰った方がいいぞ」

「へ……?」

俺の一言に片桐は、ものすごい勢いで首を捻じ曲げて振り返った。

「え?俺、なんか変なこと言ったか?」

「むしろ、変なことしか言ってないです!私、今日は帰りませんよ?」

爆弾発言。今こいつなんて言った?

どうやら少し、耳が遠くなっているみたいだ。

「今、なんて言った?」

「ねえダーリン、私今夜は帰りたくないの……」

ダーリンとか、いつの時代だよ。帰れ。

「まじめな話、そろそろいい時間だし帰った方がいいと思うのだが……」

「ノリ悪いですよー隆司さん。それに、こんな時間だからこそ帰らないのです!☆」

この小娘、うまいこと言ってやったぜ的なドヤ顔を決めている。別にうまい返しでもなんでもないと言いたい。

「おまえって、たしか幽霊なんだろ?幽霊なら野宿の一つもして見せろよ」

自分でもいまいち、どうして幽霊なら野宿ができるっていう理屈は分からないが。

「あの。なんで幽霊なら野宿しなきゃいけないのか分からないんですけど、それは私がバカだからですかね?」

安心しろ、それはきっとお前だけじゃない。 

「と、とにかく!幽霊だろうとなんだろうと、私がか弱い少女であることには変わりありません!こんないたいけな少女をこの寒空に放り出そうなんて人として間違ってます!

それに、さっき今日一日くらいいてもいいって言ってくれたじゃないですかー!!」

この調子だと、本当に今日は帰るつもりはないみたいだ。ここで無理やりにでも追い出したとしても、本気で野宿をしかねない。

「まあ、確かに今日一日はいてもいいって言ったけど……あのう、それってうちに泊まっていくってことですよね?」

あまりの事態に思わず敬語になる。この家は一人暮らし用の狭苦しいもので、当然部屋なんて一つしかないし、仕切りになるカーテンだってありはしない。

「そうですけど?そんなの、この時間に帰らないんだから当たり前じゃないですか」

片桐はさも当然のように答える。こいつはそのことの意味を分かってるんだろうか?

「やっぱり、いちゃだめなんですか?」

なんて言ったらいいのか分からずしばらく黙っていたら、片桐はみるみる悲しげな表情に変わっていった。

「ば、ばばばばか野郎!良いに決まってるだろ!泊まってけ、バカ!!」

あああああああ、言っちゃったよ。ここまで来たらもうどうにでもなればいいんだ。

「やったあ!!あんまりいじわる言っちゃだめなんですからね?こう見えて、意外に私の心はナイーブなんですよ!?」

「ああ、気をつけるよ……はは」

俺はもう、うすら笑いを浮かべ続けることしかできなくなった。片桐の心がナイーブなのは分かったが、青少年の心はもっと繊細なんだ。

「じゃあ、さっそくですけど何して遊びます?まだまだ夜は長いですよ?」

このおてんば娘は、家にいられることが決定して元気が出たのか、ますます調子づいている。

「はあ、ちょっと待て。頼むから休ませてくれ」

「ええ!?もう寝ちゃうんですか」

話が一段落して、身体中に疲労が一気に押し寄せてきたみたいだ。横になっていたせいか、まぶたが少しずつ重くなっていくのを感じる。

「隆司さん、本当に寝ちゃうんですか……?寝るにしても、ちゃんとベットの上で寝ないとだめですよ?」

「あ、ああ……」

そうだ。休むためには、寝床の問題を解決しなければいけない。さっきも言った通りこの家はワンルームで、男女が一緒に暮らせるような配慮なんて、微塵もされていない。

新しく買ったベットだって、一人暮らしのために買ったものだからシングルサイズだ。いや、仮にダブルベットだったとしても一緒寝るなんてことは断じてありえないが。

こんなに若い男女二人が、一つ屋根の下どころか、一つの部屋で一緒に寝るなんて精神衛生上も、教育上もよろしくない。

俺たちが二人とも安心してゆっくり眠るためにはどうしたらいいのか、頭が痛くなるくらい本気で考えた。そう、考えた結果。

「実家に帰らせていただきます」

床に置きっぱなしになっていたカバンを手に取り、玄関に向かっていた。

「って、ええええええ!!??どうしたんですかいったい!!」

「俺たちが二人とも落ち着いて眠るためには、そうする他ないんだよ!」

「いやいやいやいや!!意味分かりませんって!思い直してくださいー!」

片桐は家を出ようとする俺を止めようと、俺のカバンを引っ張っている。けど、俺の進む力の方が強くて、片桐はずるずると引きずられている。

「とにかく!俺は実家に帰るんだ!やっぱり、男女が同じ部屋で寝るなんて絶対にいけません!」

「なんでちょっと、大学生の娘を持つ厳しい家のお母さんみたいになってるんですかー!私、一緒がいいです!!」

ついに、片桐のカバンを引っ張る腕が離れた。いっきに力が加わって少し前のめりになった。

家を出る前に一瞬だけ部屋の方を振り返った。すると、片桐がなにかをこらえるように腰のところで、両方の手を握り締めて直立している。

そして、大きく息を吸い込む音が聞こえた。

「隆司さん、お願いだから!行かないでえええええええええ!!!」

片桐の悲鳴が部屋の中にこだました。一瞬誰が声を出したのか分からなくなるくらいの大きな声で、思わず動きを止めてしまった。

「お願いだから、どこにも行かないでください。私を、見捨てないでください……」

バカか、俺は。こんな出合って間もない子を、何回泣かせそうにすれば気が済むんだ。もう十分片桐のことは分かってきたはずなのに。こいつはいつも元気に笑っていながら、本当はまるで自分に自信がない。だから、もうこいつが悲しむ顔は見ないようにしようって決めたはずなのに、俺はどこまでバカなんだ。

背を向けたまま、わざとらしく立ち止まった。そしてそのまま、頭の中で三つ数字を数えた。

「なーんてな!」

ぱっと振り返って、俺にできる最大限のいたずらな笑みを作る。

「まさか本当に実家に帰るわけないだろ。ここからじゃ2時間以上かかるし、一人暮らし初日から家に逃げ込むなんて恥ずかしすぎてできるわけねえよ」

片桐はあっけにとられた顔をして、立ちつくしている。

「ったく、いつまでぼけっとしてるんだよ。疲れてるって言うのは本当だから、さっさと寝支度しようぜ」

カバンを再び床に投げ捨てて、部屋の方に戻る。その時、片桐がまだぼけっとしたから、軽くおでこを小突いた。

「はっ!ひょっとして、私すごく恥ずかしいこと叫んでました!?」

そこでようやく片桐は我に返った。今になって大声で叫んだことが恥ずかしくなってきたみたいだ。今思えば、間違いなく隣の部屋にまで聞こえていただろうし、こっちまで恥ずかしくなってきた。

「いいから、さっさと布団のひもほどくの手伝ってくれよ」

「わかりましたよー!でも、あんな意地悪な嘘もうつかないでくださいね!?」

ほっぺたを膨らましながら、一生懸命怒っているのが伝わってくる。

「わかったわかった。もう意地悪しないって」

適当にあしらうふりをしながら、心の中で懸命に謝った。

「まったく。本当なら隆司さんは感謝しなきゃいけないんですよ?一人暮らしの初日からこんなかわいい女の子と一緒にお泊まりできるなんて!」

確かに、ワンルームの家で女の子と二人きりで過ごすなんて、言葉の響きだけ考えばすごくロマンにあふれている。それに、まあ、言いたくはないが見た目はなかなかに悪くない。だというのに、この男女が二人きりというロマンスをまったく感じさせない性格だ。

「残念過ぎる……」

「何か言いました?」

「なんでも」

そうだ。いくら二人きりといっても相手はこのちんちくりん。緊張する必要なんて、どこにもない。

「それじゃあ、俺は床で寝るからおまえはベッド使いな。そんなに寝心地の良いベッドじゃないけど」

適当にベッドメイクを済ませて、寝る準備は完了だ。床の上は冷たいが、真冬じゃないしなんとか耐えられるレベルだろう。

「いやいや!ベッドは隆司さんが使ってください!私なんかのために、隆司さんが寒い思いをするなんてダメですよ!」

「いいんだよ。これには男としてのプライドとか、そう言うのがいろいろあるんだ」

「そうだ!!だったら一緒にベッドで寝れば問題解決です!!!」

「ホワッツ!!??確かに一つの問題は解決しているかもしれないが、新しい問題を生み出しているぞ!!それも、より深刻な!!!」

「え~、いいじゃないですか。すべての問題を同時に解決できる最高の案です!」

片桐のかたくなな意見に、少し頭痛がしてきたころ。なんて反論すれば片桐が納得するのか考えていた時、部屋の中に突然電子音が鳴り響いた。

――着信音。俺の携帯からだった。

「電話、だと……?」

慌ててテーブルの上に置いていた携帯を掴み取る。画面を開いて、おそるおそる着信元を確認する。予想通り、案の定の名前がそこには表示されていた。

ただ一文字だけ、“母”と。

「嘘だろおお!!??」

一人暮らし初日で、不安な気持ちになっているだろうタイミングで電話をかけるなんて、優しい母親の鑑みたいな行動だ。普通だったら、俺も今頃喜んで通話ボタンを押しただろう。

「電話、出ないんですか?」

電話に出ることを躊躇させている現況が何を言うか。

「いいか片桐。今から電話が終わるまでの間、絶対に何もしゃべるなよ?」

俺のあまりに真剣な声に気圧されたのか、片桐は黙ってコクコクと二度うなずいて見せた。

少しでも片桐の声が電話越しに母さんの耳に届けば、一人暮らし初日からなにしてるの?的な展開になることは間違いない。すぐその場で、臨時家族会議が開かれることになるだろう。

俺は一度、大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと携帯をとった。

「もしもし?」

『もしもしー?タカ、元気にしてる?ホームシックになってないー?』

母さんの陽気な声に、少しだけ安心してしまう。

「大丈夫だよ。初日から早々ホームシックになんてなってたまるかって話だよ」

『なんだと?タカは絶対すぐにホームシックになるから!私が愛情を持って育てたんだから間違いない!!

でもまあ、元気になやってるならいいよ。ちゃんと夕飯食べた?』

「ああ、そんなに手の込んだものじゃないけど、ちゃんと食べたよ」

片桐の様子が気になって、ちらと目を向ける。ニヤニヤと笑っているかと思いきや、意外にも神妙な顔をしてこっちを見ていた。

『入学式は明後日でしょ?風邪引かないように気をつけなよ?』

「分かってるって。明日からもちゃんと自炊するし健康には気をつけるよ」

『うんうん。せっかく私が料理教えたんだから、コンビニ弁当なんて買ってきたら許さないから』

その時急に片桐が不自然に目を閉じて、表情を崩した。なんとなく嫌な予感がする。

「は、は……」

“は”……?って、まさか!

「へくちっ!!!」

その時、すべての音が消えてなくなった気がした。あたりを静寂が包みこむ。そして、すべて終わったと、そう覚悟をした。嫌がらせかと思うくらい、大きな声でくしゃみをしやがった……

『タカ、おまえ……』

「は、はい……!」

お叱りを受けるか、最悪家族会議……

『一人でさびしいからって、テレビつけたままにするのやめろよ?電気代もばかにならないんだ。さびしくなったらいつでも母さんに電話してくれればいいから』

「あ、ああ。ありがとう?」

母さんからの見当違いの言葉に、思わず脱力する。テレビから聞こえたと勘違いしてくれたみたいで、最悪の事態は回避されたようだ。

『それじゃ、また不安になっているであろう頃になったら電話するから!それじゃあ!』

言うだけ言って、母さんは一方的に電話を切った。

とにかく……

「おまえなあ、あのタイミングでくしゃみするか普通ー!!?」

「ええ!?隆司さん、ひどいです!生理現象くらい許してくださいよー」

「それにしたって、もう少し小さい声でやれ!!」

「うう~」

機嫌を損ねたのか、今度はすねはじめた。

「結果的に母さんにばれなかったから、いいけどな。俺はてっきり電話中にちょっかい出してくると思ってたから」

片桐のことだから、俺の立場が危ういことをいいことにからかってくると思っていたけど、ちゃんと静かに見ていたのは意外だった。

「隆司さんはひどい人です。そんなことするわけないじゃないですか。お母さんと話してる時に、邪魔なんてしないですよ」

“お母さんと”という時だけ、ほんの少しさびしそうにくちびるを震わせているのがわかった。それと同時に、俺が電話していた時に見せたあの神妙な顔の意味も、なんとなく察しがつく。

「さ、もう寝ようぜ」

俺は段ボールから薄い毛布を取り出して、床に投げ捨てる。

「あの、結局ベッドは……」

「だから、俺は床でいいって言ってんだろ?ほら、電気消すから早く布団に入れよ」

「わわわ!じゃ、じゃあお邪魔します」

電気のスイッチの前に立って、電気を消すふりをしたら慌てて片桐はベッドの中に飛び込んだ。一人暮らしのために新調したベッドを、まさか他人に使われることになろうとは数時間前の俺は絶対に分からなかったはずだ。

「それじゃ、おやすみ」

そう言って、部屋の電気を消す。部屋はすぐに暗くなったが、ブラインドの隙間から洩れる外の光がわずかに部屋に光を入れている。どれくらいかというと、暗闇に目が慣れてくればうっすらと部屋の中の様子が分かるくらいだ。

つまり何が言いたいのかと言うと、見えるわけだ。ベッドの上で気持ちよさそうに眠っている片桐の姿が……

極力何も考えないようにして、毛布を頭までかける。疲れているし、眠ることだけに意識を集中させる。

すると、なにか小さな音が部屋の奥の方から聞こえてくる。何の音か気になって、少し耳を澄ませて聞いてみる。

それはすうすうと規則的に鳴り続ける。その音の正体にすぐ気が付く。

――寝息だ。

小さく、それでいて確かな寝息が聞こえてくる。悔しいことに、その寝息はかわいかった。今すぐむくりと起き上がって、片桐の寝顔を確認しに行きたい衝動に駆られる。

落ち着け!落ち着くんだ、俺!理性を失ってはならない!

毛布の中でこぶしを握り、必死にあらぶる男としての本能を理性で抑えつける。一人暮らしの男の部屋のベッドに、年端もいかない女の子が無防備に寝ているって状況は、犯罪級に犯罪臭がする状況だ。

事あるごとに寝がえりを打って、床の上をのたうちまわる。

俺がちゃんと眠りにつけたのは、電気を消してから3時間たった後のことだった。



(3)

「うーん、おはようございます」

時刻は8時を回った頃、片桐は寝ぼけ眼のままもぞもぞとベッドから這い出てきた。

「やっぱり夢じゃなかったんだな」

目覚め一番に片桐の顔を見て、昨日の出来事が全部夢じゃなかったんだと痛感する。嬉しいような嬉しくないような、微妙な気分だ。

「隆司さん、顔色よくないですよ?クマなんて作っちゃって、どうしたんですか?」

お前のせいで眠れなかっただよ、と心の中でこっそり文句を言う。

「環境が変わったから、あんまり眠れなかったんだよ。ほっとけ」

寝起きで怠けた体に鞭打って、台所へ向かう。フローリングの床で寝たせいか、少し体が痛い。昨日の疲労は抜けきっていないが、今日も忙しいしあまりのんびりはしていられない。冷蔵庫の中に入った少ない食材を見てため息をつきながら、朝食の準備に取り掛かった。

今日はまずここの大家さんに挨拶に行かなきゃいけない。ほかにはいろいろ家具とか日用品も買いに行かなきゃいけないし、なにより圧倒的に食材が足りない。

そんなことを考えながら、徐々に固まってきた卵をかき混ぜる。今日も料理の腕はばっちりだ。

「ほら、できたぞ」

当たり前のように居候娘に料理をふるまっている自分に、ほんの少し疑問を感じながらも、とりあえず一緒にご飯を食べた。

「なあ、片桐。これ食べ終わったら、俺はここの大家さんに挨拶に行ってくるから、ちょっと家で待っててくれないか?」

「ええ~、暇は嫌ですよ~。私も一緒に行きます!私もここに幽霊として憑りつかせてもらっていただいているわけですからね。やはり一度挨拶に行かないと!」

「ダメったらダメだ。少しの留守番くらいしてくれよ」

片桐と二人で挨拶に行ったりしたら、あらぬ誤解を受けること間違いない。

「うう、わかりました。すぐ帰ってきてくださいよ?」

「大丈夫だって、どうぜここの一階に行くだけだし」

それにしても、こんな出会って間もない女を、自分の部屋に一人残しで出かけるなんて、俺もずいぶんと信用してしまったものだと思う。

朝食を食べ終わり、適当に食器を流し台に重ねると昨日買った菓子折りを手にして家を出た。

階段を一つ下ると、奥のほうに“大家”と表札が見える。

ここで生活していくうちに何度か顔を合わせるだろうし、怖い人じゃないことを祈るばかりだ。

「ふう」

一度軽く深呼吸をして扉にノックをすると、扉の奥から「はーい」と声が聞こえてきた。声を聞く限り、おばさんだろうか?

「あら、どうも!!」

扉を開けて出てきたのは、いかにも昭和のディスコで踊り狂っていそうな小太りの中年のおばさんだった。全身からイケイケの陽気なおばさんオーラを漂わせている。

「は、初めまして。このたび、205号室に住まわせていただく、横山隆司です」

大家さんの圧倒的オーラに気圧されながらも、なんとかあいさつをする。

「これ、つまらないものですが」と、持ってきた菓子折りをおずおずと渡すと、大家のおばさんは「そんなに気を遣わなくていいのに」と言いながら、受け取ってくれた。

「こんなに可愛い子が入居してくれるなんて、嬉しい限りだわ!」

「はあ、どうも?」

「どう?少しうちに上がってお菓子でも食べていく?」

「じ、時間もあまりないので遠慮しておきます……」

もしここで着いて行ったら何時間拘束されるか、わかったものじゃない。日本に生息する、おばちゃんと呼ばれる生き物に恐怖を感じずにはいられなかった。

「あら、残念ねえ……ところで、学生さんよね?いまいくつ?」

「この春から大学生になるので、まだ18です」

「あらあら!!入学式はいつ?」

「明日、です」

「あらあらあらあら!!言いわねえ、いよいよ大学生活が始まるって感じじゃない。おばさんがまだ若かりし学生だった頃は……って、今でも心はピッチピチよ!?」

「は、はあ……」

「おばさんは短大だったけど、大学生活は楽しいわよお?おばさんがまだ学生だった頃はねえ、毎日毎日……」

いよいよおばさんの弾丸トークに火が付き始めたようで、口をはさむ余裕もなくひたすら一人で話し続ける。

「私も寮生活だったんだけどね?寮長に内緒で、こっそり彼を自分の部屋に連れこんで――って!!あなた!!」

長話を覚悟し始めた瞬間、突然大声をあげて話を中断した。

「ど、どうしました?」

おばさんの身に何が起こったのか、突然顔を真っ青にしてわなわなと震え始めた。

「横山君だったわよね?あなたが入居することになった部屋って確か……」

「205号室ですけど?」

俺がそう答えると、もともと真っ青だった顔をさらに青くしてうなだれ始めた。

「その部屋についてなんだけど、あなたにとっては少し酷かもしれない話があるの。それを話す義務が大家の私にはあるし、それを聞くか聞かないかを選ぶ権利があなたにはあるわ。

あなたは聞きたい?」

大家さんはあんまり真剣な顔をして話をしているが、その時にはすでに話のオチがなんとなく読めていた。そのうえで、はっきりと「はい」と答えた。

「後悔、しないわね?」

大家の最終通告に、俺ははっきりとうなずく。それを見て大家は、あきらめたように首を振り、そして話し出した。

「実はね、あなたの部屋には出るのよ。まだ中学生か高校生くらいの女の子の霊が……

律儀に、“この部屋に憑りついている地縛霊です”なんて名乗ってね」

片桐、おまえ。大家さんにも見られた上に、そんな自己紹介してたのか……

「そうだったんですか……」

もともと片桐のことを知っていたことを悟られないように、驚いたふりをする。

「でも、うちのアパート内でもずいぶん噂になってるから、遅かれ早かれすぐに耳に入ったはずよ。それに、すぐに出会うことになるかもしれないわね」

そう言って大家は不敵に笑うが、残念ながらもう出会っている。

「お部屋に一人でいるのが怖くなったら、いつでもうちに逃げ込んできてくれていいのよ?」

大家からの悪魔のささやきを、適当に苦笑いしてやり過ごす。

それにしても、このアパート全体で片桐の噂が流れているのは少し予想外だった。なんとなく、面倒くさいことになりそうな、そんな予感がする。

「そうそう、学生時代の話だけどね、ちゃんと彼女作って遊びなさいよ?私なんて――」

そんなことを考えている間に、大家さんの弾丸トークは第二ラウンドに突入して、完全に帰るタイミングを見失った。

俺がこの弾丸トークから解放されたのは、一時間後のことだった。



「ただいまー」

人の話を聞き続けるだけの作業があんなにつらいものだとは思わなかった。体全体に負のオーラをまといながら、部屋の扉を開ける。

「お帰りなさい、あなた~。あんまり帰りが遅いから、惣乃待ちくたびれちゃいましたよ~って、いきなりグロッキー!!??」

相変わらずの片桐のテンションに、突っ込みを返すだけの元気もない。

「ほっとけ、俺はもう寝る」

「ええ!?昼寝するにしては早すぎですよ!?遊びましょうよー」

もう片桐が駄々をこねるのを毎度のことになってきた気がする。出来ることなら、このまま夕方くらいまで寝ていたいが、昼飯を作るだけの食材もないという現実問題に直面し、そうも言ってはいられない。

「しょうがない、どこか出かけるか」

その言葉を聞いた片桐はとたんに表情を明るく変えて浮かれ出す。

「どこに、どこに行くんですか!?東京タワーですか?それともスカイツリー!?はたまた上野公園とか!」

「悪いが、ただのスーパーとホームセンターだ」

すると今度は限界まで眉を下げて悲しげな表情に変わる。

けど、スカイツリーや上野公園はないにしろ、片桐の言う通りせっかく東京に来たわけだから、少しくらい東京観光をしてもいいかもしれない。また片桐が騒ぐだろうから、口が裂けても言えないが。

「ほら、さっさと準備していくぞ」

「って、準備早いです!待ってくださいよ~」

せかされて片桐は慌てて準備を始める。小さなカバンに簡素な財布とハンカチにティッシュ、そして古い型の携帯電話を突っ込んだ。

「へえ、幽霊でも携帯を持ち歩くんだな」

片桐が携帯を持っているのが意外で、少しからかってみる。

「相変わらず、隆司さんは失礼ですね!この携帯は、もう何年も前に買ってもらったものなんですよ?私が“死んだ”後も、どうしてかそのまま契約が続いていたので、今も使っているんです。使うといっても、私はネットもしませんしメールをする相手もいないので、ただこうして持ち歩いているだけですけどね」

そう語る片桐の顔は寂しげで、安易にからかったのを反省する。片桐は”生前”にこの携帯と契約をした。片桐の携帯は外装もぼろぼろで、ずいぶんと年季が入っているように見える。ならば、片桐が“死んだ”時というのは、いったいいつなんだろう?

「なあ、片桐。そういえば、おまえって今何歳なんだ?」

「女性に歳を聞くのはNGですよ?」

「こっちはまじめに質問してるんだよ」

「むう……生きていれば16です」

片桐はしぶしぶといった表情で答える。明るい性格のせいか、幼く見えるとは思っていたが、俺よりも2歳しか違わないとは思わなかった。

このままもう少し踏み込んだ質問をしても大丈夫だろうか。たとえば、片桐の”享年”を聞いてみるとか……

「ねえ、隆司さん。そんなことより、早くお出かけしましょうよ!そろそろお昼になっちゃいますよ?」

「ああ、そうだな……」

このタイミングで急かされたということは、これ以上詮索されるのは嫌だったということだろう。

「では、隆司さん。まずはどこに行くんですか?」

「よし!片桐、まずは月島に行くぞ!!」

「月島……ということは、まさか!!」

ゴクリと喉をならし、真剣な瞳で見つめてくるのを、俺は不敵な笑みで返す。

「ふ、そのまさかさ!」

「もんじゃあああああ!!!!!」

「もんじゃ食いに行くぞ!」

「なんぼのもんじゃあああああああ!!!!!」

こうして片桐と過ごす時間も今だけのことで、この家出少女はちゃんと家に帰らなきゃいけない。だから、今くらいは少し高くてもおいしいものを食べに行くのだって悪くないはずだ。

「私、都民のくせにもんじゃって食べたことないんですよね。焼き方教えてくださいね!」

「俺は都民でもないし、一回も食べたことないがな」

「……ま、まあなんとかなりますよ!早く行きましょう!」

機嫌のよくなった片桐は、行儀悪く足で地面を踏み鳴らして急かしている。

「はいはい、今行くからちょっと待ってろ」

靴を履いて外出の準備が整った。が、うかつにもその時俺は、何も考えずに玄関の扉を開けてしまった。

扉を開けたすぐ横に、おそらくここの隣人と思われる若い男が立っていた。

「で、ででででででででででででででででででででで、出たあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

俺のすぐ後ろに立っている片桐を指さして叫ぶ。

「あの、こいつは……」

「背・後・霊!」

「いや、だからこいつは幽霊なんかじゃなくて」

「寄るなああ!!背後霊が移る!!悪・霊・退・散!☆」

わざわざご丁寧に、隣人(?)はポーズまでとって片桐を祓おうとしている。立派に足が生えているのにも気づかずに。

「あなたのことも、呪っちゃいますよ!?♡」

こいつもなんか悪ノリし始めてるし……

「お助けえええええええええええ!!!」

ついに隣人っぽい男は悲鳴を上げながら走り去っていった。これでまた幽霊の噂が広まっていくのだと考えると、頭が痛い。

次に会ったときは、ちゃんと弁明しよう。

これ以上ほかの人に会わないように祈りながら、そそくさと俺たちはアパートを抜け出して駅に向かった。


(4)

駅に着いてからの片桐は常に張り切っていて、まるで家族旅行に来ている子供みたいだった。電車内でもいちいちはしゃいで、隣にいるこっちが恥ずかしいくらいだ。

30分ほど電車に揺られると月島につく。何軒も連なるもんじゃ屋さんを見ては、そこでも相変わらずのテンションで張り切っている。

やっぱり俺は、こいつのうるさいくらいの元気は好きかもしれない。

同じようなお店が続いていて、いまいち違いが分からなかったが、適当に一番内装の綺麗そうなお店に入った。

「隆司さん、ゴチになりました!すごくおなかいっぱいです!」

「そりゃあ、あれだけ食べればおなか一杯にもなるだろうさ……」

片桐は小柄な見かけによらず、恐ろしいほど大量のもんじゃを平らげていった。焼くのも注文するのも間に合わないほどに。食べ放題子コースで注文したことに、今最高に安堵している。ただ、店員さんの“まだ食べるのかよ……“と言わんばかりの目は忘れられそうにない。

「これだけ食べれば、三日は絶食しても生きていけそうです。隆司さん、本当にありがとうございます!」

おなか一杯に食べられたのがそんなに嬉しいのか、片桐は飛び跳ねながらお礼を言う。そんな様子を見ていると、この程度の出費安く思えてくる。

けど、こうして片桐と二人でご飯を食べるのも、これで最後だ。

というより、最後にしなきゃいけない。

片桐がいつから家出の生活をしてるのかはわからないが、まだ幼い女の子が一人で暮らしていくなんて、許されるわけがない。

こいつが家庭内であまりいい扱いを受けていないのは、なんとなく伝わってくる。それでも、家出を続けてもいい理由にはならない。

「どうしたんですかー、さっきから黙っちゃって。さては、食べ過ぎて気持ち悪くなっちゃったんですか?」

からかうように笑う声、それを俺は一瞬で黙らせた。

「片桐、おまえはやっぱりいい加減家に帰るべきだよ」

「そんなことを言う隆司さんは嫌いです」

一瞬で笑顔は消え去り、冷たい顔をした片桐が現れた。どうにもこの片桐は好きになれないが、たぶんこっちが本当の片桐なんだと今ならわかる。

けど、だからと言ってこんなことろで引くわけにもいかない。

「別に嫌われたって結構だ。こんなことで人を嫌いになるような奴なら、別に嫌われたって構わない」

これくらい言って突き放さないと、片桐は絶対に家に帰ろうとしない。ずっとうやむやにしてきたけど、いい加減決着をつけなくちゃいけない。家に置いてもいいと言った期間は、もう過ぎている。

「隆司さんは私のこと嫌いになっちゃいましたか?それとも、元から鬱陶しかったですか?」

「そんなわけないだろ。片桐がいてくれたから新生活の初日から寂しい思いをせずに済んだんだ。おまえがいてくれることに、むしろ感謝しているくらいだ」

「だったら、なんでそんなこと言うんですか?私だって隆司さんと一緒にいたいです」

「“俺と一緒にいたい”じゃなくて、あの家に帰りたくないだろ?」

核心を突く一言を放つ。別に俺と一緒にいたいのなら、こんな居候みたいな真似をしなくて、これからは普通に友達として予定を合わせて合えばいい。

随分と長い間家出をしてきて今更家に帰りづらい気持ちも分からなくもないが。

「帰れるわけないじゃないですか。だって私は幽霊ですよ!?」

こんな時にも、こいつはまだそんなことを言う。間違いなく事実上も書類上でも死んでいるなんてことはないのに。

「死んだ人間が家に戻って何がいけないんだよ。家族なら、一緒にいろよ」

今の片桐の姿を見ていると、なんだか無性にイライラしてくる。自分勝手な考えだっていうのはわかっているが、俺が家族に大切にされてきたから、ほかの人にも家族は大切にしてほしいと思う。

「家族って、そんなに大事なことですか?たまたまその人から産まれてきて、それだけの理由で一緒にいなきゃいけないんですか?」

「確かに、俺の言っていることは押しつけかもしれない。けど、これだけは譲りたくない」

それに、家族と一緒にいなくちゃこいつは一人ぼっちだろう?ただの推測だけど、片桐には友達がいない。そんな気がする。そうでなければ、あんな無人の家にずっと一人で暮らしてきたはずがない。

「別に譲ってもらわなくても結構です。隆司さんには関係のない話ですから」

「おい、人の家に住み着いといて、今更関係ないはないだろ?」

「……隆司さんは、いろいろとずるいです。私にないものを見せつけて」

昨日の夜の電話のことを、片桐は言っているのだろうか。俺には、強がっているだけで本心では家族と仲直りをしたいと思っているようにしか見えない。

けど、今ここで無理に追い出しても絶対に片桐はまた一人で暮らすんだろう。

「なあ、ちょっと携帯貸せよ」

「いきなりどうしたんですか!?変なデータは入ってませんよ?」

「誰もおまえの携帯の中身なんか興味ないわ。いいから、ちょっと貸してみろ」

戸惑いながら素直に片桐は携帯を渡してくれた。さっそく中身を開いてみるが、案の定というかほぼ中身が何もない。

片桐は俺のしようとしていることに気づかずに、頭に疑問符を浮かべたまま俺の指先を見つめている。

「あの、そろそろなにをしようとしれるのか教えてくれませんか?」

「母親に電話する」

「……え?なにするんですか!やめてください!!」

すぐに片桐は拒絶する反応を示したが、その時はすでに発信ボタンを押した後だった。片桐の顔がみるみる絶望と諦めに染まっていく。

「私はもう、知らないですから……」

そして、コール音が途切れ電話がつながる音がした。

『なんで電話した。今更何の用よ』

まるで、氷のように冷たい声。刺すように鋭い声に、思わず頭の中が真っ白になる。言おうとしていた言葉が出てこない。

これが片桐の母親。この声には持ち合わせているべき母親の温もりとか、そう言ったものがみじんも感じられない。

『……?イタ電か?切るぞ』

「っ、待ってくれ!」

『あんた誰?一人で何やってるのかと思ったら、適当に男作って遊んでたのかよ』

「俺が誰かなんてどうでもいいですよ。あなたは片桐惣乃のお母さんですよね?」

『だったら?』

電話の向こうの女は、さっきからずっと本当に面倒くさそうに返事をする。いくら本人じゃないとは言え、しばらく家に帰っていない実の娘の携帯から連絡がきたんだ、この反応の薄さはあまりに異常じゃないのか?

「片桐……惣乃を迎えに来てください」

片桐はきっと、何を言っても家に帰ることはない。だったらせめて、親に迎えに来てもらえば片桐も納得して家に戻れるんじゃないだろうか。親に対する怒りとか、今更家に帰る気恥ずかしさとか、全部解決できるはずだ。

けど、そんな考えは浅はかだった。

『悪いけど、私に惣乃なんて娘はいないよ』

目の前が一瞬真っ暗になり、平衡感覚を失った。すべての音が消え去り、暗闇の中に一人置き去りにされたような感覚に陥る。

こいつが本当の片桐の母親だと言うのか?分かっていたことだが、こんなのただの親子喧嘩の域を超えている。

「今更、何を言ってるんですか。最初に惣乃の名前を出したときは、ちゃんとわかっているようなそぶりだったじゃないですか!」

『細かいことを気にする男だな、あんたは。けどそれにその惣乃っていう子も、きっと母親なんていないって言うんじゃないかな』

受話器越しの女はわかったような口調で片桐のことを語る。すがるように片桐のほうを向くと、静かに片桐は首を横に振った。

俺たちの会話内容までは聞こえていないはずだが、きっとどんなことを言われているかなんとなく分かるのだろう。

『なあ、もういいかな?私だって別に暇じゃないんだ』

「っ!?待ってくれ!せめて惣乃と会うだけでも!それか、今ここで電話を代わって話してくれるだけでも!」

なんとか、少しでも二人で話せれば、お互いの気まづくなった関係も直せるかもしれない。このままお互いに拒絶し続けたんじゃあ平行線だ。

けど、俺のそんな思いは簡単に砕かれる。

『あのなあ。片桐惣乃なんて女はいないんだよ』

その声とともに、携帯の通話は切られた。

言い返すことも、再び電話をかけなおすこともできずに立ち尽くす。こんなものが、母親のとる態度なんだろうか。

もう全部、なにもかも分からなくなった。親子なら一緒にいるべきだと、今は喧嘩していてもきっとどこかで分かり合っているはずだと。

「もう、わかんねえよ……」

片桐がこっちを見ている。ごめんと、口を動かしたが伝わっているのかはわからない。

“片桐惣乃なんていない”、向こうの携帯の先にいた女性は、いったい何を思ってそんなことを口にしたのだろう。

今更確認するのも非常にばかばかしい話だが、片桐は死んでなんかいない。確かに目の前にこうして存在する。けれど、あの人は自分の娘の存在をなかったことにした。

――思い出したくもないと言うように。

「なあ、片桐。もういっそのことしばらくうちに住んじゃうか?」

気付けば、そんな言葉が自然と口からこぼれていた。

「え……いいんですか?私はまだ一緒にいても」

「いいんだよ。少し気が変わったんだ。それに、前にも言っただろ。一人暮らしじゃ、なにかと寂しいんだよ」

俺のへたくそな言い訳も、きっと片桐は見抜いている。同情的な感情も、ないと言ったら嘘になる。けど、それ以上にただ単純に片桐といたい。

あんな母親のもとで悲しい思いをさせるくらいなら、俺のそばで笑っていて欲しい。

なんて。出会って間もないのに思い入れが強すぎるかもしれないけど。

「うんうん。私、隆司さんのお部屋の地縛霊になって正解でした!いや、もう隆司さんのお部屋以外で幽霊をやるなんて考えられないです!」

「ったく、現金な奴だな。まあ、お前らしくていいけど」

「おお!隆司さんに褒められちゃいました!これは成仏ものです!」

「んじゃ、さっさと成仏しとけ」

「隆司さんと離れたくないので、絶対しませんよっ☆」

さっきまでの重い空気はどこに行ったのかと聞きたくなるが、いまさら気にするのもばかばかしい。

「隆司さん。私、今晩はオムライスが食べたいです!」

「てめえはもう少し立場をわきまえろ!」

一人で行こうと思っていた、スーパーの買い物も、ホームセンターも結局二人で見て回ることになった。

食費は当然二人分。部屋の家具も二人分で買ってしまった。一人暮らしの学生には、本当に手痛すぎる出費だ。さらに、買い物中は隣からあれもほしいこれも欲しいとせがまれるから、たまったものじゃない。

これからは外食なんてとてもできたものじゃない。一人暮らしを始めて数日で、早くも節約していくことを誓った。

「ねえ。私、隆司さんとは一緒にいたいけど、あんまり迷惑はかけたくないんです。だからせめて、これだけでももらってください」

最寄り駅を降りて家までの道のりの途中、片桐は突然そんなことを言った。見ると、手には一枚のお札が握られていた。

「やめろよ。お小遣いももらえない家出少女から、そんなのは受け取れないよ」

「実はお小遣いもらってます。だから、大丈夫です」

「嘘つけ。家にも帰ってないのにもらえる訳あるか!」

「ほんとです。今の時代、振り込みっていう便利な方法があるんですよ?」

「確かに、方法としては可能だけど……」

けど、あの親がそんなことをするのか?娘を気遣うような優しさを持ち合わせているようには思えなかったけど。

「逆、ですよ」

片桐は俺の考えていることが分かったのか、語り始める。

「あの人は、私なんてどうでもいいからお金をくれるんです。お金はあげるから、これで勝手に暮らしなさいって。勝手にのたれ死なれたら迷惑だからって。あ、本当はもう死んでるんですけどね☆」

「お、おう……」

こんな真面目な話をしているときにも、その“設定”は忘れないらしい。

「あの人は、どこまでも私のことなんてどうでもいいんですよ。私はこうして、何の迷惑もかけずひっそりと暮らすのが役割です。おかげで、なにもせずに最低限のお金をもらえているのでいいですけど」

つまり、一切の世話を放棄したということ。家出をしても暮らしていくお金がなければ、家に帰ってくるしかないけれど、そんな甘えすら許しはしなかった。

「えと、話が飛躍しちゃいましたけど、そんなわけで私は大丈夫なのでもらってください」

片桐はもう一度お札を握った手を差し出す。もう断る理由もないし、素直に助かるからお礼を言って受け取った。

「なあ、一つだけ教えてくれないか?どうしてお前は死んだんだ?」

片霧はいつ死んだのか。今日家を出る前に聞こうとした質問に近い問をもう一度ぶつける。今ならきっと教えてくれる気がした。

それに、これからしばらく一緒に暮らしていくなら、それくらいは知っておきたい。

「むう。相変わらず隆さんは性格が悪いですね。こんな断れないタイミングで聞くなんて」

「別に無理に聞きはしないけどさ。ただ、俺は片桐のことを何も知らないなって」

「だーかーらー、そういうところが卑怯なんですよ!そんな風に言われたら、話さないわけにはいかないじゃないですか」

わざわざ言いたくないことを言わせたくはないけど、様子を見る限り本気で嫌がってるわけじゃなさそうだ。

「私が死んだ理由、簡単にだったら教えてあげてもいいですよ?」

返事をする代わりに、片桐の顔を見つめた。目が合うと、片桐は少し微笑む。

「簡単な話です。私が死んだ理由は、みんなの中から消えちゃったから。ただそれだけです」

みんなの中から自分が消えるって、どんな感じなんだろう。どんな気分で、今片桐はそれを語ったんだろう。

さっき片桐の母親は、自分に娘なんていないと言い放ったけど、きっとそんな感じなんだろう。

誰かの心の中から自分が消えていく。それはきっと、とても怖いことだろう。

「ありがとな」

「なんで感謝してるんですか?」

「さあ、なんとなく?」

「隆司さんも、意外と変な人ですよね!」

けらけらと笑う片桐に、お前にだけは言われたくないとツッコみたい。

そんな話をしていると、気付けば俺たちのアパートの前まで来ていた。なんとなくアパートの前で二人立ち止まる。

本当はこのアパートには一人で帰ってくる予定だったのに、どうしてか片桐と二人でここにいる。

「これからよろしくな」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

こうして正式に、俺と片桐のよくわからない同棲生活が始まった。

この先どうなるのか全く分からないが、不思議と不安は感じなかった。



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