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6. 歩くこと ~Walking~ Ⅲ

【映画は長い間、わたしのために上映されていた。割れたスクリーンもいつの間にか元通りになっていた。わたしはスキップでもしたいような気持ちで、目に入ってくる様々な色を眺めた。大画面に映し出される赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。次々と交代していくカラフルな登場人物たち。この映画には主役も、脇役も、エキストラもいない。どこからが始まりでどこからがクライマックスなのか、誰にもわからない。監督も脚本家も皆それを意図して作っている。その事実を知っているのは世界中でわたしだけ。でもなぜって訊かれても、わたしには答えられない。そういうことになっているから。そうとしかわたしは言えない。わたしはこの映画を観続けるだけ。他にすることなんかない。わたしはこの七色の移り変わりを見守っていくだけ。それだけでわたしの心は、子宮の中に浮かぶ海のように時間を感じることなく、いつまでも漂うことができるの。

 スクリーンは青の色彩を映し出していた。わたしは空になったポップコーンのバケットを椅子の下にしまうと、映画の続きを観ていた。このシアターに来てからおよそ一週間はここにいるけど、映画が終わる気配は全くない。でも、わたしは何も困らなかった。上映時間なんてないほうがいい。むしろこのまま、一生ここに座っていたい。このシアターはわたしの身体の一部であるような気がするの。そうでなければこんな誰もいない場所に一週間もいられるわけがない。この映画館はそう、わたし自身そのものなの。

 突然、轟音がわたしの耳を貫通した。わたしは思わず両手で耳を抑えた。光が見えなくなったのは両目も閉じていたからだった。いったい、何が起きたのだろう。わたしは席を立って、後方の出口に向かった。走って向かう途中、濃い灰色をした無臭の煙がわたしの身体を包んでいるような気がした。

 スクリーンは紫の色彩を映していた。階段を上りきるとわたしはドアのところまで駆け寄り、取っ手を強く引いた。どうしたことだろう。ドアが開かない。わたしはもう一度引いてみた。やはり開かない。念のため、今度はドアを押してみる。しかし結果は同じだった。わたしは愕然とした。シアターの中は寒いのに全身からは汗が噴き出していた。これは信じられないことだ。わたしは出られなくなってしまった。誰もいない世界の隅っこで独り取り残されてしまった。軟らかくなった脳味噌が自分の頭の上でダンスを踊っているような気がした。焦りの水を撒き散らしながら、わたしを惑わす踊りを舞っているような気が。

 訳が分からない。いったい誰がわたしを閉じ込めたのだろう。いったいわたしが何をしたというのだろう。わたしはここで映画を観ていただけ。色彩の情景を心の中で描いていただけ。それなのに、どうして。どうして……。

 わたしは発狂した。スクリーンに映る色彩の数はもう七色ではなくなっていた。】


 彼は跳ね起きた。身体が汗でぐっしょりと濡れている。視界はぼやけ、視線はまるで海を漂う振り子のように揺れていた。元通りになるのを待ち、ようやく陸地に上がってくると、彼は自分が西洋風のベッドにいることを知った。彼は辺りを見渡した。壁は木造、密閉空間。そう、自分は部屋の中にいるのだ。事実を知った彼は焦りながらも、これまでの行動を順に振り返ってみることした。宝石、荒野、谷、洋館、老婆、草原、コンクリート、そして最後に、トンネル。そして自分は光を見つけたのだ。長くて暗いトンネルの出口にたどり着いたのだ。そのあとは…… 分からない。そこで記憶は途切れている。いったい自分の身に何が起きたというのだろう。

 彼が寝ていたベッドはまるで王女が毎晩入って夢を見ていたような高貴な作りをしていた。

 その時、カーテンを開ける音が彼の耳元を撫ぜた。彼は瞬きを繰り返すと、ベッドの外へと出た。とにかく、自分の置かれている状況を早く把握しておきたかった。

 声は真空上に流れた初めての風のように、透明ですき通っていた。

「あれ、もう起きたの?」

 声をかけられ、彼は心臓を激しくノックされたように驚いた。自分に声をかけたのは明らかに目の前にいる女性だった。寝室の窓を開けながら、こちらに目線を向けている。

「おはよう。外はもう朝だから、そろそろ起きた方がいいわ」

 彼は目を見開いたままコクリと頷いた。頷いている一瞬の間に、彼の理解の解析率は、今までのものとは比べものにはならない早さで着々と進行していた。分かったことは、自分はベッドの上で長い間寝ていたことと、この家の壁はヒノキで作られているということ。そして、目の前の女性は今後自分の旅において深く関わりを持つことになるであろう、ということだった。

 彼女は、頷いた彼のその哀れな姿を確認すると、次に窓の外へと目を向けた。外の景色は緑一色となっており、庭のようにも森のようにも見えた。

「窓の外って綺麗でしょう。あなたもそう思わない? 色彩の輝く美しい世界」彼女は目の前の緑色に指を差しながら言った。

 彼はもう一度頷いた。彼女と目線が合っていないがこうするしか今の彼には意志を伝える術がない。仕方なくやったことだが、やはり彼女は彼の首の動きを見てはいなかった。

 彼女は彼の返答など期待していないような感じだった。とにかく眼前に映る雄大な景色を見てくれ。彼女がそう言っているように彼は思えた。彼は彼女のその無言の訴えに応えようと、彼女の隣に近づいた。そして窓をスクリーンとした緑のパノラマを自分のものとした。


 森一帯を覆うほどの大きな翼を持った鷹が、地上の兎に眼光を向けていた。狙った獲物は逃がさないという言葉をどこかで聞いたことがあるが、まさにこういうことを言うのだろうと彼は思った。空を舞う鷹が兎を捕らえようと急降下を始めたとき、彼は鷹から視線を外した。食物連鎖の現実は眺めていてもあまり気持ちの良いものではない。森の奥を進んでいくと古風な作りをした城があった。(窓の外を見ていただけだが、彼は本当に進んでいたのだ)城といっても、童話に登場するような豪奢を極めたものではなく、レンガの積み重ねに荒さが目立つような風化の見える建物だった。多くの木々に囲まれているせいでよけいに廃墟らしさが表に出ているような気がする。しかし、その城に彼は美の感情を抱いていた。彼自身もなぜこんなものに美を感じるのかは不思議に思っていたが、同時に新たなる感情の鉱脈を発見したような気持ちにもなっていた。この古びた建物に何かしらの美的感覚を見いだせることは、彼にとって素晴らしく刺激的なことだった。それは絵画を鑑賞しているときや、宝石のように煌めく夕焼けを眺めているときに感じるそれとは全く別のものだった。

 城の向こうは川になっていた。多くの木々が川の冷たさに浸かるようにして植えられていた。「元の世界」に例えるならアマゾン川が適しているような気がした。アマゾン川には行ったことがなかったが、学校の教科書で写真としてなら見たことがあった。

 広大な流域面積をもつ川を一人で渡った。それはすでに眺めているというよりも、窓の景色を通して夢と現実の狭間にある世界の全域を見渡しているという感じだった。彼自身の身体はこのジャングルを見下ろす形で数十メートルほど浮いていた。彼は地上を展望しながら、この川に「逃避」の文字が浮かんでいることに気がついた。彼はそれを見つけた途端、思わず目をそらした。川に浮かぶ逃避がまるで溺死体のように見えたからであった。彼はその二文字をすぐに忘れて先へと進んだ。

 木々が見えなくなると次に現れたのは海だった。パラレルワールドに存在する海は、予想通り地球と何も変わりがなかった。宇宙の末端まで広がるかと思わせる青い絨毯や、そこに佇む冷たい喪失感。空が晴れていないことも相まって眼下にあるその蒼色はまさしく冬の海そのものだった。逃避が浮かんでいる姿を目撃してしまったせいか、ブルーシートを連想してしまったのは災難だった。

 海を眺めるのに飽きると、彼は何も考えずに「向こう」を目指した。なぜ自分が空を飛んでいるのか。なぜ窓の外を覗いただけで、身体が駅のオートウォークのように進み始めたのか。まだ解決していない謎が沢山あるのに、新しい謎は次々に増えていく。彼はそれを非現実世界という言葉で解釈するようにしていた。深く考えすぎるのは大切なことだが、やり過ぎれば危険が伴う。トンネルのように限りない闇がたちまちにして心を覆う。それは彼が最も恐れていたことであり、過去に経験していたことでもあった。

 力を失くした太陽が海を照りつけた。彼は遠くの景色に何かを発見した。それは黄金色をしていて、ここからでも眩しく光っているのが確認できる。おそらくあそこまで行けば陸地に辿りつけるのだろう。彼はオートウォークの上に立って歩くこともせず、自然と身体が陸地に到着するのを待った。それはまるで次のパビリオンの展示物を想像しながら、屋根付き道路を移動する万博の来場者のようだった。


 街が徐々に大きくなるにつれ、彼の心は高揚感と熱意の湯で一杯になった。左心房から湧き出たその湯は彼の体温を軽く超え、細胞同士を隔てていた細胞膜を突き破り、身体全体を包み込むようにして真っ直ぐ進んでいた。光にも似たその熱湯が彼の邪念を貫通したとき、彼の内部を支配していた王国は今にも革命の時を刻まんとしていた。

 黄金の街はさらに近づいてゆく。それと同時に彼の上空遊覧も終わりを迎えようとしている。彼は直立の姿勢になって身体が街に沈んでいくのを傍観的に見ていた。自分の旅は新しい局面へと移動している。彼は本能でそれを感じ取った。この街で、自分はどう変わっていくのだろう。この街で、自分は何を得るのだろう。この街で、自分は何を求めるようになるのだろう。ただひたすら海溝へ。ただひたすら海溝へ、海溝へ。

 もう街は触れられるところにまで来ていた。彼を覆っていた光の湯はどんどんと熱くなっていった。何かに導かれることもなく、熱は確実に自分の意志で動いていた。それは大地を駆け抜ける光そのものだった。自分がこれまで目にしてきた、完全な光そのものだった。

 光が彼の顔を覆い、それが眼球にまで達したとき、彼はいつの間にか涙を流していた。恍惚とした感情が景色と合体し、そのまま動くことがなかった。なぜこの偏りのない自然的な街に興味を惹かれたのか。はっきりと言葉に表すことができなかった。街が黄金というだけで、特に芸術的な何かがあるわけではない。しかし、彼は感動していた。自分の中にある未知なものへの恐れや、怯えなどは消え失せ、ただひたすらにユートピアと言う名の毛布にくるまっていた。その毛布は彼の自宅にあるような人工的なものに比べて、ずっとずっと心地良いものだった。だが、快適であるにも関わらず彼の中の怠惰の感情は一つも芽生えなかった。自分は誰かに導かれているのだと道の途中で思ったことがあったが、今の彼にはそんな説はすでに虚構の扱いでしかなくなっていた。目の前の光は自分の追い求めていたものだ。自分はそれに触れたいと思っている。それだけなのだ。今の自分にはそれだけでいいのだ。

 体は未だ降下を続けていた。彼はこの時間が永遠に続けば良いと考えていた。彼は涙を拭いた。すでに光となった、滾々と湧き出る湯水は、彼の脳天にまでその勢力を拡大していた。革命はすでに仕上げの段階に入っていた。新興勢力が全ての州に言論統制を呼びかける頃、彼の精神も新たな波長を産みだしていた。それは生き物であれば大抵が手にする普遍的な能力だった。そしてそのアビリティは彼が最も手にしたいものの一つだった。追求していたそれを自分のものにし、彼は再び人間に近づくことが出来た。

 欲しかったもの。それが本来の姿となって彼の口から溢れ出るようにしてこぼれていった。もうそれを喉に戻すことは出来なかった。

 黄金の街と、沈みゆく橙色の陽。それを前にして彼は慣れない状態で唇を動かした。

「う、つ、く、し、い……」

 その瞬間、一滴の涙がコンクリートの地面に落ちた。



【He began to run.

 I sing in a place unrealistic.

 Gorgeous colors went away and leave me.

 He began to run.

 I sing in a place unrealistic.

 Gorgeous colors went away and leave me.……


 声が聞こえて、頭の中でリフレイン。


 He began to run.

 I sing in a place unrealistic.

 Gorgeous colors went away and leave me.

 He began to run.

 I sing in a place unrealistic.

 Gorgeous colors went away and leave me.……


 まるで古いレコードを掛けたように、私を誘う……。


 He began to run.

 I sing in a place unrealistic.

 Gorgeous colors went away and leave me.

 He began to run.

 I sing in a place unrealistic.

 Gorgeous colors went away and leave me.……


 それは神秘な出会い。次に沈黙。最後に暴走。あなたにページの裏を見つけてほしくて。】


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