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4. 歩くこと ~Walking~ Ⅰ

【夜のない街で、わたしは歌い続ける……。

 家の前の大きなガーデンには、わたしを守ってくれるものがたくさんある。二カ月前にお城の前で拾ってきた大きなブルドッグ。わたしが産まれる以前からそこに咲いていた花。そして、わたしの目の前で休みことなく踊り続ける黄緑色の草原。みんなわたしの宝物。みんなわたしの心そのもの。この庭はわたしの領土。つまりは独立国家。法律も、憲法も、立法も行政も司法も、みんなわたしの言葉で決定されていくの。そう、それこそが理想郷。わたしだけが知る自分自身のためのワンダーランド。

 メロディーラインが一番盛り上がるところにきた。わたしがそれを歌うと、草花が揺れた。わたしの唄にはこんな力がある。わたしの声帯から産まれたさまざまな旋律は、見えないものから触れられるものへと変わっていき、やがては大きな塊となる。その塊はいつかわたしの目の前ではじけて熱を帯びる。それこそがこの唄の完成形。無垢で完全なわたしの希望となる。

 だけど、それはまだ出来ないこと。今の実力では、たとえ上手くいったとしても可能なことは限られている。そのことはわたし自身が一番良く知っている。夢物語の内容はいつだって不可能なもの。でも、口を動かして人々に伝えることならできる。それが出来ないなら心の本棚にしまって、大切に保管しておけばいい。読みたくなったときにはすぐにそこから取り出して、誰にも邪魔されない場所でゆっくりと黙読すればいい。


 わたしの胸にダンベルが乗っかった。別に寝そべっているわけじゃない。どうやって乗せたのかはわたしにも分からない。地面に座る人間の胸に、鉄の塊を乗せる方法。それを可能にさせる方法は一つしかなかった。


 黒い帽子に黒いスーツ。そして黒いサングラス。その漆黒さは星のない夜に烏賊墨をぶちまけたような実に奇妙で完全な黒だった。尖った爪で擦ったらすぐに白が現れるような弱い黒ではなく、永遠に目を強くつむったような、厭な黒だった。

 奴は男の姿をしていた。石膏で固めたような変化のない表情は、わたしを恐怖と戦慄の檻に幽閉させるようにも思えた。指示したつもりがないのに、身体はいつしか震えていた。異国の映画にこんな人物が登場する作品があったような気がした。目の前の男と同じく、黒い帽子に黒いスーツ。そして黒いサングラス。

 わたしはその作品のタイトルを必死に思い出そうとしていた。記憶を辿って脳を動かせば、この恐怖も少しは軽減されると思ったからだ。わたしは近づいてくる男を認識せず妄想の世界へと視線を向けた―――


 そう…… ここは映画館。わたしはそこに立っている。映画館はデパートの四階にあるようなひと気の多いシアターで、辺りはポップコーンの匂いに支配されている。そこはまさに既存の常識とはかけ離れた非日常的な空間。そんな場所でわたしは座席に腰かけ、映画の予告を観ているの。数分前に購入した、バターたっぷりのポップコーンを頬張りながら。

 退屈にも繁忙にも感じられない微妙な感覚に耐えながらも、何とか予告を観終わると、とうとう映画は始まる。不思議なことに喜びはない。どうしてなのか理由は定かではないけれど、とりあえず今言えることは、わたしは映画の内容を確認しにここに来ているのではなく、映画の予告を観賞したいがためにここに座っているのだということだった。わたしは本編のことよりも予告の方を楽しみにしている気がする。これを結論と言ってしまえばそれまでだけど、完全にそうとは言い切れない何かが自分の中にあるから、これは結論じゃなくて仮説という枠に収まることになる。

 ときどき、映画の内容よりも予告の方を覚えている時があるの。それは観た映画がつまらなかったからとか、ポップコーンを食べるのに夢中で上映していることに気が付かなかったからとか、そんなものじゃない。予告のそれには、わたしが手にするべき情熱と高揚感が混じりけのない姿で備わっているような気がする。それは予告を目にしたときの興奮であったり、熟された果実に含まれた独特の旨みであったり、ミキサーにかけたフルーツを一気に飲み干したような爽快感であったり、過冷却の水が一気に氷になったりといろいろである。映画の予告にはそれが凝縮された、刺激的で充実感に満ちた特別な時間であるとわたしは思えて仕方がない。


 何者かがわたしの肩を叩いた。わたしは振り返った。しかし、後ろには誰もいない。気のせいかと思って、再びスクリーンの方に目を戻すと、流れていた映像はすでに黒一色となっていた。

 わたしは身に危険を感じ、急いで退席しようとした。しかし時すでに遅し、五百インチのスクリーンは誰にも救われることなく、無音のままに砕け散った。

 わたしは悲鳴をあげることもなく、茫然と立ち尽くしていた。妄想の渦に石が投げ込まれ、たちまちにして流れは停止した。わたしはずっとそこにいたかったのに……。

 黒いスーツに黒いサングラス。奴がわたしの信じる真理を破壊したの。これは真実。現実。わたしの求めていた理想とは根本的に異なるもの。

 奴はわたしに握手を求めてきた。右の手だった。混乱で視界は星屑が浮かんでいるわたしには、その行為の意味がはっきりとは分からなかった。だけどわたしはひどく恐れていた。この右手にわたしの左手を結合させることはアイデンティティの崩壊、すなわち自分が自分でなくなってしまうことを意味しているような気がした。

 わたしは椅子に座らせられた。この着席は先ほどとは違って自主的ではない。圧倒的な恐怖感を使った、あまりにも強引で強制的なもの。抵抗する間もなく、わたしはそこに縛り付けられた。単なる欠片の集合だった映画のスクリーンは誰がやったのか修復を遂げていた。五百インチの画面に映し出されたのは、わたしが最も恐れていて危険なものだった。目を閉じたくてもそれは出来なかった。まるで脳と眼球に繋がる神経が一気に切断されてしまったかのようだった。近くにあった血管は大丈夫だろうか。もし血管も犠牲になったのだとしたら、わたしの眼球は温もりを失い、やがて腐敗していく。わたしの眼は魂を抜き取られたように、呆気なく滅びてゆく。

 視界の光景は常に光り続けていた。わたしはそれを見続けながら徐々に心が変化していくのを第三者の目線から客観的に見ていた。それはまさしく、悲劇の始まりだった。

 わたしが何をしたというのか。わたしはただ歌っていただけなのに。草花が風に揺れるのをただ眺めていただけなのに……。

 星屑が流れ星に変わって、わたしの手に堕ちた。助けを求めた小さな口はいつしか塞がれていた。沈黙のシアタールーム。わたしはずっとそこにいた。わたしは永遠と錯覚するほどの長い時間、映画を観ていた。何も変わるはずがなかった。変わるための力なんてどこにもないと信じていた。

 そう、あなたが来るまでは……。】



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