3. 知ること ~Knowing~ Ⅱ
「よく……来たね」
声を聞いて、彼は瞬きを繰り返した。普通瞬きを繰り返すような驚嘆表現はよほどのことがない限りしないものだが、彼にとっては今起きているこの事態こそがまさに「よほどのこと」だった。
彼は二本の脚を動かし、部屋の中に入った。門の向こうの世界は意外にも鏡で出来ていた。後ろが門であることを除けば、左も右も奥も床もそして天井も全て鏡に覆われていた。全方向に自分の分身がいて、まるでトリックアートのようだ。鏡が作りだす魔術のせいでこの部屋の性格な広さが掴めない。
彼は立ち止って、辺りを見渡した。彼に声をかけた主は青年から見て部屋の左側にいた。主の正体はなんと老婆だった。椅子に腰かけ、毛玉を膝に乗せて編み物をしていた。椅子は学校に何百も置いてあるような普通の椅子とは違い、前にも後ろにも安易に揺れることができるようなタイプの椅子だった。彼はその椅子の正式な名前は分からなかった。分かっていることは、ここは鏡の部屋だということと、老婆が待ち設けた眼差しでこちらを見ている、ということだけだった。
「よく来たね」
老婆は再度同じことを言った。言葉の抑揚から自分は呼ばれているような気がしたので、彼は老婆の方へ歩み寄った。
近づいてみると、その老婆はひどく痩せこけているように見受けられた。ここには冷蔵庫の類は見当たらないから、どのように食料を調達してくるのか気になった。もしかしたらこの老婆は自分が門を開けるまで、ずっとここで編み物をしていたのだろうか。自分がここに来るのを待っていたのかもしれない。そう思うと彼はひどく申し訳ない気分になった。
老婆は毛玉と編んだ繊維。そして二本の棒針をガラスの床に置くと、目の前に立つ彼をじっと見つめた。穏やかな眼差しだったが、彼の心臓は早鐘のように鳴っていた。
「あんたが初めてなんだよ。ここに辿り着いたのは」老婆はゆっくりと落ち着いた抑揚で言った。彼は頷いた。
「椅子でも用意できればいいんだけど、生憎ここには椅子がこれしかないんだ。すまないけど床に座ってもらえるかい」
彼は迷った。出来ることならずっと立っていたかった。実をいうと、彼はまだ老婆のことを完全に信じてはいなかったのだ。
「大丈夫だよ。床は清潔だ。ジーンズが汚れるようなことはないよ」
どうやら老婆は彼が床を汚いと思い、座るのを躊躇ったと勘違いしたらしい。失礼な態度をとってしまったと彼は反省した。今度は老婆の言う通り、鏡の地面に座る。
「さて、と」老婆はもう一度、彼の目を見つめた。
「まずは声を出してごらん。門を開けるとき、マスターからの声を聴いただろう。あんたはそのおかげで発声の能力を身につけたはずだ」
老婆は微笑んだ。しかし彼はその言葉の意味がよく理解できなかった。首を傾げてそれを表現すると、老婆は悲しげな顔をした。
「そうか。記憶が完全には戻っていないんだね。多分予定より早くここに来てしまったんだろう。それはそれで優秀な証拠だ」
どうやら褒められているらしい。しかし彼は嬉しい気持ちにはなれなかった。脳に巣くう混乱の泡があまりにも大きすぎて、安易に喜べる状態ではなかったのだ。
「大丈夫。あんたは他の材料よりも高性能なんだ。声帯を震わせて、歌うようにして出してみなさい」
そう言われても、彼には声帯というのがどういうものか知らなかった。声帯という言葉そのものは記憶にあったものの、それの用途については、完全に過去のものとなっていた。彼は露骨に困った顔をした。
「ううむ。やはり時間が経たないと駄目なのか……」
彼女は眉間にしわを寄せ、床に置いた裁縫道具を拾った。
声を出せないと言われても、彼は特に落胆しなかった。彼が知りたかったのは声ではなく別のものだった。
彼は左手にある銃剣を老婆に見せつけるように高く挙げた。彼女は裁縫を再開していたが、それをみるとすぐに中断した。
「これのことかい?」老婆は銃剣を指差した。彼は頷いた。
「この門に入ってくるときにそれが役にたっただろう。ああいう風に使うんだ。あんたが旅をするうえで唯一頼りになる道具だよ」
そう言うと老婆は再び裁縫を始めた。期待していた答えでは無かったので彼はがっかりした。他にも訊きたいことが沢山あったが、今の彼は声を出すことができず、また字を書けるような物もなかったので質問は出来なかった。
自分はこれからどうすればいいのだろう。どの道を行けば正解なのか、この旅の終点はどこなのか。そもそも自分が旅をしている理由はいったい何なのだ?
二度も耳にした、透き通るような歌声。老婆はあれを「マスターからの声」と言っていた。マスターとは誰なのか。自分が旅をすることになった全ての元凶なのか。だとすれば自分がここにいるのも、老婆が椅子に座って編み物をしているのも、何もかもそいつのせいなのか。彼は分からなかった。これでは森を散策するオリエンテーリングに方位磁石を忘れてきたようなものだ。北も南も分からない。そもそも自分が森にいる理由も知らされていない。こんな状態で何ができるのだろう。自分はパラレルワールドという森に取り残された遭難者そのものだ。
彼は老婆の目をじっと見つめた。裁縫に夢中で彼女は彼を見ていないようだった。しかし老婆は彼の意志を感じたのか、彼の目も見ずにこう言った。
「私に言えることはこれだけなんだよ、とはいってもあんまり役に立たなかったみたいだけどね。ここは単なるチェックポイントなんだ。私はあんたが持っている用紙に判子を押すだけ。それだけなんだ」
老婆が何を編んでいるのか最後まで分からなかった。彼は立ち上がると鏡の空間の奥へと進んでいった。部屋は彼が思っていたよりもずっと広いつくりをしていた。しばらく歩いた後、彼が後ろを振り返ったときには、もう老婆の姿は見えなくなっていた。
もう少し歩くと彼は壁にぶつかった。鏡が部屋中に張られているせいで、壁の存在が判断しづらい。彼は打った頭と鼻をさすり、鏡を睨みつけた。そのまま長い間凝視したおかげで彼はあるものを発見した。とはいっても、特に見新しいものではない。つい二十分か三十分前に目にしたものだ。
鏡にドアノブがついていた。木製の丸い取っ手だ。薄いベージュの色をしていることからヒノキが使われていると彼は推測した。彼の心が僅かに踊った。ヒノキで作られた物は大抵好きだ。ヒノキの壁を撫でた時のあの滑らかさは他のどの材質にはない温かみがある。
ドアノブの前に来ると、体中が熱を帯びてくるのを感じた。恐らく緊張のせいだろう、と彼は思った。一度は解答用紙に書き込もうとしていた間違った答え――― 「ドアノブ」である。テストが終わったと安堵していたら、寸分の後に次の用紙が配られてくる。彼は芯が丸くなった鉛筆を手にし深く考え込む。A4用紙に印刷された黄金比の四角は、彼を迷いの渦へと誘い込もうとする。その誘導尋問のような緊張感が、彼の手を激しく震わせているのだ。
彼はそのまま動かなかった。握りしめた鉛筆は、あとすこしの弾みで手からすべり落ちていきそうだった。このままではいけないと頭では分かっていても、自分の右手はテスト用紙の上で踊り続ける。彼はそれを客観的な目線で傍観するしかなかった。
沈黙が続く。彼はあらん限りの力を出して、無力という魔物と対峙した。互いに何も話さぬまま、拳を振るうこともなく時間だけが過ぎていった。彼は体を動かさず、その魔物とひたすら、にらめっこを続けていた。数分か、または数時間か経ったところで魔物は急におじけづき、地面に身を伏せた。
部屋には静寂だけが存在していた。
動けるようになると、彼は迷わず右手でドアノブを握った。躊躇するための障害物は全て除去されている。もう迷うことはないのだ。彼は自分に言い聞かせた。
滑らかなそれをゆっくりと回した。待っていたのは鏡からの脱出、降り続く雨からの解放。そして、光だった。
彼は再び歩き始めた。




