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2. 知ること ~Knowing~ Ⅰ

 山脈の冷たい肌は、彼の疲労感をさらに増幅させた。昼夜を問わず走り続けた人間が、こんな単なる山登りで疲弊するというのは、いささか不思議なことだが、彼の心の中ではすでに見当がついていた。ここは荒野の時と違って、空気の質が違うのだ。澄み切ったというより、自然に穢れているという感じだった。彼は宝石の山で目覚めたときから、ずっとその色の空気を吸ってきた。だから山脈に入ってからは、うまく体をコントロールできなくなっていた。

 山脈の空気は無色透明だと彼は思った。彼はその空気を吸うことに苦痛を感じていた。しかし暫くはこの山脈の道と付き合っていかねばならないため、不満を言っているのも今日限りにしなければならなかった。次々と変化していく環境にすぐさま順応できる体を作らなければ、この世界では生き残れない。まるでペルム記の大量絶滅のように。弱い者が遭遇する運命は、今も昔もただ一つしかない。

 東に進んでおよそ七日経つ。記憶の方は日が経つにつれ、着々と取り戻しつつある。しかしこの旅の目的についてや、宝石の山より以前の出来事については全く思い出すことができなかった。だが別に焦燥に駆られているわけではなかったので、記憶についてはこれ以上考えることはしなかった。

 パラレルワールド。詳細不明の地で、自分があえてここを名づけるとするならば、この程度の言葉しかなかった。小屋のテーブルにあった手紙を見るかぎり、文字は地球のものだ。いま自分が生きているということは、酸素も二酸化炭素も存在するということだ。とすれば、やはりここは地球なのだろうか。どこか知らない異国の地に飛ばされただけだろうか。

 疑問が次々と浮かんだ。あんな大量の宝石をどこから集めてきたのだろうか。自分が旅を始めるきっかけとなったあの声は何なのだろうか。手紙を書いたあの匡胤という人物はいったいどこに消えたのだろうか。こんなシャボン玉のような謎を、自分は苦悩しながら考えていくしかない。思考から逃避するためには「ここはパラレルワールドなのだ」と決め込んで頑なに信じることだ。そうすればそれらの疑問は簡単に指で潰せるものになる。

 冷たいものが右手の皮膚を撫ぜた。彼はとっさに上を見た。心が安堵に包まれるのが分かった。


 雨。


 しきりに降ってくるその雫を彼は口に入れてみようとした。顔を空に向け、天に自分の存在を呼びかけるようにする。たちまちにして水滴は体に入っていき、すぐに無くなってしまった。別に大きな目的があって雨を飲み込んだわけではない。難しいことが多すぎて、頭が混乱していた。体に合わない空気がいつしか、彼をそんな精神状態にしていた。

 孤独を埋める物思いが自分の人間性を奪っていた。旅を始めてすぐに気付いたことだが、食欲というものがまるで無くなってしまっている。最初は欲する気がないというだけで、体の機関は未だに栄養を求めているのだと思っていた。そのため近くに果実でも見つけたらすぐに食そうと決めていたのだが、すぐに忘却してしまい、今日になって再び思い出したときには、すでに一か月もの時が経っていたのだった。自分は一体何ものなのだろうか。人間のようで、人間ではない。彼の心は、冷たい山脈に流れる風のように凍えていた。

 彼を慰めていた雨粒が、だんだんと慈悲をかけぬようになってきた。急須で入れたお茶の最後の一杯のように、深く濃い色のする何かが彼を精神的に押しつぶしていた。永遠に止みそうにもない雨が彼を再び走らせた。

 しばらく彼は駆け続けていた。五分程走り続けているのに、呼吸が乱れはほとんど感じない。分かりきっていたことだったので、彼は今さら驚かなかった。思えば荒野の時から自分が人間でなくなっていることに気付くべきだったのだ。あの時は、何か特殊な力でも身についているのだと思ってさほど気にしなかった。食欲のことも踏まえれば自分の非人間説は、また一歩立証に近づいたということになる。濃くて苦い緑茶が、排水溝を流れない黄色い痰に変わった。

 そんな負の感情も彼は振り払い、雨から逃げることに神経を集中させた。人間性を失った自分と、人間性を失いたくない自分との戦い。その奮闘ぶりに天の神は感心したのか、彼はとうとう遠くの景色に一つの建物を見つけた。彼は思わず立ちどまった。


 山と山の間。川の見えない谷に建っているのは、柵に囲まれた廃れた洋館だった。彼は興味本位で近づき、その建物をまるで後から設計図にでもするかのようにじっくりと眺めた。屋根は紫色。そこから下の壁は白色になっている。ところどころに黒いすすのような汚れが目立ち、四×四の正方形を作るように並ぶ窓ガラスもほとんど砕け散っていた。異様な存在感を見せるその洋館は、雨のシチュエーションも相まって、まるでドラキュラ城のようであった。

 彼は入ってみることにした。ずっと山沿いの道を歩いてきたので、休める場所が欲しかったのだ。それにこの家は理由なきに建っているのではなく、何か意味があってここにあると彼は思った。そうでなければ、こんな険しい場所に家など建てない。

 彼は柵の前まで近づいた。背を低くして、まるで城に忍び込もうとする忍者のように柵まで接近した。柵は鉄製だった。当然、その鉄は錆びている。入って良いものか、彼は判断に迷った。門の前に来ると、不気味な洋館はさきほどよりも大きく見えた。怖くて体が顫動(せんどう)したが、だからといって素通りも出来ない。有り余る好奇心に勝てるほど彼は賢明ではなかった。その好奇心と左手に備え付けられた安心感を盾に、彼は一歩ずつ前進していった。

 そしてとうとう門の前までたどり着いた。門もこれまた鉄製で出来ており、意外にもゲートは開いていた。罠かもしれないと彼はいぶかしんだが、好奇心に背中を押され彼は敷地の中へと入った。地面はコンクリートで出来ていた。

 門から洋館との距離は数メートルほどだった。彼は少々腰を低くしながらも、ずんずんと進んでいった。彼は黒いジャンパーのようなものを羽織っていた。すでにそれは雨でぐっしょりと濡れており、とても重かったが彼は我慢した。 

 敷地に入って数秒、彼は建物の入り口にたどり着いた。ドアにはステンドグラスがついており、ドアに赤、青、黄の彩色をつけている。下にはペットドアもついており、この家の主人は動物を飼っていたことが分かる。家の壁もそうだったが、ドアの方もやはり小さなすすの汚れが目立っている。

 ドアを観察しながら、彼はふいに今まで考えていなかったことを考え始めた。それはこの家には人間が中にいるかということだった。最初この洋館を見た時には、もう主人に忘れられた廃墟の城とばかり思いこんでいた。その思いを背に彼はここまで歩いてきたが、いざドアの前まで来ると、本当にこの建物が無人なのかそれとも人が住んでいるのか迷いだしてしまったのだ。

 雨は一向に止む気配がない。彼はなぜか焦りを感じた。一刻も早くドアを開けるか、ここを立ち去るか、どちらかの選択を迫られている気がした。彼は頭の中でこれを反芻した。冷たい風が門を抜けて吹き込んでくるが彼はまったく気にしなかった。それは考えごとに耽っていたからであり、彼の体の大部分はすでに非人間的なつくりになっていたからでもあった。

 自問自答の繰り返しにそれほど時間は掛からなかった。彼は何かを見つけたような顔をして、ゆっくりと目を閉じた。光が彼の認識の世界から脱出すると、彼は目を閉じたまま右手で細長い取っ手を掴み、風が部屋の中に極力入らないことを意識しながら重いドアを少しずつ開けた。十分に自分の体が入るくらいの空間をつくると、彼は建物の中に入った。この間、彼は光も雨も見ていなかった。

 完全に彼の体が洋館の中に入ると、後ろでステンドグラスを張り付けた扉が大きな音をたてて閉まった。その音を聴いて彼は、もうこの洋館から永遠に出られなくなるかもしれないと思い始めていた。


 目を開けた理由は、現実を見ることよりもさらに驚異的な感情が、彼を襲ったからである。彼は何も臆することなく特定のリズムを刻むように進んでいった。洋館の中でまず印象に残ったのは「本」だった。廊下をずっと歩き続けても、辺りに見えるのは木製で作られた本棚しかない。しかもその本棚は横や縦に綺麗に並べられているのではなく、思いつくままに置かれたという感じだった。視界にちらと見えた部屋には、きちんと碁盤の目のように設置されていたが、ある部屋ではまるでバツ印を描くように本棚が置かれていた。彼が歩く廊下の道を塞ぐようにして置かれていた物もあった。

 しかし彼は本棚のことをあまり気にせず、先に進んでいった。木造の棚よりも、もっと重要なものが近くにいる気がした。「ある」ではなく「いる」だった。彼は生命を宿している何かの存在を感じ取っていた。

 視線の先に大きな扉が見えた。彼は最初それが開閉できる物体だとは思わなかった。紫がかった光沢が見える、豪華絢爛な壁だと思っていた。それが扉だと認識できたのは左右の板にドアノブがついていたからである。立ちふさがる壁が実は扉だったと知っても、彼はすぐに認めることができなかった。理由は扉の大きさにあった。この建物は天井がまるでサグラダ・ファミリア教会のように突き抜けているのだが、扉はその天井に届くようにして、威嚇するように建っていたからである。扉の高さは少なくとも十メートルはあるだろう。彼の経験と記憶を辿ってみても、これほど大きな両戸は見たことがなかった。彼は歩きながら圧倒されていた。そのせいで頭の中は壁一色になっていた。

(いや、これはもう扉でも壁でもない。門だ。愚かな侵入者を地獄へといざなうための無慈悲な門だ)

 彼はそう感じたが、恐怖で引き返すわけにはいかなかった。二本の脚は一向に動きを止めることはない。まるで門の向こうにいる誰かに操られているようだった。彼は抵抗出来なかった。こんなとき恐れに打ち勝てるのは、やはり好奇心である。門のあちら側にいる誰かを必死に想像し気を紛らわせた。何もまだ、地獄への入り口だと決まったわけではない。

 張りぼての好奇心がついに限界まで達したとき、ようやく彼は門の前に到着した。苦労することは何一つしていなかったが、彼の精神は半ば疲れをみせていた。自分はドアを開け中に入って、廊下を歩いただけだ。特別なことはしていない。それなのにどうして、身も心も重くなってしまうのだろう。

 取っ手は丸く、所々に赤錆が住み着いていた。この洋館自体すでに廃墟のようなものだから、ドアノブが錆びついているのは何ら不思議なことではなかった。彼はさっそく、先ほどから見えていたドアノブに手を触れようとした。しかし彼は、衝動的に危険を感じ急いで右手を引っ込めてしまった。

 彼は冷静な頭になって再度考えてみた。第一、こんな小さなドアノブで高さ十メートルの門を開けることなんて出来ない。初めて目にしたときには、壁と見間違えたのだ。彼は頭の中でこの取っ手を掴んで門を開く光景を何度も何度も想像した。しかしどれだけ成功する可能性を考慮しても、うまくいかない確率の方が高い気がした。この円形で銀色に光る「それ」には、何かしらの脅威が潜んでいると彼は感じていた。

 名前を持たぬ一人の青年は、目の前の門を疑いの目で見つめた。しばらくすると、ある変化が起こった。左の板と、右の板のちょうど境目となる縦の線に、横一文字の亀裂が入ったのだ。彼は呆気にとられて後方を振り返った。しかし本棚に囲まれた冷たい廊下には誰一人としていない。彼は目線を再び門の方へと向けた。今度はドアノブではなく、亀裂を凝視した。傷つけられた門が、彼のすぐそばに建っていた。彼はその傷を確認し、次に左手の奇妙な武具に視線を移した。論理的といえば嘘になる。だが試してみる価値は十分にあった。

 彼は左腕を伸ばし、頭の高さにある亀裂に自分の剣を差し込んだ。成功するかは分からない。しかし彼には大きな確信があった。これは、自分を含めた大勢を篩にかけるための一つの試験なのだと思う。正確な方法を自分で見つけ出し、扉を開ける解答を見つける。根拠はないが彼は直感でそう思った。

 宝石の山からスタートした、自分の旅。振り返ってみればこの左手はこれまで全く使うことがなかった。そして一か月、ついに彼はこの剣の存在意義を知ることが出来た。この武器は自分の旅の意味、そして正確なルートを見つけるための便利アイテムなのだと彼は思った。自分は乗り越えるべき一つの試練を攻略したのだ。

 左右の門が離れていき、光が漏れ始めた。彼は剣を亀裂から抜いた。眩しさの代わりに門の向こうから音が聞こえてきた。同じメロディーを何度も何度も繰り返している。彼はそれに聴き入った。音を聴くのはこれで二回目だった。


 He began to run.

 I sing in a place unrealistic.

 He began to run.

 I sing in a place unrealistic.……


 光が消えるのを確認し、彼は部屋の中に入った。


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