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第1話 白鷺六花は嘘をついている。

 春は…嫌いじゃない。


 新しいクラス。


 新しい教科書。


 新しい担任。


 何かが始まるような空気は、少しだけ気分を軽くしてくれる。


 もっとも、その「何か」が実際に始まったことなんて、今までほとんどなかったけれど。


 窓際の席から校庭を眺めながら、橘尚哉は小さく欠伸をした。


 ホームルーム開始まであと数分。


 教室の中は、すでにあちこちで話し声が飛び交っている。


 そんな中。


「六花ー! ごめん! これ手伝ってくれない?」


 教室の前方で、女子の声が上がった。


 尚哉は何となくそちらを見る。


 視線の先、彼女の名は白鷺六花。


 長い黒髪。


 整った顔立ち。


 特別目立つ格好をしているわけでもないのに、自然と目を引く。


「うん、いいよ」


 六花は笑顔で答えた。


「助かるー!」


 女子はそう言って去っていく。


 すると今度は別の女子がやって来た。


「白鷺さん、これもお願いしていい?」


「うん」


「あと文化祭のアンケートも」


「わかった」


 あっさり引き受ける。


 その様子を見ていた小春が呆れたように肩をすくめた。


「六花、またなんでも引き受けてる〜」


「そんなことないよ」


「あるよ〜」


「ないない」


「絶対あるよ〜」


 二人のやり取りに周囲が笑う。


 六花も困ったように笑った。


 いつも通りの光景。


 クラスの人気者。


 誰にでも優しい優等生。


 白鷺六花。


 尚哉もただ、そう認識していた。


 していた…のだが。


 なぜか目が離せなかった。


「しっかり見てんなぁ」


 隣から声がした。


 灰原陸だった。


「何が」


「白鷺」


「見てねえよ」


「見てた」


「見てない」


「見てた」


「うるさい」


 灰原は声を上げて笑った。


「いやー、春だねぇ」


「黙れ」


「青春だねぇ」


「いいから黙れ」


 机に突っ伏す。


 灰原はなおもニヤニヤしていた。


「でも分かるわ」


「はあ?」


「白鷺、かわいいもんな」


 尚哉は返事をしなかった。


 かわいい。


 それは事実だと思う。


 クラスの誰に聞いても同じ答えが返ってくるだろう。


 でも、違う。


 そういうことじゃない。


 なぜ気になるのか。


 自分でも本当によく分からなかった。


 ただ。


 彼女とは、ふとした瞬間に目が合う。


 なぜか探してしまう。


 そんなことが時々あった。


 特別な感情も、理由もないのに。


 窓の外に目を向けて、尚哉はそう思っていた。


キーンコーンカーンコーン。


 予鈴が鳴り響く。


 教室のあちこちで慌てて席へ戻る音がした。


「おーい灰原、席着けー」


 教室へ入ってきた担任が出席簿を軽く振る。


「へいへーい」


 灰原は気の抜けた返事をしながら自分の席へ戻っていった。


 尚哉は小さく息を吐く。


 また一年が始まる。


 特に期待も不安もない。


 ただ、今日が明日になり、明日が昨日になっていくだけだ。


 そう思っていた。


     ◇


 放課後。


 部活動へ向かう生徒たちの声が校舎に響いていた。


 尚哉は校門を出て五分ほど歩いたところで足を止める。


「あ」


 思い出した。


 数学の問題集。


 机の中だ。


 明日の提出だった気がする。


「面倒くさ……」


 思わず呟く。


 だが取りに戻らないわけにもいかない。


 尚哉は軽くため息をついて、校舎へと戻った。


     ◇


 教室へ戻る頃には、校内はすっかり静かになっていた。


 西日が窓から差し込み、教室を橙色に染めている。


 誰もいない教室。


 尚哉は自分の席へ向かい、机の中から問題集を取り出した。


「よし」


 帰ろうとした、その時だった。


 視界の端に何かが映った。


 教室の一番後ろ。


 窓際の席。


 机の上に、一冊のノートが置かれていた。


「……誰かの忘れ物か?」


 吸い寄せられるように近づく。


 黒い表紙。


 学校指定のノートでもなければ、市販品にも見えない。


 妙に古びていた。


 誰かが置き忘れたのだろうか。


 尚哉は何となく手に取る。


 表紙には何も書かれていない。


 名前もない。


 ページを開く。


 最初のページ。


 そこには。


 【白鷺六花は嘘をついている。】


 ただ一文だけが書かれていた。


「……は?」


 思わず声が漏れる。


 意味が分からない。


 落書きかと思った。


 だが次のページをめくる。


 何もない。


 その次も。


 その次も。


 白紙。


 最後のページまで。


 何も書かれていない。


 ただ。


 最後のページだけ。


 そこには別の一文が記されていた。


 【朝比奈小春は財布を忘れる。】


 尚哉は眉をひそめる。


「なんだこれ……」


 一体誰が書いたのか。


 何のために書いたのか。


 まるで分からない。


 ただ。


 夕暮れの静まり返った教室で見るには、その文字は少しだけ不気味だった。


 窓の外で風が吹く。


 ページが微かに揺れた。


 尚哉はそっとノートを閉じる。


 そしてもう一度だけ表紙を見た。


 やはり何も書かれていない。


 それが余計に気味が悪かった。


 しばらく考えた後、尚哉はそのノートを鞄へ入れる。


 何故そうしたのか、自分でもわからない。


 ただ、誰にも見られたくない気がした。


     ◇


 翌朝。


 尚哉が教室へ入ると、小春が自分の席の周りを慌ただしく何かを探し回っていた。


「あれ?」


「ん?」


「あれれ〜?」


 机の中。


 鞄の中。


 ポケット。


 制服の上着。


 次々と確認していく。


 見つからない様子だ。


 尚哉は自分の席へ鞄を置いた。


「朝比奈、どうした」


 小春は泣きそうな顔で振り返る。


「わたしのお財布ない〜……」


「は?」


「お財布なくした〜……」


 その瞬間。


 尚哉の動きが止まった。


 昨日のノート。


 最後のページ。


 そこに書かれていた一文。


 【朝比奈小春は財布を忘れる。】


 偶然。


 ただの偶然だ。


 そう思おうとした。


 だが。


「昨日コンビニで使ったのが最後なんだよね〜……」


 小春は頭を抱えている。


 財布を忘れた。


 その事実だけなら偶然かもしれない。


 しかしあまりにも、


 …タイミングが良すぎる。


「どうしたの?」


 声がした。


 六花だった。


 小春は今にも泣き出しそうな顔で振り返る。


「お財布なくしたの〜……」


「あー……」


 六花も困ったように苦笑した。


「昨日どこ行ったの?」


「コンビニとスーパーと本屋〜……」


「じゃあ後で一緒に探そう」


「ほんと!?」


「うん」


「六花〜だいすき〜」


 小春が抱きつく。


 六花は苦笑しながら受け止めた。


 その光景を見ながら。


 尚哉だけが別のことを考えていた。


 これは偶然なのか。


 本当に。


 偶然なのか。


 無意識に鞄へ視線が向く。


 中には昨日のノートが入っている。


 誰にも見られたくないと思ったノート。


 そして。


 あの最初の一文。


 【白鷺六花は嘘をついている。】


 尚哉は教室の前方を見る。


 小春と話している六花。


 いつも通り笑っている。


 誰にでも優しい。


 クラスの人気者。


 そんな彼女が。


 何を嘘をついているというのだろう。


 …分からない。


 ただ。


 尚哉の胸には、得体の知れない違和感だけが残っていた。


 

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