14❀ 変わった彼女
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本当は、あのときのことを謝りたかった。
でも、その言葉が触れた瞬間に、朱里がここにいてくれる、この夢みたいな時間が終わってしまいそうで――どうしても、それを口に出せなかった。
彼女の手が私の眉山の位置をそっと押さえ、スクリューブラシで毛流れをとかし、アイブロウで形を取っていく。
朱里はたいして悪くないのに、一生懸命謝った。本当に大人だと思った。
私は八つ当たりをやめて、少し柔らかい声で聞いた。
「……これから、どうするの?」
「ぜんぜん考えてないけど……」
朱里は笑って「久乃ちゃんと、いたいなあ」と言った。
「……なんで、そんなこと言うの」
「だって、そう思ってるんだもん」
その言葉は、まるで猫の甘え声のようだった。
媚びている、そう直感的に思った。でも、あまりに自然で、無邪気に装われている。だからこそ、どこまでが演技でどこまでが本音なのか、私には見分けがつかない。
ポーチの中を漁る音がして、「あ。……この色、久乃ちゃんに似合いそう」と朱里がひとり言を言った。
まぶたにチップが触れ、それが優しく往復するたび目の奥がじんわり反応する。その感覚だけが妙に鮮明だった。
「うん、いいかんじ。……目、ちょっとだけ開けて、下向いてて。大丈夫、怖くないから」
そっとまぶたを開くと、朱里の顔がすぐ目の前にあった。
たった数十センチの距離でのぞき込むように私を見ている。鏡よりも、ずっと近い。
「アイライン、ちょっとだけね」
筆先が近づく。呼吸を忘れそうになる。
彼女の目が、真剣にこちらを見ている。私のまぶたの形や、まつげの生え際を、まるで大切なものみたいに、丁寧に見つめている。
筆が触れた瞬間、息が止まる。なぞられるのは、皮膚のぎりぎり。ごく細く、線が引かれていく。
朱里の手は慣れていて、でも、どこか緊張している気もした。筆を持つ右手の指先が、ほんの少しだけ、私の頬に触れていた。
「……ね、久乃ちゃん」
朱里がそっと声を落とす。その声音は、まるで秘密の相談でも持ちかけるように柔らかだった。
「こうやって、わたしに毎日メイクされるのはどう?」
私はほんのわずかに眉を寄せた。それを見て、朱里はゆっくりと言葉を足していく。
「この病気になってからわたしはまだ日が浅いからわからないけど、身だしなみができないと、外に出るのも怖くなっちゃうって聞いたよ。わたし、久乃ちゃんの助けになりたいの」
朱里の視線が合った。私はなにも言えないままでいた。
朱里は、視線をそらすことなく、ゆっくりとまばたきをしてグロスのキャップを外した。ごく薄い、花のような甘い香りがふっと鼻先をかすめる。
「今のわたしなら、久乃ちゃんと、ずっと一緒にいられる。それでね、メイクしたら、教えてあげるよ」
リップチップが、唇の中央にそっと乗せられる。柔らかくて、冷たい液が唇の上で広がっていく。
「久乃ちゃんがどんなにきれいで、どんなに素敵か」
リップを塗られている間、私は口を動かせず、ただ聞いているしかなかった。
その間隙を縫うように、朱里が続ける。息の温度が肌にふれる。声が、耳の奥に溶け込んでくる。
「私……あなたの鏡になりたい」
それは、抗いがたい響きだった。彼女は、明らかに人の心を篭絡する術に長けていた。
昔の朱里は、こんなふうに誰かの感情を弄ぶような子じゃなかった。
ただ自由で、まっすぐで、無邪気だった。でも今の彼女は、私の内側を冷静に探り、どこが弱くて、どこが渇いているかを見抜いている。そのうえで、最も私が欲しがる言葉を、最も柔らかい声で置いてくるのだ。
いつ、どこで、こんな術を覚えたのだろう。
いや、そう生きるしかなかったのかもしれない。
長いあいだ、無数の好意と敵意のあいだを泳ぎ、求められる像を演じ続けてきた、その果ての彼女。
私はそのことが、ひどく悲しかった。そしてもう一度朱里を見つめると、彼女はグロスのチップを容器に戻し、さっと手を引いた。
ほんの少しだけ顔を覗き込んで、朱里が言う。
「……できた」
鏡はないから、自分の姿なんてわからない。
でも朱里が「すっごく、似合ってるよ。……可愛い」そう言って満足そうに微笑むから。他の人だったら、絶対に信じられなかったはずのその言葉が、不思議と、心に沁み込んでいく。
彼女と過ごすこの時間は、どこか現実味がなかった。
醜いはずの自分が可愛いと肯定されて、しかもその相手が会いたかった朱里で――まるで、夢の中みたいだった。このまま、私にとって都合のいい彼女と閉じられた世界で楽しく暮らせたら、どれほど幸せだろうか。
彼女はこちらをじっと見つめていた。その彼女の笑顔の奥に、ほんのわずかな頑張りが透けて見える。
――ああ、なんだ。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「……ねえ、朱里」
「ん?」
「お金に、困ってるの?」
朱里の提案は、あまりにも私にとって都合がよすぎた。何の見返りもなく、ただ優しくされるなんて、現実ではありえない気がした。
なにしろ、仕事をなくしているのだ。メイクでお金を稼ぎたい、そんな動機に違いなかった。
相手なんて、誰でもよかったのかもしれない。そう思うと胸が痛んだが、今の私なら彼女の手助けをできる気がした。ずっと部屋にこもっていたおかげで、お小遣いはほとんど使っていない。そこから出せばいい。メイクの相場なんて知らないけれど、それはあとで調べればいい話だ。
彼女がここにいる理由を、私が壊してしまわないように、私の頭は目まぐるしく思考した。
「――えっ?」
まぬけなくらい素っ頓狂な声が、思考を割く。取り繕っていた彼女の仮面が、ほんの一瞬だけ、するりと剥がれた。
朱里は目を見開いたまま、まるで素肌を見られたように、少しだけ身を引いた。
ようやく、自然な朱里が見えた気がして、私は、ちょっと安心してしまった。
「……ごめん。変なこと言った。でも、もし何か困ってるなら、ちゃんと教えて。助けたいし、朱里のこと、もっとちゃんと知りたいの」
私はそう言いながら、朱里の冷たい両手を、そっと包むように握った。お金が目当てでも、騙されていても、それでもいいと思っていた。
それよりも、私は彼女を助けたかった。あの頃の私は、朱里を守れなかったから。
「もし、頼ってくれるなら……私、頑張るよ」
そう呟いた言葉は、小さくて、少し震えていた。でも、それが今の私の、たったひとつの願いだった。
私は朱里に、何も持っていなくても、ここにいていいってことを、証明したかった。
私の言葉が、彼女の中でどんな風に響いたのかはわからなかった。でも朱里は明らかに、一瞬、泣きそうな顔をした。
何か言おうとして唇がうっすら開く。そのまま笑顔を作ろうとしたように見えたが、すぐにその気配はほどけ、彼女の顔は強張って止まった。
私は、見てはいけないものを見たような気がして、そっと目を逸らした。
「もぉ〜〜、やだぁ、久乃ちゃんってば……」
甘えた声。ああ、まただ。そう思った。彼女は、すぐにそうやって戻ってしまう。
「わたしね……お金なんていらないよ? ただ一緒にいたいだけなの。ね? ねぇ、だめ?」
言葉はとろけるように甘いのに、その奥に、かすかな震えがあった。
朱里が、私の頬に手を添えた。触れるか触れないかの距離。
でも次の瞬間、彼女はすっと脱力して、降参するみたいに、そっと私の肩に額を預けてきた。
「……ほんとに、なにもいらない」
その声は、一段低く響いた。すこしかすれて、小さくて、でも耳を澄ませたくなる声。
その瞬間、ようやく朱里という存在の重さを、身体で感じられた気がした。
「ただ、毎日、久乃ちゃんに……会いに来ても、いい?」
その声には、もう、なにも飾りがなかった。私は何も言わず、ただゆっくりとうなずいた。
肩に乗ったその重さが、かすかに震えている気がして、そっと背中に手を回す。
「……そっか。家に、帰りたくなかったんだね」
言葉が自然に出た。責めるつもりは、まったくなかった。ただ、その事実を、抱きしめてあげたかった。
朱里が、すんと鼻を鳴らした。
「もちろん。毎日でも、何度でも来てよ」
私の声は静かだった。
傷ついた彼女に、優しくしたかった。でも、それだけじゃない。
ただ、そばにいてほしかった。
たとえ、どんな理由でも。




