第14話 遺伝学者と上司の確執
アクアノートの北側、許可を得た者しか、入る事の出来ない機密エリア。そこには主任研究員の男性が居る。
専用のラボを与えられ、自由に研究をさせて貰える。という約束で契約した白人の男性だ。
彼は40代半ばで、茶色い髪には白髪が少し混じっている。適当に伸ばした髪を、首の後ろで縛ってまとめていた。
研究所内なので、彼は私服の上に白衣を着ている。靴は施設内用の白い内履きを履いていた。
口の周りには髭が生えており、剃るつもりはないらしい。少し神経質そうな印象を受ける顔立ちだ。
蛇のような細く鋭い目が、苛立たし気に吊り上がっている。どうやら少し、イライラしている様子だ。
痩せ型で全体的に線が細く、ヒョロリとした体つきが、余計に蛇というイメージを増長させる。
握られた右こぶしから人差し指を伸ばし、側頭部のこめかみ辺りをしきりにトントンと叩いている。
様々な機材や薬品が置かれて真っ白なラボ内で、ウロウロとせわしなく歩き回る。何かを待っているのだろうか。
ブツブツと何かを呟きながら、幽鬼のように徘徊する姿は、あまりにも怪し過ぎる。彼を知らない人間が、見たら不審者と疑うだろう。
彼は遺伝学者であり、トーマス・テイラーと名を告げれば、界隈の人間ならすぐに察する事の出来る有名人だ。
いくつもの論文を発表し、若き天才と学生時代から呼ばれて来た。確かな実績を、いくつも積み上げて来た研究者である。
アクアノートで主任研究員をやっていると言われれば、彼を知る人物であれば納得出来るだろう。
それだけの成功者が、何をイライラとしているのか。それは本人でなければ分からない事だ。
徘徊を続けている彼だったが、テーブルの上に置かれた電話が鳴るとすぐに飛びついた。
「いつまで待たせるんだ! 全く君はいつも――」
『落ち着きたまえよトーマス』
彼が待っていたのは、所長であるバート・ギブソンからの電話だった。バートは支援者との会食を終えたばかりだ。
アクアノートは維持費用がかなり高額だ。金銭的な支援を行ってくれる相手を、大事にせなばならない。
そんな事はトーマスだって百も承知だ。しかし今は、それどころではない。少なくとも彼にとっては。
「落ち着いていられるか! まだ外部の人間を関わらせるのは、時期尚早だと言っただろう! 調整が完璧だとは――」
『君が完璧主義者なのは、好きにすればいい。だが、最終決定権を持っているが誰なのか、忘れて貰っては困るね』
トーマスは自分の作り上げた実験体が、まだ完璧だとは思っていない。不安要素もまだいくつか残っている。
しかしバートの方は、8割出来上がっていればそれで良いと考えている。あとは新しい参加者達と仕上げればいい。
その為に彼は、各方面から優秀な専門家を招待したのだ。今のメンバーでは、知識とイマジネーションが足りない。
これより先に進む為には、今までにない発想が必要だとバートは考えている。だがそれを、トーマスは良く思っていない。
「彼女達は、私の作品だぞ! 私物化しないで貰いたい!」
『それを言うなら、アレを作れたのは誰のお陰だ? うん?』
所長に就任以来、アクアノートを運営して来たのはバートである。より多くの資金を調達して来たのもバートだ。
確かにトーマスの頭脳が無ければ、今回の計画は成功しなかった。それ自体は、バートも理解している。
しかしこの研究自体が、ただの海洋研究ではない。トーマスの自己満足に、付き合ってはいられないのだ。
ここまで来るのは、バートにとって悲願であった。もう少しで計画が成就するという、非常に重要なタイミングである。
『分かっているのか? これは合衆国の計画だ。出来るだけ多くの兵士を、無駄死にさせない為のな。それとも君は、国を裏切るつもりかな?』
いつもの柔らかな物言いではなく、元軍人としての圧力が、強く込められた言葉だった。固い意思を感じさせられる。
「そ……それは……そういうもりじゃない」
『なら結構。明日は予定通りに進める』
バートの言葉を最後に、通話は切れてしまった。トーマスは無力感を覚えながら、受話器をそっと置いた。
遺伝学者として成功した彼が、どうしてもやってみたかった事。夢であり目標であった計画と実験。
最高の生命体を作るという彼の願いは、もう少しで完成する。しかしここで、他者の手を借りねばならない。
自分だけの成果では無くなる事が、どうにも納得出来ない。最後まで自分の手で進めたかった。
だがバートの言う事も正しい。トーマスが集めた資金など、たかが知れている。今更比較するまでもない。
「私は……ただ……」
自分の拘りが多分に含まれている事は確かだ。しかしまだ、不安要素が残っているのも本当の話である。
この状態で計画と研究を知らない者達が、いきなり関わるというのは危険かもしれない。そんな予感がしているのだ。
しかしそれは、あまりに非科学的な理由だ。1人の科学者として、曖昧な話を前提には出来ない。
だがスピリチュアルだと言われても、嫌な予感が拭えない。言語化出来ない何かが、確かに感じられる。
トーマスは静かに白衣を脱いで、テーブルの上へ乱雑に置いた。パソコン前の椅子に座り、黙って天井を見上げた。




