第七十九話……銀貨四枚の案内人
聖帝国暦六四五年、旧第五総管区――現ルドミラ教皇国。
首都星ヒンデンブルク、中核都市ニデルの大神殿。
その最奥、香煙すら沈黙しているような聖室にて、サリーム・アル=ハディード教皇は、前教皇エロー枢機卿を密かに呼び出していた。
壁面を埋める聖像群は薄闇の中で青白く浮かび、古代の発光石をはめ込んだ円天井だけが、冷えた光を二人の間へ落としている。
神に最も近いはずの部屋で、いま交わされていたのは祈りではなく、権力の話であった。
教皇は金糸の刺繍が入った長衣の裾を整え、静かに口を開く。
「枢機卿、あの聖典改定は、まだ終わらんのかね?」
問われた老枢機卿エローは、目に見えてやつれていた。
頬は落ち、指先はかすかに震えている。彼はしばし沈黙したのち、絞り出すように答えた。
「我らルドミラ教は、聖帝国ノヴァに虐げられた民の支持で立っております。中でも信徒の多数を占めるノーム人を、パン一片にも劣る存在などと……どうしても、そのようには書けませぬ」
その声は弱々しかったが、まだ僅かに良心の熱が残っていた。
だが教皇サリームは、怒るでもなく、むしろ穏やかに頷いた。
「そうか。では――これを見ても、同じことが言えるかな?」
そう言って、彼は卓上へ数枚の紙束と写真を無造作にばら撒いた。
白い紙片が、冷たい石の机へ音もなく広がる。
老枢機卿の目が、それへ吸い寄せられた。
そこに記されていたのは、彼が教皇位にあった頃、帝国側より受け取った賄賂の詳細。送金記録、口利きの覚書、裏帳簿の複写。
さらに数枚の写真には、当時人気だったモデル達とのホテルでの密会の場面まで、鮮明に切り取られていた。
「……こ、これは!?」
老枢機卿は文字通り膝を折った。
顔色は一瞬で土気色に変わり、喉がひくつく。
ルドミラ教では聖職者の独身が尊ばれ、たとえ俗世にあっても一夫一妻が大原則。不義や姦通は重大な背教とされ、火刑さえあり得る。
それを、誰より説いてきた男の過去が、いまこの場で無惨に剥かれていた。
教皇はゆっくり立ち上がると、怯える老人のそばへ歩み寄った。
そして意外なほど優しい手つきで、その肩へ触れる。
「余は、枢機卿の見識を高く買っておるのだよ。だからこそ、残念なことにはしたくない」
その声音は柔らかい。
だが、それがかえって恐ろしかった。
刃が首筋へ当たる冷たさより、微笑んだまま絞め殺そうとする者の方が、ずっと怖い。
「わ、わかりました……」
老枢機卿は涙をにじませ、かろうじて椅子へ座り直す。
「されど、我が心へ、ほんの少しだけお時間を……なにとぞ……」
教皇は、その懇願を聞いて満足そうに目を細めた。
「……ああ、明日まで待ってやる」
ただその一言だけを残し、彼は踵を返す。
扉が閉まる。
重い密閉音が響いたあと、聖室には老枢機卿ひとりだけが取り残された。
卓上には己の罪、壁には神々の視線、胸の内には、神罰より重い恐怖。
そしてその夜。
大神殿の最奥では、一人の老人が、聖典の前で自らの破滅を書き換えるために震えていた。
◇◇◇◇◇
惑星シャンプールの深夜。
乾いた風が鉱山街の路地を吹き抜け、赤土を薄く巻き上げていた。
ツーシームはビッグベアを従え、場末にしてはやけに客入りのいい酒場へ足を踏み入れる。
油煙と酒臭さが鼻を刺し、安っぽい音楽の向こうで、労働者や商社員たちの笑い声が渦を巻いていた。
彼女は店内をひと目で見回し、比較的身なりの整った連中の卓へ向かう。
そして、ためらいなく少し上等な酒を何本か奢ってやった。
「あんたら、サンブルク商会について教えてくれないかい?」
酒が回れば口も軽くなる。
髪を油で撫でつけた男が、上機嫌に杯を掲げた。
「いいともよ! あそこは最近ずいぶん景気がいいんだ。特に若い支店長がやり手でねぇ。あいつが来てから数字がぐんと伸びたらしいぞ」
隣の濃い化粧をした若い女も、目を輝かせて頷く。
「そうそう、レンギン支店長って素敵なのよぉ。頭も切れるし、見た目も悪くないし。あんな男をものにできたら、一生遊んで暮らせるわ」
「女遊びも派手じゃないのが、またいいんだよな」
「現場にも顔を出すって評判だぜ」
「そりゃ皆、ついていくさ」
誰も彼も、口をそろえて支店長を褒める。
あまりに綺麗に揃いすぎていて、ツーシームはかえって薄ら寒いものを覚えた。
そこで彼女は、わざと軽い調子で次を投げる。
「じゃあさ、なんでこの星で反乱なんて起きたんだい?」
その瞬間、卓の空気が少しだけ変わった。
さっきまで笑っていた濃化粧の女が、露骨に眉をつり上げる。
「それ、どうせノーム人のことでしょ? 私たち正規民と一緒にしないでよね」
別の男も、鼻で笑った。
「そうだそうだ。あいつらは背も低いし、勇敢でもない。兵士にも使えない連中だ。二等市民扱いでちょうどいいのさ」
その言葉に、周囲から同意の笑いが起きた。
ツーシームは曖昧に口元だけで笑い、杯を置く。
「なるほどねぇ。参考になったよ」
彼女はその卓を離れ、店の隅へ目をやった。
暗がりの席で、コートへ身をくるみ、周囲を警戒しながらこそこそ酒を舐めている小柄な男がいる。
背丈。骨格。怯えた目。
一目でノーム人だと分かった。
ツーシームは何気ない足取りで近づき、隣へ腰を下ろした。
「……あんた、ノーム人だろ?」
小男がびくりと肩を震わせる。
悲鳴を上げかけた口を、ツーシームは素早く手で塞いだ。
そしてもう片方の手で、銀貨四枚を握らせる。
「騒がなくていい。取って食いやしないよ」
小男は目を見開き、掌の中の銀貨を見た。
ツーシームは声をさらに落とす。
「あんた、このあたりのエーテル鉱区を案内できるかい?」
男は怯えたまま、何度も何度も頷いた。
酒場の喧騒は相変わらず続いていたが、ツーシームはようやく、今夜初めて本当に使える入口を見つけた気がした。




