人外との交渉
トワが少しだけ起きて、長い眠りにまた沈んだ日……。
太陽がのぼって暗くなった公園で、俺は久しぶりにアルミラージュ・ムースクイーンの名を呼んだ。
果たして――公園の大時計の柱が切り取る明るい影に、アルミラの姿が浮かび上がった。
アルミラの服装は、去年とまったく変わっていなかった。
ニーハイブーツ、ティアードスカート、ブラウス、首輪は、すべて紫がかった黒。
首輪の上からは、去年トワがプレゼントしたレインボームーンストーンのペンダントを下げている。
見下すようなワインレッドの視線を俺に突き刺す。
「ずっと会っていなかったのに、いきなり呼び出すなんて……とは言わんよ。『必要とあらば、いつでも再び呼んでもいい』と別れ際に伝えたのは余だからな。むしろコトブキの顔を見ることができて、うれしいくらいだ」
相変わらず、あいそ笑いは一切せず、彼女は妖艶に首をかしげる。
「……して、今の貴様はなにを欲する。余とデートでも、したいのか」
「今は、ふざけられる気分じゃない。マジメな、お願いだ」
俺は腰を低くし、頭を下げ、上目づかいで彼女と目を合わせた。
「やっぱり明暗の逆転を戻してほしい。確かに俺は、『世界はこのままでもいい』とも考えた。だがそれは、姉が明るく生きられるならの話だ。事実として、きょう一日だけ妹は目覚めて、また眠ってしまった。医者の人によると、夏には、もう起きないらしい。心配なんだ……」
「……元々、貴様は、なにがなんでも世界を戻そうとしていたよな、双子のトワと例年どおりの七夕を見るために。しかしトワがこの世界を受け入れたと分かってからは当初の目標を捨て、新たな世界に貴様までもが順応し始めた。そして現在においてトワの危機的状況が明らかになったため、世界を戻そうとする心が貴様のなかで再燃したというわけだ。……軽薄なように見えて、根本には姉兼妹への思いが絶対的に存在する……わかっているよ、ずっと貴様は玉山コトブキだった」
「自分勝手なのは……ちゃんと自覚してっから……」
「……勝手? そんなわけなかろうが。真に勝手なのは、予告なく同意なく世界の明暗を逆転させた余のほうだぞ。貴様程度のエゴで張り合えるものかよ」
文字どおりの意味で俺を見下ろすアルミラの瞳は、今まで見たなかで、一番に冷たかった。
「トワについては、まあ余が原因だろうな。しかし代わりに、暑い冬に目を覚ますようになるのでは? 前年度は、どうだったのだ」
「起きなかった」
「同年度の夏に、たっぷり活動したからではないか」
「その可能性も……ある。今年度は一日だけ夏に目覚めたということで……暖かくなった冬に長時間、覚醒状態でいられるかもしれない」
だが、そんな見立ては、根拠のない希望的観測だ……。
「……といっても、もしトワが」
俺は上目づかいのまま、肩から足先までを震わせる。
今は寒い六月なのだ……。
「すでに、六月に目覚めるのを体に覚えさせていたとしたら……。そして前にアルミラが言ったとおり、覚醒の条件として明るい時間も一定以上、必要だとしたら……。二度とトワは……夏にも冬にも秋にも春にも目覚めないことになるんだよ。……世界が戻らない限り」
「そういえば、去年トワが退院する前に貴様はその可能性を指摘していたか……。だったら、明暗が逆転した七夕の夜空を双子で観賞したあとに……余に相応のさびしさを差し出し、世界を元に戻すための買い物をすればよかったのだ」
「まさに……そうだな。トワだけじゃなくて俺も……この世界を気に入ってしまったのかもしれない。明るいものを見ているようで、本当は暗いところを凝視していたってわけだ。とにかく俺はリスクを予想しておきながら手を打たなかった」
「……後悔している場合でもないよな。貴様の優先順位の第一は玉山トワに違いない」
ここでアルミラは俺に近づき、右の手の平を、こちらのあごの近くに投げた。
「であれば、出してもらおう」
「電気代か」
「ふざけられる気分じゃないと言ったのは、どこの貴様だよ……。特大のさびしさを出せよ。余と貴様とのあいだに必要なのは、ひっきょう、そういう交渉だろうが」
「まだそんなことを……トワが危ない状況にあるのに」
「余にとって……トワもコトブキも、やはり大切な友達だ。このままトワが起きない可能性を考えても心苦しい。取り返しのつかない事態になる前に、一刻も早く世界を直すべき」
――まわりが、やや明るく、温かくなる。
「ところが……そうだとしても、タダで明暗は戻せんな。人類を始めとする生き物はみんなで協力して世界に対抗できるわけだが……世が世なら、余は余り者。元の世界は不便なのだよ、生きるのに」
アルミラと俺の頭上に、雲によってかたどられた光が移動してきた……。
「第一……日陰はタダで作れるのに、日なたはタダで作れない。この時点で不公平ではないかね。もちろんそれを逆転させてもフェアには、ならんさ。ただ余は……光が元々そこにあればいいと望んだに……すぎないのだ」
「そんなに暗闇が嫌いなら」
ふれそうでふれない手の平をあごの下に感じつつ、俺は少し眉をつり上げる。
「いっそのこと、全部を明るくすればよかったんだ。入れ替えるなんてマネをせず。……そうだ、それならアルミラにとってもトワにとっても都合がいい。これでいこうぜ」
「この世から闇が全滅し、光のみが残ったら、生きていけなくなる生き物は多いだろう。人類も、そうなんじゃないか。余にとっては忌まわしきものでも、みなにとっては安らぎだよな。失えば滅ぶよ。いかに光が確保されても、そんな世界は願い下げだ。気持ちが暗くなる」
「なら……俺のいのちを買ってくれ」
彼女の手の平をよけ、俺は地面に身を沈めた。正座を作って手をついて、より深々と頭を下げた。
「さびしさなら、俺のなかにある。……今のトワは安らかじゃない。不安そうだった……。それだけで、俺はさびしいし、内部から、はちきれそうなんだ……」
公園の砂に落ちる……自分の明るい影を見つめる。
「このまま俺は、トワをほうっておいて、のうのうと生きられない。以前アルミラは俺のいのちを『手に余る』と言ったが、本当は買えるだろ、人のいのちの一つくらい。曲がりなりにもヴァンパイアを名乗るなら……」
「コトブキ」
なぜか、彼女の声の位置が、がくんと低くなり、籠もったような音となる。
「土下座は、安く見えるものでは、なかったのか……?」
「だから、ときと場合によっては違う……え?」
ふと顔を上げると、青い髪のてっぺんをこちらに向けて、アルミラまでもが土下座していた。
「前は貴様にとめられた。今度は余が、とめよう。そういうことは、お願いだから控えてくれよ。どんなに良質なさびしさも、おかげで安っぽく見えて、買う気が失せるではないか。もう貴様のさびしさは……要らん。余も、世界を元に戻す気が完全に失せた……」
そして顔を伏せるのをやめ、俺を正面から見据える。
申し訳ないとか後ろ暗いとか、そういった気持ちは彼女の表情に宿っていない。
「なあ……今年度の冬が終わるまで、待ってくれないか。それまでにトワが問題なく起き、充分に活動できたら……余が世界を元に戻さなくとも、かまわないのだろう?」
「それ以上は待てない。これ以上待ったら、トワが永遠に帰ってこない気がする。だが、もしトワが眠ったまま春を迎えたら」
「迎えたら?」
「……デートしてやる」
「……喜んで」
そんな会話を交わしたあとは、俺もアルミラも、なにもしゃべらなかった。
ひざをついたまま、明るい影のなかで――ただただ、にらみ合っていた。
アルミラが光に姿をくらましたのは、一時間後のことだった。
公園の時計が、午前八時を指していた。




