数瞬
――六月八日、月曜日。
透明な空に、下弦の月が浮かんでいる。
その日、病院のベッドで、ようやくトワが目をあけた。
「お兄ちゃん……コトブキ……よかった、気持ちよく起きられた――」
「姉さん!」
ちょうど俺はベッドのそばで、トワが起きるのを待っていた。
妹は、一回まばたきして、横たわったまま顔を俺に向ける。
つっかえながら、か細い息をはく。
「――と言いたいんだけど、ごめん、わたし、怖い……」
「だいじょうぶだって! 俺、ここにいるから」
座っていたパイプ椅子を移動させ、俺はベッドに限りなく接近した。起きた直後に、ここまで不安そうな声を出すトワは、初めて見た。
トワは両肩をぶるっと震わせた。
「寒くて……。それに、夢を全然、見なかったの。覚えていないとかじゃない……はっきり、なにも見なかったって、わかる……。今までそんなことなかったから……不安……」
「看護師さん、呼ぼうか?」
「うん……でも、ちょっと、いい? コトブキ……わたしのナイトキャップ、取ってくれる?」
俺は、うなずいた。
サンタ帽に似た緑のキャップをゆっくり外すと、とても長い髪がベッドの上と横にこぼれた。
もう一度トワは、まばたきして、つらさを隠すように笑う。
「ありがとね、お兄ちゃん……。やっぱり、この髪は……コトブキのためのものだから。わたし、なぜか……なによりも眠くて……。今年は、すぐに寝てしまいそう……だから、おわび」
「心配することは、ねーよ……。姉さんが起きたきゃ起きればいいし……」
ここで俺は、「まだ絶対に眠るな」と言いそうになる喉を、ぐっと押さえつけた。
「……逆に眠たいなら、遠慮せず寝とけって」
「優しいお兄ちゃんに育ってくれて、お姉ちゃん、うれしいよ……」
「どっちにしろ、最低あと少しは起きとけよ。俺さ、去年の九月くらいにあったスクーリングで、同じ高校の後輩とちょっと会うようになったんだ」
「あ……ついに、わたしの弟にも、お付き合いする人ができちゃったかー。妹として、さびしいな」
「……そういうのじゃ、ねーよ。とにかく、そいつの親がカガリヤっていうスイーツの店やっててさ。そこで、なんか買ってくっから……希望があるなら」
「じゃあショートケーキのカットケーキで」
「定番すぎだろ……」
とりあえず俺はナースコールで看護師の人を呼んで、椅子から立ち上がった。
そのときトワが、またまた、まばたきをくりかえし、俺に話しかけた。
「コトブキは……お兄ちゃんは……わたしがいなくても、素敵な男の子だよ……」
なにも答えず、俺は足早に病室を去った。
カガリヤと病院を自転車で往復するのに、約一時間かかった。
ケーキの入った箱を持って病室に戻ってきたときには、トワが深い眠りに帰っていた。
そこには両親と医者もいた。
今年の夏に再び目覚める見込みは、ないという。
話によると、トワは去年に眠ったときから、夢を見やすいレム睡眠の頻度を極端に減らしていたそうだ。
脳波を計測したところ、とても深いノンレム睡眠の連続が確認されたため、医者の人は以前から心配していたとか……。両親にも、そのことを伝えていたらしい。
俺は知らなかった。
別に、ひどいとは思わない。俺は双子ではあっても保護者ではない。トワの状態が確定するまでは、情報を伏せられていても、文句はない……。
両親よりも先に帰宅し、俺は居間でケーキを食べた。
「バカか……俺」
フォークを刺した部分を口に運ぶ。
「九か月も寝てて胃も使ってなかったトワが、ケーキをいきなり食えるわけねーじゃん」
しかもトワの眠る瞬間にさえ立ち会えなかった。
いつもの「ごめん寝る」も聞けなかった。
「俺のどこが……素敵な男の子なんだよ……」
このまま、トワが一生、目覚めなかったら……。
原因は……去年から世界の明暗をすりかえたアルミラージュ・ムースクイーン以外にありえない。彼女の言葉に従うならば、トワは今年の冬に覚醒するのだろう……。
少なくとも、今年度の二月が終わるまでは様子を見るべきなのか。
(待てって……本当にアルミラの言うとおりなら、六月に一日だけ起きるのは、おかしい。四季が入れ替わっても、姉さんの起床時間は、ずれなかった……? 結局は六月あたりに目を覚ますしかなく……でもそれは例年の十二月に相当するようになったから、トワは……)
起きたとき妹は、アルミラについて、なにも言及しなかった。
(もしかして姉さんもアルミラの仕業という可能性を考えて……。いやいや……起き抜けだったんだ……。目の前にいた俺はともかく、ほかのことにわざわざ意識がいくか……違う。トワは、なんて言った? 「弟にもお付き合いする人ができちゃった」……この言い方、まるで)
俺とアルミラがすでに……会わなくなったことを察しているような、そんなニュアンスを含んでいないか?
世界を元どおりにできる存在が、もういないと思っている。
……だから、自分に起きた変化も受け入れて、俺に最後の言葉を伝えたんだ……。安心させる言葉を選んだんだ……。一番不安なのは、自分のはずなのに……。
「アルミラージュ・ムースクイーン」
トワが起きて再び眠った、その日のうちに、俺は彼女の名前を呼んだ。
(確か皆既月食を一緒に見て別れたのが、去年の九月八日……そして、きょうが六月八日だから、ちょうど九か月ぶりか……もう来てくれるか、わかんねーが。「もうアルミラの名を呼ばないことにする」って言っといて……本当に俺も身勝手だ)
すでに太陽がのぼり、星は消えて、あたりは暗い。俺のいる公園の大時計が、明るい光を落としつつ、午前六時を指し示す。
……それから一時間が経過して、時計の明るい影が少し移動する。
あらためて俺が名前をさけぼうとしたとき、時計の柱の作る光に、深い海を思わせる青い髪が現れた。こちらの頭をキーンとさせる……氷のような声と共に。
「久しいことだな、玉山コトブキ。だいぶ遅れて申し訳ない」




