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知らぬ間に、水戸の殿様に守られていた?

 俺は窓の外を眺めながら、ふと思った。


 昼下がりの町は、いつもと変わらない。


 通りを行き交う人の声。


 荷車の車輪が石畳を擦る音。


 風が吹くたび、軒先の暖簾がふわりと揺れている。


 ――平和だ。


 少なくとも、表面だけを見れば。


 だが、昨日の男が現れてから。


 どうにも胸の奥に、小さな棘が引っかかっている。


「……そういえば」


「どうしたのでありんす?」


 少し離れたところにいた桃香が顔を上げる。


「俺たち、もともとは桃香の水揚げをするだけだったんだよな」


「……そうでありんすね」


 桃香も少し考えてから、苦笑した。


「それが、どうしてこんな面倒なことになったのでありんす?」


「俺にも分からん」


 思わず苦笑する。


 本当に、分からない。


 最初はもっと単純だった。


 桃香の水揚げをする。


 商売を軌道に乗せる。


 そして桃香には、将来、太夫を目指してもらう。


 そのためにも、水揚げの相手は慎重に選ぶ。


 実際、相手もほぼ決まりかけている。


 旗本の屋敷にも出入りしている御家人だ。


 身元に問題はない。


 金も相応にある。


 何より、桃香を一時の遊び相手としてではなく、これからの付き合いまで考えている。


 もちろん、水揚げをしたからといって、それだけで桃香の将来が決まるわけではない。


 それでも、最初の縁が大切なのは間違いない。


 桃香が将来、太夫を目指すのであれば。


 相手選びで妥協するつもりはなかった。


 ……まあ。


 水戸の殿様自身だったら、話は別だったが。


 そんなことを考えて、俺は小さく息を吐いた。


 ところが。


 世の中というのは、こちらの思惑通りには進まない。


 商売を始めれば、人と繋がる。


 人と繋がれば、金が動く。


 金が動けば、利権が生まれる。


 そして利権が生まれれば――。


 それを欲しがる奴も出てくる。


「俺が色々とやらかしてきたからな」


「色々、で済ませてよいのでありんすか?」


 桃香が呆れたように笑う。


「済ませるしかないだろ」


「まあ……そうでありんすけど」


 俺も笑った。


 だが、その笑みはすぐに消えた。


 俺は窓の外へ目を戻す。


 俺はこれまで、自分が必要だと思ったことを、かなり好き勝手にやってきた。


 商売を広げた。


 人を集めた。


 新しい仕組みを作った。


 権力者とも関わった。


 その中でも、特に大きかったのが――。


「水戸の殿様だ」


「……殿様でありんすね」


「ああ」


 その名を口にすると、これまでの出来事が頭に浮かんだ。


 店へ来た時のこと。


 酒を飲みながら、くだらない話をしたこと。


 俺の商売について興味深そうに耳を傾けていた顔。


 豪快に笑う声。


 そして――。


 ふとした瞬間に見せた、あの沈黙。


「……もしかして」


 俺は呟いた。


「今まで何も起きなかったのって、水戸の殿様のおかげだったのかもしれないな」


「殿様が?」


「ああ。……たぶん、だけどな」


 俺は腕を組んだ。


 考えてみれば、おかしい。


 俺は目立つことをしてきた。


 商人としては、かなり派手に動いている。


 しかも、普通の商売ではない。


 楼閣の楼主という立場を、面白く思わない奴だっていただろう。


 商売敵だっている。


 俺のやり方を快く思わない者だっている。


 それなのに。


 今まで、こちらの根を断とうとするような大きな動きはなかった。


「俺が気づいていなかっただけで、殿様が裏で何かしていた……って考えると、辻褄は合うんだよな」


「旦那様を守っていた、と?」


「そこまでは分からん」


 俺は首を振った。


「殿様が俺を気に入ってくれていたのは確かだ。だが、それだけで裏から手を回していたと決めつけるのは早い」


「……なるほど」


 桃香も頷いた。


 水戸の殿様は、俺のところへ頻繁に来ていた。


 そのことは、もう町でも知られている。


 ならば。


 俺に手を出そうとする奴がいたとしても――。


「水戸の殿様と繋がっている商人に手を出す」


 俺は言葉を切った。


 外から荷車の車輪が軋む音が聞こえる。


「それだけで、相手にとっては面倒なことになる」


「そうでありんすね」


 俺自身に、大した後ろ盾があったわけではない。


 ただ。


 俺の背後に、水戸の殿様がいる。


 そう見られていた可能性はある。


 だが、本当にそうだったのか。


 俺には、まだ分からない。


 もしかすると、単に運が良かっただけなのかもしれない。


 あるいは、俺が知らないところで、何かが動いていたのかもしれない。


 問題は――。


 そのどちらなのか、俺には判断できないことだ。


「……それでも」


 俺は小さく息を吐いた。


「もし、本当に殿様が何か抑えてくれていたんだとしたら……今の状況は、少し怖いな」


「なぜでありんす?」


「殿様が今まで俺を守ってくれていたのなら――」


 俺は桃香を見る。


「その殿様自身が、今は自由に動けない状況なのかもしれない」


 室内が静かになった。


 桃香も口を閉ざす。


 俺は頭の中で、水戸の殿様について考える。


 自分は水戸藩を継がない。


 兄の子を養子にして、その子に継がせようとしている。


 それだけでも、簡単な話ではない。


 そのことを面白く思わない者もいるだろう。


 逆に、その状況を利用したい者もいるかもしれない。


 何と言っても、水戸藩は徳川御三家だ。


 そこに人の思惑が集まるのは、むしろ当然だ。


 だが。


 俺には、その内情までは見えていない。


 誰と誰が対立しているのか。


 誰が殿様を支持しているのか。


 誰が跡継ぎについて別の考えを持っているのか。


 何も分からない。


「そういえば、殿様がうちに来た時」


「はい?」


「たまに、妙に口数が少ないことがあったよな」


 桃香が首を傾げる。


「そうだったでありんすか?」


「ああ」


 俺は記憶を辿った。


 商売の話を振れば、普通に返してくれる。


 俺がくだらない話をすれば笑う。


 酒が入れば、いつもの豪快さも戻る。


 それなのに。


 ふとした瞬間だけ、表情が曇る。


 何かを言いかけて――やめる。


 誰かの名前が話題に出た時だけ、妙に話を切り上げる。


 その時は、単に忙しいのだと思っていた。


「……今になって考えると、あれも何かあったのかもしれない」


「殿様の周囲にも、いろいろあるのでありんすね」


「ああ」


 俺は頷いた。


 だが、それも今になって意味を持たせているだけかもしれない。


 人間というのは、何か起きた後になると、過去の出来事まで繋がって見えてしまう。


 実際には、何の関係もないことだってある。


「だから、今の段階で誰かを疑うのはやめておく」


 昨日の男も、その一人かもしれない。


 だが、水戸藩とは無関係かもしれない。


 もっと別の誰かが、あの男を使っている可能性だってある。


 今は、何も分からない。


 ならば、決めつけるべきではない。


「……桃香」


「はい?」


「今後は、水戸の殿様との付き合い方も少し考えた方がいいかもしれない」


「距離を置くのでありんすか?」


「いや」


 俺は首を振った。


「むしろ逆だ」


「逆?」


「殿様本人と話す」


 俺は椅子から立ち上がった。


「俺が今まで何に守られていたのか。少し確かめてみたい」


「では、殿様に直接お聞きになるので?」


「……それが一番早い」


 そう答えたものの、俺はすぐには動かなかった。


 聞き方は考えないといけない。


 下手な聞き方をすれば、殿様を困らせるかもしれない。


「殿様の立場が、俺の思っている以上に面倒なことになっている可能性がある」


「ならば、慎重に聞くのでありんすね」


「ああ」


 俺は頷いた。


 これまでの殿様の様子を思い出す。


 妙に慎重だった時。


 誰かの話を避けた時。


 俺の店に来ても、いつもより早く帰った時。


 その時は、全部別々の出来事だと思っていた。


 だが。


 もしかすると。


 どこかで繋がっていたのかもしれない。


 あるいは――。


 俺が勝手に繋げて考えているだけかもしれない。


 だからこそ、本人に確かめる必要がある。


 そして。


 桃香の水揚げの相手が、旗本の屋敷に出入りしていることも、少しだけ頭に引っかかった。


 もちろん、何かを探ってもらうつもりはない。


 桃香の将来のために選んだ相手だ。


 ただ、武家社会に近い人間と縁ができれば、これまで俺の耳に入ってこなかった話が、自然と聞こえてくることもある。


 それだけだ。


「俺が知らないだけで、水戸藩の中では何か揉めているのかもしれないな」


「……それが昨日の男にも繋がっているのでありんすか?」


「分からない」


 俺は即答した。


「だからこそ、今は余計なことをしない」


 水戸藩の中で何が起きているのか。


 誰が何を望んでいるのか。


 今は何も知らない。


 知らない以上、下手に首を突っ込むつもりはない。


「ただし」


 俺は桃香を見る。


「向こうから何かが来たら話は別だ」


「……昨日の男のように?」


「ああ」


 俺は窓の外へ目を向けた。


 町は、何も知らない顔で動いている。


 人が歩く。


 荷が運ばれる。


 店先では客と商人が言葉を交わしている。


 いつもの日常。


 なのに。


 俺の目には、その景色が昨日までとは少し違って見えた。


「その時は、昨日以上に慎重にならないとな」


 俺はゆっくり息を吐いた。


 今まで。


 俺は自分の力で、ここまで来たつもりだった。


 商売を考え。


 人を集め。


 金を動かし。


 失敗すれば、自分で尻拭いをしてきた。


 だからこそ、自分の足で立っているつもりだった。


 だが。


 もし、俺が好き勝手に動けたのが。


 その裏で誰かが、何かを抑えていたからだとしたら。


 その可能性を、今の俺は無視できない。


 そして。


 その「誰か」が水戸の殿様だったのだとしたら――。


 今まで見えていなかったものが、急に怖くなった。


 だが、それすらまだ推測だ。


 確かなことは、何もない。


 ただ。


 昨日の男が現れた。


 水戸の殿様の様子にも、以前とは違うものを感じる。


 それだけだ。


 偶然かもしれない。


 水戸藩とは無関係かもしれない。


 それでも――。


 俺には、すべてが別々の出来事には思えなかった。

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