↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/68

水揚げも無事終わったが少し寂しいな

 ――その数日後。


 桃香は、少しずつ変わり始めていた。


 いや、正確に言えば、変わり始めたというより、今まで隠れていたものが表へ出てきた、と言ったほうが近いのかもしれない。


 朝、まだ店の中に夜の静けさが残っている頃から、桃香は鏡の前へ座るようになっていた。


 行灯の淡い明かりを背に、髪へ櫛を入れる。


 さらり。


 また、さらり。


 櫛が髪を通るたび、小さな音が部屋へ落ちてくる。


 以前なら、


「誰か、やっておくんなまし」


 などと言って、人に任せることも多かった。


 別に、それが悪いわけではない。


 店にいる以上、身の回りを人にやってもらうのは珍しいことでもないし、俺だっていちいち自分で着物をどうこうする気なんてない。


 だが、今の桃香は自分でやっている。


 乱れた髪を整え、鏡を覗き込み、簪の位置を確かめる。


 少しでも曲がっていれば、指先で直す。


 襟元を見て、帯を見て、それからもう一度だけ鏡の中の自分を見る。


「……そこ、少し曲がっておりんせんか?」


 桃香が鏡越しに俺を見る。


「どこだ?」


「襟元でありんす」


「俺に聞くなよ」


 俺がそう言うと、桃香が眉を寄せた。


「旦那様、よく見ておくんなんし」


「いや、見ても分からん」


「もう」


 呆れたように言いながら、桃香は自分で襟元へ手を伸ばし、布を少し引いて位置を整えた。


 それだけのことなのだが、なんだか妙に様になっている。


「これでよろしいでありんすか?」


「……たぶん」


「たぶんでありんすか」


「俺に聞いたのが間違いだな」


 桃香がくすりと笑った。


 その笑い方も、以前とは少し違っていた。


 無理をして愛想笑いを作る感じがない。


 肩に力が入っておらず、口元だけではなく目元まで柔らかい。


「旦那様は、分かりやすいんでありんす」


「そうか?」


「はい」


「何が?」


「わっちが少し変わると、すぐ気づくところでありんす」


「……そうか?」


「そうでありんす」


 桃香は鏡の中の俺を見ながら、また小さく笑った。


 なんだよ。


 そういうことを言われると、こっちが妙に恥ずかしくなるじゃないか。


 俺は返す言葉が見つからず、頭を掻いた。


 こういうときは、何か別のことを考えたほうがいい。


 たとえば今日の帳面とか。


 ……いや、今それを考えると、それはそれで嫌になるな。


 そんなことを考えているうちにも、廊下では人が動き始めていた。


 板張りの床を踏む足音。


 水を汲む音。


 どこかで襖が開く音。


 朝の店というのは、静かなようでいて案外うるさい。


 まだ客の姿が見えなくても、働く人間はもう動いている。


「では、行ってまいりんす」


 桃香が立ち上がった。


 衣擦れの音が、かすかに響く。


「ああ」


 俺が頷くと、桃香はそのまま廊下へ出ていった。


 足取りに迷いがない。


 誰かに背中を押してもらうような歩き方ではなく、自分で決めて、自分で歩いている。


 俺はその背中を、しばらく目で追った。


「……立派に大きくなったんだな、桃香」


 思わず、そんな言葉が口から出た。


 そして、言ってから少しだけ胸の奥が寂しくなった。


「……少しだけ、寂しいな」


 俺が育ててきた娘が、自分で歩き始める。


 当たり前のことなんだが、当たり前だからこそ寂しい。


 ただ、その寂しさよりも嬉しい気持ちのほうがずっと強かった。


 桃香の未来を守る。


 そう決めた。


 なら、俺もいつまでも同じところに立っているわけにはいかない。


 ……そのためには、まず片付けなければならないことがある。


 水戸の殿様だ。


 俺は人を呼んだ。


「水戸屋敷へ使いを出してくれ」


「はい」


 呼ばれた男が、すぐに頭を下げる。


「殿様に、お会いしたいと伝えてくれ」


「かしこまりました」


 男はもう一度頭を下げ、そのまま踵を返して廊下の向こうへ消えていった。


 俺はその背中を見送る。


 机の前へ戻ると、そこには帳面がいくつも積んであった。


 やることなら、いくらでもある。


 店のことだけでも、放っておけばいくらでも増えていく。


 だが、今はそれどころではなかった。


 想像だけで、勝手に存在もしない敵を作るのはまずい。


 俺がこの時代にやってきてから、色々とやってきたことを殿様がどう思っているのか。


 俺たちの付き合いを、これからどう考えているのか。


 そこを一度、本人に確かめておきたい。


 そう考えをまとめているうちに、昼を過ぎた。


 さらに時間が流れ、西日が障子を赤く染める。


 俺はまだ帳面を開いたままだったが、ほとんど読んでいない。


 文字が目に入っても、頭へ入ってこなかった。


「旦那様」


 廊下から声がした。


「どうした?」


「水戸屋敷から返事がありました」


 俺は顔を上げる。


「もう返事が来たのか?」


「はい」


「何と?」


 使いの者は、少しだけ声を落とした。


「殿様が、明日の昼にこちらへおいでになると」


「……こっちへ?」


「はい」


 俺は、その言葉を聞いたまま黙った。


「分かった、それならありがたい」


「では、そのように」


「ああ」


 使いの者が頭を下げ、廊下の向こうへ戻っていった。


 俺は一人になった。


 机の上の帳面へ視線を落とす。


 だが、やっぱり文字が頭へ入ってこない。


「……明日か」


 思わず呟く。


 直接話せる。


 そう思うと、少しだけ気持ちは落ち着いた。


 俺一人であれこれ考え続けるよりはいい。


「まあ明日、聞けばわかるだろう。単なる杞憂な可能性だって高いんだ」


 小さく呟いた。


 その夜。


 店の喧噪が少し落ち着いた頃、襖の向こうから桃香の声がした。


「ただいまでありんす」


「ああ、おかえり」


 襖が開き、桃香が入ってくる。


 そのまま静かに襖が閉じられ、外の音が少し遠くなる。


「旦那様、まだ起きておりんしたか」


「ああ、考え事をしてた」


「また、お仕事でありんすか?」


「まあな」


 桃香は俺の顔を見た。


 すぐには何も言わなかった。


 ただ、じっと見ている。


 俺が気づかないふりをしていると、桃香の目が少し細くなった。


「……水戸の殿様のことでありんすね」


 俺は手を止めた。


「分かるのか?」


「分かりやすいんでありんす」


「それ、朝も言ったな」


「本当のことでありんすから」


 桃香は俺の前へ座った。


 膝の上へ手を置き、その指先を少しだけ動かしている。


 何か言いたいことがあるらしい。


 けれど、すぐには口にしない。


 俺も急かさなかった。


 しばらくして、桃香が口を開いた。


「明日、殿様がお会いに来られるんでありんしょう?」


「ああ」


「ここへ?」


「ああ」


「……そうでありんすか」


 桃香の声が、ほんの少し沈んだ。


 俺は、その変化に気づいて顔を上げた。


「まあ、心配するな」


「いや、心配しんす」


「桃香」


「だって」


 桃香はそこで言葉を止めた。


 唇をきゅっと結ぶ。


 それから、少し俯いた。


「旦那様、突拍子もないことをやっているって、自分では思っていないでありやしょう」


「え? そんなにか?」


「あい」


 桃香にそうはっきり言われても、俺は何も言えなかった。


 まあ、そういうことをしている自覚は多少はあるし、実際に否定できないからだ。


「わっちには、分からないことも多いんでありんしょう」


 桃香はゆっくり顔を上げた。


「けれど、一人で抱え込むことはありやせん」


 その言葉が、胸の奥へ落ちてきた。


 昔なら、桃香はこんなことを言わなかった。


 ただ俺を信じて、黙って待っていた。


 俺が決めたことなら、それでいいと思っていた。


 だが、今は違う。


 自分の気持ちを口にする。


 俺が何を考えているのか知ろうとする。


 そして、俺のことを心配している。


「……そうだな」


 俺はゆっくり息を吐いた。


「悪かった」


 すると、桃香が小さく首を振る。


「謝ってほしいわけではありんせん」


「分かってる」


「なら」


「できるだけ話す」


 桃香の目が、一瞬だけ見開かれた。


 それから、ふっと表情が緩んだ。


「約束でありんすよ」


「ああ」


「絶対でありんす」


「分かった」


 桃香の肩から、わずかに力が抜けた。


 それを見て、俺も少しだけ胸の奥が軽くなった。


「旦那様」


「何だ?」


「明日、気をつけておくんなんし」


「ああ」


「絶対に」


「しつこいな」


「しつこく言わないと、旦那様はすぐ無茶をするでありんす」


「そんなことはない」


「ありんす」


「ない」


「ありんす」


「ないって」


「ありんす」


 桃香が真顔で言い張る。


 俺も真顔で見返す。


 しばらく、どちらも動かなかった。


 先に耐えられなくなったのは桃香のほうだった。


「ふふっ」


 肩を揺らす。


「何だよ」


「いえ」


 桃香は口元を押さえながら笑っている。


「少し安心しんした」


「そうか」


「はい」


 そう言って、桃香は立ち上がった。


 裾を整える。


 そのまま襖へ向かい、手を掛けたところで、ふと振り返った。


「旦那様」


「うん?」


「わっちは、もう子供ではありんせんよ」


 俺は、一瞬言葉を失った。


 それは以前にも聞いた言葉だった。


 だが、今夜のそれは少し意味が違って聞こえた。


「……分かってる」


 俺が答える。


 桃香は、満足そうに笑った。


「なら、たまには頼っておくんなんし」


 そう言って、襖を閉める。


 ことり。


 小さな音だけが残った。


 俺はしばらく動かなかった。


 外では誰かが笑っている。


 どこかで食器の触れ合う音がする。


 三味線の音も、遠くから聞こえてくる。


 いつもの夜だ。


 なのに、今だけは、その全部が妙に遠く感じた。


「……本当に変わったな」


 俺は小さく呟いた。


 寂しい。


 そう思わないわけではない。


 ただ、それ以上に嬉しかった。


 守らなければならないと思っていた桃香が、今では俺のことまで心配している。


 守る。


 守られる。


 そんな関係も、少しずつ変わっていくのかもしれない。


 ……いや。


 そもそも、いつまでも俺一人が守る側というのも、無理がある。


 俺だって母さんや藤乃に守られてきた。


 だから桃香だって、もう何も知らない子供ではない。


 そう考えると、少しくらい頼ってもいいのかもしれない。


 ……まあ、そう思った直後に「旦那様が無茶をするからでありんす」なんて言われているんだが。


 俺は行灯の火を見つめた。


 小さな炎が、かすかに揺れる。


 明日のことを考える。


 ――翌日。


 昼前。


 店の中は、いつもとは少し違う緊張に包まれていた。


 水戸の殿様が来る。


 それだけなのだが、女たちの声がいつもより小さい。


 奉公人たちの足音も、どこか慎重だ。


 普段なら気にも留めないような音まで、妙にはっきり耳へ入ってくる。


 俺自身が落ち着いていないから、そう聞こえるだけかもしれない。


 ……たぶん、そうなんだろう。


「旦那様」


 女の一人が、少し緊張した面持ちで声を掛けてきた。


「もうすぐお着きになるそうで」


「ああ」


 俺は頷く。


「来たら、すぐ知らせてくれ」


「かしこまりました」


 女が深く頭を下げ、足早に戻っていく。


 俺は、なんとなくその背中を見送った。


 落ち着け。


 ただの客じゃない。


 ……いや。


 それを考えたら、余計に落ち着かなくなるな。


 そんなことを考えていると、外から声が上がった。


「お見えになりました!」


 俺はすぐに立ち上がり、表へ出た。


 通りには人が行き交っている。


 その中で、一台の駕籠が止まっていた。


 周囲には供の者。


 明らかに普通の客とは違う。


 それだけで、通りを行く町人たちの視線がこちらへ集まっていた。


 こういうときだけ、人間は妙に目ざとい。


 駕籠の簾が上がる。


 やがて足が地面へ下りた。


 衣の裾が揺れる。


「待たせたな」


 水戸の殿様が顔を見せた。


「いえ。わざわざお運びいただき、ありがとうございます」


 俺が深く頭を下げる。


 すると殿様は、軽く手を上げた。


「堅苦しい挨拶はよい」


 その表情には、いつもの気安さが少しだけ戻っている。


 だが、俺には、それがいつも以上に作っているように見えた。


「こちらへ」


「恐れ入ります」


 俺は殿様を店の奥の一室へ通した。


 襖を閉める。


 外の気配が遠ざかった。


 二人きりになる。


「……久しぶりだな」


「はい。ご無沙汰しております」


 殿様が腰を下ろす。


 俺も向かいへ座った。


 茶が置かれる。


 湯気が細く立ち上る。


 だが、二人ともすぐには手を伸ばさなかった。


 妙な沈黙だった。


 庭から鳥の声が一つ聞こえる。


 風が庭木の葉を揺らす。


 さら。


 さら。


 俺は殿様の顔を見た。


 いつもの気安さはある。


 だが、今日はわざわざ俺の店まで来てもらっている。


 せっかくこうして二人きりになったんだ。


 聞いておきたいことは、いくつもある。


 俺がこの時代にやってきてから、色々とやってきたことを殿様がどう思っているのか。


 俺たちの付き合いを、これからどう考えているのか。


 ここまで来た以上、変に遠回しにする必要もないだろう。


 俺が口を開こうとした、そのときだった。


 殿様のほうが先に口を開いた。


「今日は、何か聞きたいことがあるのだろう?」


 俺は一瞬だけ目を瞬いた。


「……分かりますか?」


「お前の顔を見ればな」


 殿様は、少しだけ口元を緩めた。


 その表情に、いつもの気安さが戻る。


「で、何だ?」


 俺は一度息を吐いた。


「俺は、殿様にどう思われてるのでしょう」


 俺は少し言葉を選んだ。


「俺が今まで色々とやってきたことも、殿様ならご存じでしょう」


「うむ」


「だから、その……やりすぎだと思われていないのかとか、余計なことまでしていると思われていないのかとか」


 そこまで言って、俺は少しだけ苦笑した。


「自分じゃ、どこまでが普通なのか分からなくなってましてね」


 殿様は黙って俺の顔を見ている。


「俺としては、別に悪いことをしているつもりはないんです」


 そこは本当だ。


 店を良くしたい。


 働く人間が少しでも楽になればいい。


 桃香たちにも、できるだけ先のある暮らしをさせてやりたい。


 そう思って色々やっているだけだ。


 ただ、俺にとっては当たり前でも、この時代の人間からすれば、そうではないこともある。


 そこだけは、前々から少し気になっていた。


「だから、一度くらい聞いておきたかったんですよ」


「何をだ?」


「俺が今までやってきたことを、殿様がどう見ているのかを」


 殿様は、そこでようやく小さく息を吐いた。


「なるほどな」


「はい」


「お前は、お前自身が思っている以上に、自分のことを気にしているようだな」


「……そうでしょうか」


「そうだ」


「だとしたらそれは桃香が気が付かせてくれたんですよ」


「そうか、やはり良い娘だな。

 人の心の機微を察するのがうまい」


 そう言われると、否定しにくかった。


「まあ、俺も好き勝手やってますからね」


「好き勝手、か」


 殿様は、少しだけ笑った。


「お前の場合、その言葉だけでは済まんがな」


「やっぱりですか」


 俺は思わず苦笑した。


 やっぱり、そこはそうなのか。


 とはいえ、殿様がこうして直接言ってくれるなら、そのほうがよほど分かりやすい。


「だからこそ、聞いておきたかったんですよ」


 俺は殿様を真っ直ぐ見た。


「この先も、俺は今まで通りやっていていいのか」


「……それを聞きたかったのか」


「ええ」


 殿様はしばらく俺を見つめたあと、ゆっくりと口元を緩めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
久しぶりの更新でワクワクして読んだら、なんだか最近流行のAI小説みたいになってますね ぶつ切りの短い地の文 単調な会話文 主人公の手広く生き生きとか改革してるのが面白かったし、せっかくいままでにない権…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。