水揚げも無事終わったが少し寂しいな
――その数日後。
桃香は、少しずつ変わり始めていた。
いや、正確に言えば、変わり始めたというより、今まで隠れていたものが表へ出てきた、と言ったほうが近いのかもしれない。
朝、まだ店の中に夜の静けさが残っている頃から、桃香は鏡の前へ座るようになっていた。
行灯の淡い明かりを背に、髪へ櫛を入れる。
さらり。
また、さらり。
櫛が髪を通るたび、小さな音が部屋へ落ちてくる。
以前なら、
「誰か、やっておくんなまし」
などと言って、人に任せることも多かった。
別に、それが悪いわけではない。
店にいる以上、身の回りを人にやってもらうのは珍しいことでもないし、俺だっていちいち自分で着物をどうこうする気なんてない。
だが、今の桃香は自分でやっている。
乱れた髪を整え、鏡を覗き込み、簪の位置を確かめる。
少しでも曲がっていれば、指先で直す。
襟元を見て、帯を見て、それからもう一度だけ鏡の中の自分を見る。
「……そこ、少し曲がっておりんせんか?」
桃香が鏡越しに俺を見る。
「どこだ?」
「襟元でありんす」
「俺に聞くなよ」
俺がそう言うと、桃香が眉を寄せた。
「旦那様、よく見ておくんなんし」
「いや、見ても分からん」
「もう」
呆れたように言いながら、桃香は自分で襟元へ手を伸ばし、布を少し引いて位置を整えた。
それだけのことなのだが、なんだか妙に様になっている。
「これでよろしいでありんすか?」
「……たぶん」
「たぶんでありんすか」
「俺に聞いたのが間違いだな」
桃香がくすりと笑った。
その笑い方も、以前とは少し違っていた。
無理をして愛想笑いを作る感じがない。
肩に力が入っておらず、口元だけではなく目元まで柔らかい。
「旦那様は、分かりやすいんでありんす」
「そうか?」
「はい」
「何が?」
「わっちが少し変わると、すぐ気づくところでありんす」
「……そうか?」
「そうでありんす」
桃香は鏡の中の俺を見ながら、また小さく笑った。
なんだよ。
そういうことを言われると、こっちが妙に恥ずかしくなるじゃないか。
俺は返す言葉が見つからず、頭を掻いた。
こういうときは、何か別のことを考えたほうがいい。
たとえば今日の帳面とか。
……いや、今それを考えると、それはそれで嫌になるな。
そんなことを考えているうちにも、廊下では人が動き始めていた。
板張りの床を踏む足音。
水を汲む音。
どこかで襖が開く音。
朝の店というのは、静かなようでいて案外うるさい。
まだ客の姿が見えなくても、働く人間はもう動いている。
「では、行ってまいりんす」
桃香が立ち上がった。
衣擦れの音が、かすかに響く。
「ああ」
俺が頷くと、桃香はそのまま廊下へ出ていった。
足取りに迷いがない。
誰かに背中を押してもらうような歩き方ではなく、自分で決めて、自分で歩いている。
俺はその背中を、しばらく目で追った。
「……立派に大きくなったんだな、桃香」
思わず、そんな言葉が口から出た。
そして、言ってから少しだけ胸の奥が寂しくなった。
「……少しだけ、寂しいな」
俺が育ててきた娘が、自分で歩き始める。
当たり前のことなんだが、当たり前だからこそ寂しい。
ただ、その寂しさよりも嬉しい気持ちのほうがずっと強かった。
桃香の未来を守る。
そう決めた。
なら、俺もいつまでも同じところに立っているわけにはいかない。
……そのためには、まず片付けなければならないことがある。
水戸の殿様だ。
俺は人を呼んだ。
「水戸屋敷へ使いを出してくれ」
「はい」
呼ばれた男が、すぐに頭を下げる。
「殿様に、お会いしたいと伝えてくれ」
「かしこまりました」
男はもう一度頭を下げ、そのまま踵を返して廊下の向こうへ消えていった。
俺はその背中を見送る。
机の前へ戻ると、そこには帳面がいくつも積んであった。
やることなら、いくらでもある。
店のことだけでも、放っておけばいくらでも増えていく。
だが、今はそれどころではなかった。
想像だけで、勝手に存在もしない敵を作るのはまずい。
俺がこの時代にやってきてから、色々とやってきたことを殿様がどう思っているのか。
俺たちの付き合いを、これからどう考えているのか。
そこを一度、本人に確かめておきたい。
そう考えをまとめているうちに、昼を過ぎた。
さらに時間が流れ、西日が障子を赤く染める。
俺はまだ帳面を開いたままだったが、ほとんど読んでいない。
文字が目に入っても、頭へ入ってこなかった。
「旦那様」
廊下から声がした。
「どうした?」
「水戸屋敷から返事がありました」
俺は顔を上げる。
「もう返事が来たのか?」
「はい」
「何と?」
使いの者は、少しだけ声を落とした。
「殿様が、明日の昼にこちらへおいでになると」
「……こっちへ?」
「はい」
俺は、その言葉を聞いたまま黙った。
「分かった、それならありがたい」
「では、そのように」
「ああ」
使いの者が頭を下げ、廊下の向こうへ戻っていった。
俺は一人になった。
机の上の帳面へ視線を落とす。
だが、やっぱり文字が頭へ入ってこない。
「……明日か」
思わず呟く。
直接話せる。
そう思うと、少しだけ気持ちは落ち着いた。
俺一人であれこれ考え続けるよりはいい。
「まあ明日、聞けばわかるだろう。単なる杞憂な可能性だって高いんだ」
小さく呟いた。
その夜。
店の喧噪が少し落ち着いた頃、襖の向こうから桃香の声がした。
「ただいまでありんす」
「ああ、おかえり」
襖が開き、桃香が入ってくる。
そのまま静かに襖が閉じられ、外の音が少し遠くなる。
「旦那様、まだ起きておりんしたか」
「ああ、考え事をしてた」
「また、お仕事でありんすか?」
「まあな」
桃香は俺の顔を見た。
すぐには何も言わなかった。
ただ、じっと見ている。
俺が気づかないふりをしていると、桃香の目が少し細くなった。
「……水戸の殿様のことでありんすね」
俺は手を止めた。
「分かるのか?」
「分かりやすいんでありんす」
「それ、朝も言ったな」
「本当のことでありんすから」
桃香は俺の前へ座った。
膝の上へ手を置き、その指先を少しだけ動かしている。
何か言いたいことがあるらしい。
けれど、すぐには口にしない。
俺も急かさなかった。
しばらくして、桃香が口を開いた。
「明日、殿様がお会いに来られるんでありんしょう?」
「ああ」
「ここへ?」
「ああ」
「……そうでありんすか」
桃香の声が、ほんの少し沈んだ。
俺は、その変化に気づいて顔を上げた。
「まあ、心配するな」
「いや、心配しんす」
「桃香」
「だって」
桃香はそこで言葉を止めた。
唇をきゅっと結ぶ。
それから、少し俯いた。
「旦那様、突拍子もないことをやっているって、自分では思っていないでありやしょう」
「え? そんなにか?」
「あい」
桃香にそうはっきり言われても、俺は何も言えなかった。
まあ、そういうことをしている自覚は多少はあるし、実際に否定できないからだ。
「わっちには、分からないことも多いんでありんしょう」
桃香はゆっくり顔を上げた。
「けれど、一人で抱え込むことはありやせん」
その言葉が、胸の奥へ落ちてきた。
昔なら、桃香はこんなことを言わなかった。
ただ俺を信じて、黙って待っていた。
俺が決めたことなら、それでいいと思っていた。
だが、今は違う。
自分の気持ちを口にする。
俺が何を考えているのか知ろうとする。
そして、俺のことを心配している。
「……そうだな」
俺はゆっくり息を吐いた。
「悪かった」
すると、桃香が小さく首を振る。
「謝ってほしいわけではありんせん」
「分かってる」
「なら」
「できるだけ話す」
桃香の目が、一瞬だけ見開かれた。
それから、ふっと表情が緩んだ。
「約束でありんすよ」
「ああ」
「絶対でありんす」
「分かった」
桃香の肩から、わずかに力が抜けた。
それを見て、俺も少しだけ胸の奥が軽くなった。
「旦那様」
「何だ?」
「明日、気をつけておくんなんし」
「ああ」
「絶対に」
「しつこいな」
「しつこく言わないと、旦那様はすぐ無茶をするでありんす」
「そんなことはない」
「ありんす」
「ない」
「ありんす」
「ないって」
「ありんす」
桃香が真顔で言い張る。
俺も真顔で見返す。
しばらく、どちらも動かなかった。
先に耐えられなくなったのは桃香のほうだった。
「ふふっ」
肩を揺らす。
「何だよ」
「いえ」
桃香は口元を押さえながら笑っている。
「少し安心しんした」
「そうか」
「はい」
そう言って、桃香は立ち上がった。
裾を整える。
そのまま襖へ向かい、手を掛けたところで、ふと振り返った。
「旦那様」
「うん?」
「わっちは、もう子供ではありんせんよ」
俺は、一瞬言葉を失った。
それは以前にも聞いた言葉だった。
だが、今夜のそれは少し意味が違って聞こえた。
「……分かってる」
俺が答える。
桃香は、満足そうに笑った。
「なら、たまには頼っておくんなんし」
そう言って、襖を閉める。
ことり。
小さな音だけが残った。
俺はしばらく動かなかった。
外では誰かが笑っている。
どこかで食器の触れ合う音がする。
三味線の音も、遠くから聞こえてくる。
いつもの夜だ。
なのに、今だけは、その全部が妙に遠く感じた。
「……本当に変わったな」
俺は小さく呟いた。
寂しい。
そう思わないわけではない。
ただ、それ以上に嬉しかった。
守らなければならないと思っていた桃香が、今では俺のことまで心配している。
守る。
守られる。
そんな関係も、少しずつ変わっていくのかもしれない。
……いや。
そもそも、いつまでも俺一人が守る側というのも、無理がある。
俺だって母さんや藤乃に守られてきた。
だから桃香だって、もう何も知らない子供ではない。
そう考えると、少しくらい頼ってもいいのかもしれない。
……まあ、そう思った直後に「旦那様が無茶をするからでありんす」なんて言われているんだが。
俺は行灯の火を見つめた。
小さな炎が、かすかに揺れる。
明日のことを考える。
――翌日。
昼前。
店の中は、いつもとは少し違う緊張に包まれていた。
水戸の殿様が来る。
それだけなのだが、女たちの声がいつもより小さい。
奉公人たちの足音も、どこか慎重だ。
普段なら気にも留めないような音まで、妙にはっきり耳へ入ってくる。
俺自身が落ち着いていないから、そう聞こえるだけかもしれない。
……たぶん、そうなんだろう。
「旦那様」
女の一人が、少し緊張した面持ちで声を掛けてきた。
「もうすぐお着きになるそうで」
「ああ」
俺は頷く。
「来たら、すぐ知らせてくれ」
「かしこまりました」
女が深く頭を下げ、足早に戻っていく。
俺は、なんとなくその背中を見送った。
落ち着け。
ただの客じゃない。
……いや。
それを考えたら、余計に落ち着かなくなるな。
そんなことを考えていると、外から声が上がった。
「お見えになりました!」
俺はすぐに立ち上がり、表へ出た。
通りには人が行き交っている。
その中で、一台の駕籠が止まっていた。
周囲には供の者。
明らかに普通の客とは違う。
それだけで、通りを行く町人たちの視線がこちらへ集まっていた。
こういうときだけ、人間は妙に目ざとい。
駕籠の簾が上がる。
やがて足が地面へ下りた。
衣の裾が揺れる。
「待たせたな」
水戸の殿様が顔を見せた。
「いえ。わざわざお運びいただき、ありがとうございます」
俺が深く頭を下げる。
すると殿様は、軽く手を上げた。
「堅苦しい挨拶はよい」
その表情には、いつもの気安さが少しだけ戻っている。
だが、俺には、それがいつも以上に作っているように見えた。
「こちらへ」
「恐れ入ります」
俺は殿様を店の奥の一室へ通した。
襖を閉める。
外の気配が遠ざかった。
二人きりになる。
「……久しぶりだな」
「はい。ご無沙汰しております」
殿様が腰を下ろす。
俺も向かいへ座った。
茶が置かれる。
湯気が細く立ち上る。
だが、二人ともすぐには手を伸ばさなかった。
妙な沈黙だった。
庭から鳥の声が一つ聞こえる。
風が庭木の葉を揺らす。
さら。
さら。
俺は殿様の顔を見た。
いつもの気安さはある。
だが、今日はわざわざ俺の店まで来てもらっている。
せっかくこうして二人きりになったんだ。
聞いておきたいことは、いくつもある。
俺がこの時代にやってきてから、色々とやってきたことを殿様がどう思っているのか。
俺たちの付き合いを、これからどう考えているのか。
ここまで来た以上、変に遠回しにする必要もないだろう。
俺が口を開こうとした、そのときだった。
殿様のほうが先に口を開いた。
「今日は、何か聞きたいことがあるのだろう?」
俺は一瞬だけ目を瞬いた。
「……分かりますか?」
「お前の顔を見ればな」
殿様は、少しだけ口元を緩めた。
その表情に、いつもの気安さが戻る。
「で、何だ?」
俺は一度息を吐いた。
「俺は、殿様にどう思われてるのでしょう」
俺は少し言葉を選んだ。
「俺が今まで色々とやってきたことも、殿様ならご存じでしょう」
「うむ」
「だから、その……やりすぎだと思われていないのかとか、余計なことまでしていると思われていないのかとか」
そこまで言って、俺は少しだけ苦笑した。
「自分じゃ、どこまでが普通なのか分からなくなってましてね」
殿様は黙って俺の顔を見ている。
「俺としては、別に悪いことをしているつもりはないんです」
そこは本当だ。
店を良くしたい。
働く人間が少しでも楽になればいい。
桃香たちにも、できるだけ先のある暮らしをさせてやりたい。
そう思って色々やっているだけだ。
ただ、俺にとっては当たり前でも、この時代の人間からすれば、そうではないこともある。
そこだけは、前々から少し気になっていた。
「だから、一度くらい聞いておきたかったんですよ」
「何をだ?」
「俺が今までやってきたことを、殿様がどう見ているのかを」
殿様は、そこでようやく小さく息を吐いた。
「なるほどな」
「はい」
「お前は、お前自身が思っている以上に、自分のことを気にしているようだな」
「……そうでしょうか」
「そうだ」
「だとしたらそれは桃香が気が付かせてくれたんですよ」
「そうか、やはり良い娘だな。
人の心の機微を察するのがうまい」
そう言われると、否定しにくかった。
「まあ、俺も好き勝手やってますからね」
「好き勝手、か」
殿様は、少しだけ笑った。
「お前の場合、その言葉だけでは済まんがな」
「やっぱりですか」
俺は思わず苦笑した。
やっぱり、そこはそうなのか。
とはいえ、殿様がこうして直接言ってくれるなら、そのほうがよほど分かりやすい。
「だからこそ、聞いておきたかったんですよ」
俺は殿様を真っ直ぐ見た。
「この先も、俺は今まで通りやっていていいのか」
「……それを聞きたかったのか」
「ええ」
殿様はしばらく俺を見つめたあと、ゆっくりと口元を緩めた。




