吉原にもっと人を呼ぶにはどうすればいいか初代藤乃と話をしてみたよ
吉原の改革を始めてから、かなりの時間が経った。
劇場ができ、美人楼ができ、食堂も増えた。女性客を受け入れる仕組みも整え、以前に比べれば吉原を訪れる人間の数は確実に増えている。
それでも俺には、まだ何か足りないものがあるように思えていた。
「……うーん」
俺は帳面を膝の上に広げたまま腕を組み、難しい顔で唸っていた。何度も書き直したせいで紙にはいくつもの案が並び、そこへさらに新しい考えを書き加えようとしては筆が止まる。
そんな俺を向かい側から眺めていた初代藤乃が、扇子をゆっくりと閉じながら目を細めた。
「どうしたんでありんすか、若旦那。さっきからずいぶん難しい顔をしておりんすねぇ」
引退して久しいとはいえ、藤乃の所作には長年太夫として客を迎えてきた頃の名残が残っている。背筋はすっと伸び、扇子を扱う手つきにも無駄がない。こちらを見つめる目には穏やかな笑みが浮かんでいるものの、その奥には、相手の様子をひと目で見抜こうとしていた現役時代さながらの鋭さが宿っていた。
「吉原に来る人間を、もっと増やせないかと思っているんだ」
俺が帳面を見下ろしたまま答えると、藤乃は小首を傾げ、少しだけ目を見開いた。
「客を増やすのでありんすか?」
長年、吉原の表も裏も見てきた彼女にとって、客の流れを考えることなど朝飯前なのだろう。驚いた様子はほとんど見せず、ただ俺の次の言葉を待つように扇子を膝の上へ置いた。
「だが、以前に比べれば十分増えているでやしょう?」
「もちろん、それは分かっているよ」
俺は苦笑しながら頷き、帳面を指先で軽く叩く。
「でも、今の吉原に来ている人間の中には、まだ『遊女と遊ぶために来る客』がかなり多い。もちろん、それ自体を否定するつもりはないんだ。けれど、それだけだと客層がどうしても限られてしまう」
俺がそう話すと、藤乃は扇子の先を顎に軽く当て、昔を思い出すように視線を少し遠くへ向けた。その横顔には、何人もの客を相手にしてきた者だけが持つ実感が浮かんでいる。
「ふふ……それは確かにそうでありんすねぇ」
藤乃は小さく笑いながら、こちらへ視線を戻した。
「男ってぇものはね、遊女に会いたいから吉原へ来る者ばかりではありんせん。何か面白いものがありんせば、それを目当てに足を運ぶものなんでありんす。もっとも、昔の吉原じゃ、それを口実にして覗きに来るだけの客も、ずいぶんおりんしたけれどねぇ」
そう言って藤乃が口元に薄い笑みを浮かべ、扇子をぱちりと開く。
俺はその言葉に顔を上げた。
「覗きに来るだけの客?」
「ええ」
藤乃は懐かしそうに目を細め、扇子を胸元でゆっくり動かした。
「あちきが太夫を張っていた頃もね、仲の町を歩いて、あっちの店を覗き、こっちの店を覗き、見世の様子を眺めて、そのまま帰る男は珍しくありんせんでしたよ」
「やっぱり、そういう奴は多かったんだな」
俺が少し身を乗り出して尋ねると、藤乃はすぐに頷いた。
「多うござんしたとも」
彼女は扇子を膝の上へ置き、今度は客に商売の話でも聞かせるような落ち着いた表情で続ける。
「それに、そういう男衆を、最初から『金を使わない客』と決めつけるのは早計でありんすよ」
その言葉に、俺は眉を上げた。
「どういうこと?」
「人ってぇものはね、最初から何を買うか決めて来るとは限りんせん」
藤乃は人差し指を立てるように扇子を持ち上げ、客の心理を説明するように、一つずつ言葉を重ねていく。
「まずは覗いてみる。面白そうだと思えば、芝居を見てみる。腹が減れば飯を食う。帰る前に目についた菓子や小物がありんせば、土産に一つ買っていく。そうしているうちに、次に来る理由ができるんでありんす」
「つまり、最初は冷やかしでもいい、と」
俺が納得したように呟くと、藤乃は穏やかな笑みを浮かべた。
「そうでありんす」
そのまま扇子を軽く振りながら、昔の客を思い出したように目を細める。
「冷やかしで来る客を追い返す必要なんてありんせん。何か一つでも面白いものを見つけて、幾らかでも金を使って帰ってもらえりゃ、それで十分でありんすよ。まあ、わっちらから見れば困った客でありやしたが」
冗談めかした最後の一言に、俺は思わず苦笑した。
「しかも、そういう客が帰ってから『吉原にはこんなものがあった』と話してくれれば、それを聞いた別の人間が興味を持つこともありんす」
藤乃は扇子を軽く振りながら、楽しそうに目を細める。
「客ってぇのは、自分が面白いと思ったものを人に話したがるものなんでありんす。そうして次の客が来る。最初は冷やかし、次は芝居、次は飯……そんな具合に、少しずつ金を落としてくれるようになればいいのでありんす」
「なるほど……遊郭で遊ばなくても劇場には行くやつもいるはずだしな」
俺は腕を組み、藤乃の話を頭の中で整理する。
「だったら、遊女に興味がない人間でも、吉原に来る理由を増やせばいい」
「そういうことなのでありんすねぇ」
藤乃は満足そうに頷いた。
俺は右手の人差し指を一本立てる。
「例えば、芝居を見たい人間」
続けて中指を立てる。
「珍しい料理を食べたい人間」
さらに薬指を立てた。
「買い物をしたい人間」
俺はそのまま手を開き、思いつくままに言葉を重ねていく。
「絵や芸事を楽しみたい人間。女同士で芝居や買い物を楽しみたい人間。祭りを見たい人間。江戸見物に来た地方の人間……そういう人たちまで吉原に呼び込めたら、今よりずっと大きな町になると思う」
藤乃は黙って俺の話を聞いていたが、やがて扇子を膝の上に置くと、ふっと目を細めた。
「なるほどねぇ……吉原へ来る理由そのものを増やす、というわけでありんすか」
「そういうこと」
俺が頷くと、藤乃は昔の客を思い返しているのか、口元に楽しそうな笑みを浮かべた。
「それなら、案外うまくいくかもしれんせんねぇ。あちきが太夫を張っていた頃にも、芝居を見て、飯を食って、それから見世へ顔を出す客は珍しくありんせんでしたもの。最初から女郎だけを目当てにしていた客ばかりではありんせん」
「やっぱり、そういう奴はいたんだな」
「ええ」
藤乃は目を細め、扇子を膝の上でゆっくり回した。
「むしろ、そういう寄り道をする客ほど、別の日にまた顔を出したりするものでありんす」
「なるほどね」
俺が納得したように頷くと、藤乃は相手の反応を確かめるように、静かに笑った。
「客ってぇものは、何か一つ目的が増えるだけで、もう一度来やすくなるんでありんすよ」
俺はそこで、はっきりと考えが繋がった。
「だから、一つだけを売るんじゃないんだね」
帳面を覗き込みながら、藤乃が頷く。
「吉原へ来たら、何か一つくらいは楽しめる。そう思わせる町にするのでありんす。冷やかしで来た男も、何か一つ楽しんで帰れば、それで終わりとは限りんせんからねぇ」
「そう。それだ」
俺は思わず笑った。
「吉原を江戸の名所にするんだ」
その言葉に、藤乃は一瞬だけ目を丸くした。しかしすぐに扇子で口元を隠し、くすりと笑う。
「江戸の名所、でありんすか。ずいぶんと大きな話になったものでありんすねぇ」
「でも、考えてみれば難しいことじゃない」
俺は帳面を開き直し、思いついたことを次々に口にしていく。
「浅草寺へ参拝に行って、そのあと吉原へ向かう。そこで芝居を見て、食事をして、店を覗き、菓子を買い、庭を歩き、夕方になったら再び芝居を見る。そのうえで、遊女と遊びたい人間は遊べばいい」
「なるほどでありんすねぇ」
藤乃は小さく頷きながら、扇子の先で帳面の上をなぞった。
「それなら、昼間から客が来るようになりんす。夜になってからしか人が動かない町じゃなくなるわけでありんすね」
「そういうこと」
俺は頷き、少し考えてから続ける。
「つまり、吉原に来る目的を一つにしないんだ」
藤乃は俺を見ると、長年の経験から答えを確かめるように静かな口調で言った。
「今までは『吉原へ行く』ということ自体が目的で、その中に遊女との遊びがあった。けれど、これからは『芝居を見るために吉原へ行く』『買い物をするために吉原へ行く』『食事をするために吉原へ行く』という客も増やすわけでありんすね」
「そういうことだ」
俺は頷きながら微笑んだ。
「そして、そういう客が一度吉原に来てくれればいい」
「一度来れば?」
藤乃が少しだけ首を傾げる。その表情は、わざと先を促しているようにも見えた。
「ああ。一度来れば、次に来る理由を作れる」
俺は帳面に簡単な流れを書き込んでみせた。
「例えば、最初は芝居を見るために来た客がいたとする。芝居を見て、帰りに食堂で食事をする。そこで吉原名物の菓子を見つけて買って帰る。次に来たときには、美人楼を覗いてみる。その次は祭りを見に来る」
俺は筆を置き、藤乃を見る。
「そうやって少しずつ吉原を知ってもらえばいい」
藤乃は目を細め、ゆっくりと頷いた。
「そういう客を増やすなら、一度きりの大商いよりも、何度も来てもらうほうが大事でありんすね」
「そうなんだ」
俺は笑って頷く。
「だから、今ある店や施設を一つ一つ別々に考えるんじゃなくて、全部まとめて吉原そのものを楽しんでもらう」
「そして、客がそれを知らなければ意味がありんせん」
藤乃はそう言って扇子を閉じると、今度は帳面を指先で軽く叩いた。
「つまり、案内が要るのでありんす」
「ああ」
俺はすぐに頷いた。
「だから吉原細見を、もっと広く使う」
藤乃は納得したように目を細め、帳面へ視線を落とした。
「なるほど。若旦那が作らせた吉原細見を、遊女や見世の案内だけではなく、吉原そのものを楽しむための案内に広げるわけでありんすね」
「そう。今までの吉原細見は、基本的には遊女や店を知るためのものだっただろう?」
「そうでありんすねぇ」
藤乃は遠くを見るような目をしながら、昔の頃を思い出したように笑う。
「あちきが太夫だった頃も、見世の様子を知ろうとする客は多うござんした。評判を聞き比べたり、誰がどこで人気なのか確かめたりね。あれを使えるなら、ずいぶん面白いものが作れそうでありんす」
「うん。それをもっと広げるんだ」
俺は紙の上へ項目を書き並べていく。
「芝居の予定、食事処、菓子屋、土産物屋、美人楼、庭園、祭りの日程まで載せる」
藤乃は紙の上の文字を追いながら、小さく頷いた。
「初めて来る客にも、どこへ行けば何があるのか分かるようにするわけでありんすね」
「そう。『吉原へ行けば何かある』じゃなくて、『今日はこれを見に行こう』と思ってもらうんだ」
「それなら、吉原の中にも案内が必要でありんしょうねぇ」
藤乃はそう言うと、かつて太夫として客を先導していた頃を思い出すように、吉原の通りを頭の中で辿るような視線を向けた。
「初めて来る客ってぇのは、見たいものがあっても、どこへ行けばいいのか分かりんせん。慣れた客なら勝手が分かりんすけれど、そうじゃない客ほど、最初の印象が大事なんでありんすよ」
「その通り」
俺は頷いた。
「だから案内板も置く。『劇場はこちら』『食堂はこちら』『美人楼はこちら』って書いておけばいい」
「うん。それだけでも、ずいぶん違うでありんしょうね」
藤乃は満足そうに笑い、扇子を膝の上へ戻した。
俺はさらに考えながら、机に指先を軽く打ちつける。
「それから……吉原を歩いて回る楽しみも作りたいな」
「歩いて回る?」
藤乃が少しだけ身を乗り出し、興味深そうにこちらを見た。
「ああ」
俺は新しい紙を取り出し、その中央に大きく丸を描いた。
「例えば、店ごとに違う印を用意する」
「印?」
「そう。劇場に行けば劇場の印。美人楼なら美人楼。菓子屋なら菓子屋。食堂なら食堂」
俺は紙の上に小さな丸をいくつも描きながら、楽しそうに続けた。
「それを一冊の小さな帳面に集めてもらうんだ」
藤乃はそれを聞くと、一瞬ぽかんとしたあと、扇子を口元に当てて笑った。
「ふふっ……それは面白そうでありんすねぇ。子供だけじゃありんせん。大人だって、意外と夢中になるかもしれんせんよ」
「そうだろ?」
俺も笑い返す。
「全部集めた人には、吉原の手拭いでも渡せばいい」
「それなら、ついでに他の店まで覗いていく客も増えそうでありんすね」
藤乃は楽しそうに目を細める。
「長年客を見てきたけれど……人ってぇものは、『あと一つ』と言われると、どうしても集めたくなるものでありんすよ」
「それが狙いなんだよ」
俺は笑いながら頷いた。
「劇場だけ見て帰るつもりだった客が、印を集めるために菓子屋へ寄る。そこで別の店の商品を見つける。次に来たときは食堂へ行ってみる。そうやって吉原の中を歩いてもらう」
藤乃は帳面を眺めながら、ゆっくりと扇子を開いた。
「一軒だけで終わらせず、町全体を回ってもらうのでありんすね」
「そう」
そこから先は、次々と案が浮かんできた。
吉原名物の食べ歩き。
季節ごとの祭り。
年末の市。
女性向けの催し。
芸能会。
子供向けの芝居。
絵や書の展示。
そうしたものを一年中、少しずつ用意する。
「そうすれば、吉原に来る理由が毎月変わる」
俺がそう言うと、藤乃は扇子の端で膝を軽く叩いた。その仕草には、長年吉原の季節の移り変わりと客の動きを見てきた者ならではの含みがある。
「毎月、でありんすか……」
少し考えてから、藤乃は静かに顔を上げた。
「それなら、季節ごとの名物を決めるといいでありんす。人ってぇものは、毎年同じ時期に同じものがあると、それを楽しみにするものでありんすからねぇ」
藤乃の言葉に、俺は顔を上げた。
「そうだ。季節ごとの名物を作ろう」
「季節ごとの名物?」
藤乃が小首を傾げる。
「春なら花。夏なら祭り。秋なら芸能。冬なら歳末市、ってところかい?」
「うん。その通り」
俺は頷きながら、ますます筆を走らせる。
「毎年同じ時期にやれば、『今年も行こう』って思ってもらえる」
藤乃は満足そうに微笑んだ。
「それなら、あちきが昔客を呼ぶのに苦労した経験も、少しは役に立つってものでありんすねぇ」
冗談めかしてそう言う藤乃の言葉に、俺は思わず笑った。
「むしろ、誰よりも参考になるよ」
「そうでありんすか?」
藤乃は扇子を口元に当て、いたずらっぽく笑う。
「なら、昔の客が何を目当てに通っていたか、洗いざらい話してあげましょうかえ。冷やかしで来たくせに、帰る頃には何かしら買っていった客の話もねぇ。中には今のあんたなら、もっと大きくできそうなものもあるかもしれんせんよ」
それは長年太夫を張り、客の流れを肌で知っている藤乃だからこそ出せる提案だった。
一度来てもらうだけでは意味がない。最初は冷やかしでも、吉原を覗きに来たところで何か面白いものを見つけてもらい、そこから芝居を見てもらい、食事をして、土産を買ってもらう。そして帰ったあとに、今度は誰かへ吉原の話をしてくれればいい。
そうして一度の来訪が次の来訪へつながり、最初はただの冷やかしだった客が、芝居や食事、買い物を目当てに、何度も吉原へ足を運ぶようになっていく。
「そういうことでありんしたら、吉原へ来る理由を一つ増やすんじゃなくて、十も二十も増やしていけばいいのでありんすね」
藤乃はそう言いながら扇子を静かに閉じる。その表情は、長年客を見てきた者らしい落ち着きと確信に満ちていた。
「冷やかしの客だって、最初から金を使うと決めて来る必要なんてありんせん。来て、見て、何か一つ気に入ってくれりゃ、それで十分。そこから先は、吉原の見せ方次第でありんす」
「そういうこと」
俺は笑った。
「そして、そのために最初に作るのは、新しい建物じゃない」
「では、何を?」
藤乃が少しだけ首を傾げ、興味深そうに俺を見る。
俺は手元の紙を軽く持ち上げ、いたずらを思いついた子供のような笑みを浮かべた。
「案内だよ」
「案内?」
「吉原で何ができるのか。それを江戸中に知らせる」
吉原は、知られていないわけではない。むしろ、有名すぎるほど有名だ。だからこそ、今まで知られていた吉原とは違う姿を見せる。
遊女だけではない。芝居があり、食事があり、買い物があり、芸能があり、祭りがある。そして、一日かけて歩き回れる。そういう町として吉原を見せていくのだ。
「まずは、この吉原細見をもっと役立つものにするところから始めよう」
俺がそう言うと、藤乃はすぐに扇子を閉じ、帳面を引き寄せた。その動きには、昔と変わらぬ落ち着きの中に、現役の太夫だった頃を思わせるてきぱきとした調子が戻っていた。
「それなら、各店から情報を集めないといけんせんねぇ」
藤乃はそう言いながら、余白へ必要な項目を書き始める。
「劇場の予定だけじゃありんせん。季節の催しも、店ごとの売りも、客がどこを回れば楽しめるかも、分かるようにしたほうがいいでありんす」
「なるほど」
俺が頷くと、藤乃はさらに筆を走らせながら続ける。
「それから、女の客に人気の店も分けておいたほうがいいでありんす。男と女じゃ、見たいものも買いたいものも違うからねぇ」
「それも入れよう」
「地方から来た客なら、江戸見物の途中でどこへ寄ればいいか、順番まで載せたら親切でありんしょう」
「そこまで考えるのか」
俺は思わず苦笑する。
「考えるのでありんすよ」
藤乃は顔を上げると、昔を知る者らしい自信のある笑みを浮かべた。
「あちきは何年、吉原で客を見てきたと思っておりんす?」
「……それもそうだね」
俺は苦笑しながら頷いた。
藤乃が太夫だった頃、何人もの客がどんな表情で店へ入り、何を眺め、何に心を動かされ、どんな土産を持ち帰り、何を楽しみにまた来たのか。それを誰よりも近くで見てきた彼女なら、客が吉原へ足を運ぶきっかけを考えるうえで、これ以上ない相談相手だ。
「それに、吉原へ来たことのない人間にも分かるようにするなら、堅苦しい書き方は駄目でありんすよ」
藤乃が筆を止め、こちらへ視線を向ける。
「『この店があります』『こういう催しがあります』だけじゃ面白くありんせん。『今日はここを見て、次にここへ行くといい』くらいまで書いてやったほうが、人は動きやすいものでありんす」
「なるほど……吉原の楽しみ方そのものを案内するわけか」
「そうでありんす」
藤乃は満足そうに頷いた。
「客は何をしていいのか分からないと、案外動かないものでありんす。けれど、選択肢を見せてやれば、自分で好きなものを選ぶんでありんすよ」
俺はその言葉に頷きながら、紙の一番上に新しい言葉を書いた。
――一日遊べる吉原。
「これを目標にしよう」
俺が書いた文字を見せると、藤乃は目を細め、その言葉をしばらくじっと眺めた。
「……いいじゃありんせんか」
やがて彼女は柔らかく笑う。
「昔の吉原を知っているあちきから見ても、ずいぶん面白い町になってきたものでありんす。でも、まだまだ変えられる。そう思わせてくれる言葉でありんすねぇ」
俺は少し照れながら、続きを話した。
「朝に浅草を見て、昼に吉原へ来る。芝居を見て、食事をして、買い物をして、祭りがあればそれを見る。夕方にはまた芝居を見る。そして夜になれば、それぞれ好きな遊びをする」
藤乃はその光景を思い浮かべるように静かに目を閉じ、それからゆっくりと頷いた。
「そうなれば、吉原は『遊女と遊ぶためだけの場所』じゃなくなりんすね」
もちろん、それを無理に否定する必要はない。遊女と遊ぶ客は今まで通り受け入れる。ただ、それ以外の人間にも扉を開く。
「吉原そのものを、一つの町として楽しんでもらうんだ」
俺がそう言うと、藤乃は扇子をゆっくりと開き、口元に笑みを浮かべた。
「そういう町になったら、昔から吉原を知っている客だって、また見直すことでありんしょうねぇ」
「うん」
俺も笑って頷く。
「そして、そのために最初に作るのは新しい建物じゃない」
俺は手元の紙を軽く持ち上げた。
「案内だよ」
「なら、急いで始めようじゃありんせんか」
藤乃はそう言って、昔と変わらぬ落ち着いた所作で扇子を閉じた。その表情には、かつて何人もの客を惹きつけた太夫の面影が残っている。
「吉原ってものを、もっと多くの人に知ってもらうのでありんす。遊女だけじゃありんせん。芝居も、料理も、買い物も、祭りも、芸事もある。『あそこへ行けば何か面白いことがある』――そう思ってもらえる町にすればいいのでありんすよ」
藤乃がそう言い切ると、俺も力強く頷いた。
「まずは、この吉原細見から始めよう」
そこから先は、吉原の各店から情報を集め、芝居の予定をまとめ、季節の催しを書き出し、女性客や地方から来た客にも分かりやすい案内を作る作業が始まった。
すでに作られていた吉原細見は、遊女や見世を知るための案内から、吉原そのものを楽しむための案内へと、その役割を少しずつ広げていく。
最初は一冊の細見に加える小さな工夫だった。だが、それは少しずつ形を変えながら、吉原全体を一つの町として見せるための計画へと広がっていった。
俺はその様子を眺めながら、自然と笑みを浮かべる。
吉原を変えるために、新しいものを次々に作らなければならないわけではない。すでにある店や施設を一つにつなぎ、それぞれを楽しむための道筋を作ってやれば、それだけでも吉原には新しい価値が生まれる。
そして、その価値を知ってもらうことができれば、冷やかしで吉原へ来た男も、ただ覗いて帰るだけではなくなるかもしれない。芝居を見て、飯を食べ、土産を買い、次は誰かを連れて来る。そうした客が一人、また一人と増えていけば、吉原そのものが少しずつ変わっていくはずだ。
「さて……忙しくなるぞ」
俺はそう呟きながら、もう一度帳面を開いた。
吉原を一日楽しめる町にする。そのために何が必要なのかを考えながら、俺は新しい案を一つずつ書き込んでいく。
その第一歩となるのは、新しい建物ではなく、すでにある吉原の魅力をまとめ、江戸の人々へ伝えるための――吉原細見だ。




