後編
写真を撮る旅を始める前、私は天然パーマ博士に尋ねた。
「博士、私は最初に何を撮ればよろしいでしょうか」
「え?そうだな…君の好きなものを撮ればいいと思うよ。僕がお願いしたのは『世界』って曖昧なものだしね」
そう言って博士は苦笑いをした。
「イエスマスター。それでは、最初の撮影をしたいと思います」
「お?何を撮影するんだい?」
「博士を撮ります」
「……なるほどね」
博士はカメラへ視線を向けた。
「十カウントで撮ります」
「ナナ、そういうときは『はい、チーズ』って……いや、いいか」
そう言って、博士は笑顔を向けてきた。
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1」
カシャッ。
そのとき撮った写真を手に、私は暗いバギーの中で考えていた。
「博士。残り一枚の最後のフィルムで、私は何を撮ればよいのでしょうか」
そう呟いても、答えてくれる人はどこにもおらず、
写真の博士は、あの日と同じ笑顔を浮かべたままだった。
やがて夜が明け、私たちはまた、何もない道をバギーで走っていた。
『ナナ、本日はどのようなものを撮影しますか?』
「うーん、どうしようか」
『何か撮影できそうなスポットを検索いたしますか?』
「いや、いいや。今日はなんとなく走らせるよ」
『……そうですか。承知いたしました』
しばらく、無言の時間が続いた。
いつもなら、私が目についた廃墟の話をして、ナビが理解不能だと返す。けれど、その日はエンジンの唸りだけが、空いた会話を埋めていた。
『ナナ、右手に朽ちた鉄塔が見えます。撮影しますか?』
「……いや。鉄塔は昨日撮ったから、いいよ」
『……承知いたしました』
私たちの間に、今まで味わったことのない空気が流れていた。
バギーを走らせ続けていると、住宅街にたどり着いた。
「住宅街か、久しぶりだね」
『はい。そもそも、住宅街の形が残っていること自体が珍しいですね』
「そうだね。ちょっと探索しようか」
そう言って、私は車を止めた。
掲示板には、もう読めない文字が並んでいた。広告は剥がれ落ち、壁には誰かが描いた子どもの笑顔らしき落書きだけが残っている。
「珍しいって言っても……やっぱり住宅街は、どこも似たり寄ったりだね」
『ナナ。あなたはいつもなら、以前に似たものを撮影していても、気にせずシャッターを切っていましたよね』
「……なんとなく、撮りたくない気分なんだよ。さあ、探索を続けよう」
しばらく歩いたところで、比較的状態のよさそうな家を見つけた。
「ナビ、運がよかったね。今夜は車中泊をしなくて済みそうだよ」
『そうですね。今夜はこちらの家に泊まりましょう』
私たちは、家の中へ足を踏み入れた。
状態がよいとはいっても、それは外から見た限りの話だった。室内には埃が積もり、壁や床のあちこちが朽ちかけている。
それでも、かつての暮らしの形は、まだ辛うじて残っていた。
『ナナ、私は二階を探索してきます』
ナビが二階へ向かったので、私は一階を調べることにした。
埃まみれの皿。ぼろぼろのソファ。画面の割れたテレビ。
「……百年前から止まった生活の気配。まさしく『世界があった証明』だね」
そのとき、壁に貼られた一枚の写真に気づいた。
「家族の、色褪せた写真……」
まさしく撮影すべきものだった。いつもなら、考える間もなく写真に収めていただろう。
私はファインダーを覗いた。
最後の一枚は、これでいいのだろうか。
シャッターに指をかける。
そのとき、背後から声をかけられた。
『ナナ』
「……ナビ。どうしたの? 何かあった?」
『いえ。ただ宿泊には問題ないことがわかりました』
「……なら、よかった」
私はシャッターを切らないまま、ファインダーから目を離した。
その日の夜。
ナビがスリープモードに入ったことを確認したあと、私は一人でバギーへ戻った。
後部座席に山積みになったアルバムを、一冊ずつ手に取る。
自然の風景。まだ朽ちていない建物。たくさんのヒューマンの笑顔。世界が終わってから撮った、数え切れないほどの廃墟。
その中には、観覧車の上で撮ったナビの後ろ姿も、天然パーマ博士の笑顔もあった。
どれも、「世界があった証明」になる写真だった。
「……私が撮った世界だけが残って、私は消えるのかな……」
いつの間にか、私はそのままスリープモードへ移行していた。
翌朝、ナビの声で目を覚ました。
『ナナ、こちらにいたのですか。家の中にいなかったので、探しましたよ』
「……おはよう、ナビ。今日の天気は?」
『……本日は2XXX年11月15日。晴れ、気温47℃、湿度14%、放射線量は……いえ。今日も撮影日和です』
……そっか。
「とりあえず移動しよっか。ナビ、どこか行きたいところはない?」
『私に目的地の希望はありません。ナナが撮りたいもののある場所へ行きましょう』
「……私も、今は撮りたいものがないんだ。適当に移動しよっか」
そう言って、私はバギーのエンジンをかけた。
私たちは目的地も決めず、海沿いの道を走り続けた。
何度か道を曲がったが、そのたびにナビが進路を提案した。
「ナビ。適当に走るんじゃなかったの?」
『はい。ですが、この先のほうが走行に適していると判断しました』
やがて道路の先に海が開け、空が夕焼けに染まり始めたころ、ナビが言った。
『ナナ、一度車を止めてください』
ナビからそう言われたのは、初めてのことだった。
「どうしたの、ナビ。何か問題でもあった?」
『いえ。ですが、確認したいことがあります。ナナ、一度車を降りてください』
言われるまま、私はバギーを止めて外へ出た。
「ナビ。確認したいことってなに?」
『ナナ。フィルムは、残り何枚ですか?』
私は一瞬、動きを止めた。
「……気づかれてたか」
そして、静かに答えた。
「残り一枚だよ」
『やはり、そうでしたか。昨日から一枚も撮影していませんでしたよね』
「そうだね。正直に言うと、最後の一枚で何を撮ればいいのか、全然わからないんだ」
「『世界があった証明』なら、何だっていいはずなんだ。それこそ、撮るべきものはいくらでもあった。それでも、シャッターを切れなかった」
『そうですか……』
「聞きたいことは、それだけ?」
『……一つ、提案があります。気に入らなければ拒否してください』
「何?」
『最後の一枚を、私に撮影させてくれませんか?』
予想もしなかった提案だった。
「ナビ、何か撮りたいものでもあるの?」
『はい。私は……』
ナビは一度、言いよどんだ。
『ナナ。私は、あなたを撮りたいです』
その言葉を聞いた瞬間、思考処理が一瞬停止した。
「……どうして?」
『ナナ、あなたはこれまで「世界があった証明」を撮り続けてきました』
「そうだね」
『けれど、あの観覧車の上で、あなたは景色だけでなく、私も写しました。なぜですか?』
私は、あの写真を思い出した。
夕焼けに染まる廃墟の街。その手前に、景色を見つめるナビの小さな背中が写っていた。
「……なんでだろうね」
答えはもう、私の中にあった。あとは、それを認めるだけだった。
「いや、今なら、わかるよ」
「ナビ。君が確かにこの世界にいたって、残したかったんだ。きっと」
『そうですか』
『それなら、私がナナを撮りたい理由も、わかりますよね』
『あなたは、世界を残すために、何度もシャッターを切ってきました』
『だから私は、そんなあなたがこの世界にいたことを残したいのです』
私はずっと、自分は写真の外側にいるものだと思っていた。
けれどナビにとって、私は残すべき世界の一部だった。
「……そっか。私も、この世界にいたって残したかったんだ」
そう呟いて、私は決めた。
「ナビ。最後の一枚、君に託していいかな」
『承知いたしました。ナナ、最高の一枚にします』
私はナビにカメラを渡した。
ナビは少し離れ、こちらへレンズを向ける。
『背景は夕焼けの海。最高のロケーションです』
『ではナナ、十カウントでいきます』
「ナビ、そういうときは『はい、チーズ』だよ、まあいいんだけど」
ナビがファインダーを覗いた。
『10、9、8』
そのカウントを聞きながら、私はこれまでの旅を思い出していた。
世界が終わる前の光景。たくさんのヒューマンの笑顔。
『7、6、5』
世界が終わったあとの光景。ナビと交わした、数え切れないほどの会話。
『4、3、2、1』
最後に、天然パーマ博士の笑顔を思い出した。
そして、その笑顔を真似るように、私はカメラへ笑顔を向けた。
カシャッ。
カメラから吐き出された白い一枚に、夕焼けを背に笑う私の姿が、ゆっくりと浮かび上がった。
それは、私が初めて写った写真だった。
それからも私は、終わった世界で相変わらずバギーを走らせていた。
『ナナ、これからどうしますか?』
「そうだね。まずは、どこかにフィルムが残ってないか探してみようよ」
『写真の撮影を続けたいのですね』
「うん。相変わらず暇だからってのもあるけどさ」
私は少し微笑んでナビのほうを見た
「まだ、二人並んだ写真を撮ったことがないでしょ。二人で旅をしたって証拠も、残したいじゃん」
『……そうですね』
「それじゃあ、行こうか……あ、ちょっと待って」
私はバギーを止め、身を乗り出した。
『どうしました?』
「いい感じに朽ちてる鉄橋だ。最高の被写体だよ」
『相変わらず、あなたの趣味はわかりません』
「……きっと、いつかは分かり合えるよ」
そう言いながら、私はファインダーを覗いた。
終末世界の写真家は、誰もいない世界を走っていく。
フィルムはもう残ってないのに、またシャッターを切るふりをした。
アポカリプス・シャッター・ガール 完




