045⚫️パンドラの場合
神話における「パンドラの箱」の物語は、古来「絶望の中の救済」という教訓として語り継がれてきた。しかし、その通説に立ち止まり、箱の中身の構成を凝視したとき、拭いがたい違和感に襲われる。
なぜ、ありとあらゆる忌まわしい「災厄」が詰まったその場所に、清らかなはずの「希望」が同等に混入していたのか。
これを単なる「神の慈悲」と受け取るには、あまりに状況が不自然である。
むしろそこには、人類を陥れようとした主神ダマスの、極めて陰湿で執拗な企みが潜んでいたのではないのか。
まず考えねばならないのは、箱(本来は瓶)の中にあったものの正体である。病苦、嫉妬、怨嗟、飢餓。これら明確な「悪」のリストの中に、なぜ「希望」が並んでいたのか。
もし「希望」が純粋な善であるならば、それは「神々」の住まう聖域に置かれるべきものであり、災厄の監獄に閉じ込めておく必要はない。
神話において、ダマスはプロメチャウスから「火」という知恵を盗んだ人類を、徹底的に苦しめるためにパンドラを送り込んだ。その復讐心が本物であるならば、そこに一点の曇りもない「救い」を紛れ込ませるはずがない。
ここで一つの恐るべき仮説が浮かび上がる。「希望」とは、人間が苦痛から逃れるための道具ではなく、苦痛を永遠に引き延ばさせるための「装置」だったのではないか、という点だ。
つまり、「神」の視点に立てば、神話の中での「希望」もまた「災厄」の一種、あるいは「災厄」を完成させるための「最後の部品」として設計されていた疑いがある。
もし箱の中に「災厄」しか入っていなければ、人類はその圧倒的な絶望の前に、早々と未来を諦めていたかもしれない。しかし、底に「希望」があったことで、ヒトはどれほど打ちのめされても、「明日は良くなるかもしれない」という期待を捨てられなくなった。
「希望」があるからこそ、人は災厄に耐え忍び、力尽き横たわることすら許されず、終わりのない煩悩・苦悩の中に繋ぎ止められる。これこそが、ダマスが仕掛けた残酷で陰湿な真の罰だったのではないか。
また、パンドラに「好奇心」を植え付けたのが「神」自身であるという点も、この企みの悪質さを裏付けている。
開けることが分かっている者に、開けてはならないと命じ、その中身に致死性の毒と、それを打ち消すかのように見えて実は苦痛を長引かせる薬を混ぜておく。
パンドラが箱を開けたのは彼女の過失ではなく、神によって書かれた台本通り踊らされた結果に過ぎない。
「最後に希望が残った」という結末を、私たちは「救い」という美名で粉飾してきた。しかし、その実態は、「災厄」という名のムチと、「希望」という名のアメを同時に与え、人類を永遠に煩悩・苦悩の円環に閉じ込めた「神」の冷笑的な勝利宣言ではないのか。
箱の底に沈んでいたものは、輝かしい光などではない。それは、絶望を絶望として完結させないための、最も巧妙に偽装された「最悪の災厄」だったのかもしれない。
ヒトは「神」をモデルにして誕生したとも言う。ならばヒトが「神」の行為を模倣することも頷ける。「安易な希望」に縋る者が、最も深い闇へ向かうことを、私たちは歴史の闇から知っている。
だが、それでも・・・わたしもまた、「明日への希望」に望みを繋いで日々を生きている。人偏に夢と書いて「儚い」と読む。儚なくとも満ち足りた人生という「希望」は、果たして叶えられるのだろうか。




