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第4話 「田舎」


「ごめんな郁斗……お父さん、医者なのに患者を見捨てたんだ」


秩父へ向かう車内で、父は不意にそう切り出した。

ハンドルを握る指の節が白く浮き、身体はわずかに震えていた。


「別に……その方が良いと思うよ。だって、もう無理じゃん……」


暗い表情の父を慰めるためではなく、本心だった。

命を懸けてまで、地獄のような病院に戻るべきだとは思わない。


「それでもな。今も闘ってる医者は大勢いるんだ……やっぱり、お父さんは見捨てたんだよ」


父の視線の先には、いまだ防護服に身を包む同僚たちの幻影が見えているようだった。


「あなただけじゃないでしょう。もっと早くに退職した人だっていたもの……耐えた方だわ」


母もまた、罪悪感のようなものがあるのだろうか。

後部座席で荷物に挟まれている俺からは、その表情が伺い知れない。


「それに、私たちには郁斗がいるんだから」


最後に、そう小さく付け加えた。

それはまるで、言い訳のようだった。


聖職者だろうと、人は人だ。

見知らぬ誰かよりも、家族や自分を優先して何が悪い?

責める資格なんて、きっと誰にもないはずだ。


そんなことを言う奴がいるとしたら、それは自分だけが可愛い奴だろう。

いざという時に、自分を守ってもらいたいだけの下らない人間だ。


再び沈黙に包まれた車内で、エンジン音だけが一定のリズムで流れ続ける。

俺は段ボールに押されながら、やり場のない思考を胸の奥で転がしていた。




◇◆◇




二時間半ほどで、祖父の家に辿り着いた。


車のドアを開けた瞬間、秩父の冷たい空気が肺に流れ込む。

身体を大きく伸ばすと、骨が軋むようだった。


昼間だろうと、冬の秩父は恐ろしく寒い。

それでも真っ白な犬は、元気よく吠えている。


ふかふかの毛並みをしたサモエドのシッポだ。


夏休みは両親が忙しくて来れなかった。

シッポに会うのは、春のゴールデンウィーク以来だった。


「わあああぁ~! シッポ! よし、よしよし!」


嬉しそうに跳び跳ねる姿に、俺まで嬉しくなる。


鎖に引っ張られて首が締りそうになっても、全力で飛びかかってくる。

そうした姿が、たまらなく可愛らしい。

これでもかと、その毛並みを撫で回した。


東京では、孤独な時間が長かった。


その分だけ、この騒がしさが胸に沁みる。


「ただいま、親父! 来たぞ――!」


玄関で父が声を張ると、家の中から低い返事が返ってきた。


父は玄関先ギリギリまで近づけた車から、荷物を次々下ろしていく。


これからお世話になる祖父に、母は丁寧にお辞儀をした。


シッポのことは大好きだが、祖父のことはそうでもなかった。


坊主頭は雪のように白く、皺だらけの肌は日焼けのせいで浅黒い。

父には全然似ていない、何とも頑強そうな男だ。


昔、近くの川を覗き込んでいたときに、遠くから大声で叱られたことがある。

それ以来、ちょっぴり……いや、かなり怖いイメージがこべりついた。


遊びに来ても、あまり笑わず、喋らず、黙々と働いてばかりいる人だ。


だからこそ、不安だった。

ここで、上手くやっていけるのかと。




◇◆◇




祖父の家は、山の麓にある。


山はまだ紅葉を残しているが、頂から順に色を失い、冬へと沈みつつあった。

朝は驚くほど白い息が立ち、握るシッポのリードがかじかむ。

傍を流れる川は透き通り、石の輪郭までくっきり見える。

一面の刈り終えた田んぼは淡い藁色で、風が渡るとさやりと鳴る。

シッポは、その畦道あぜみちを行くのが好きだった。


人家はまばらで、遠くの軽トラのエンジン音がやけに響く。

空は高く、匂いは乾いた土と落ち葉の混じったものだった。

とにかく長閑のどかで、空気が澄んでいる。


こんな土地にも、魔素が漂っているのだろうかと疑いたくなるくらいだ。


散歩を終えると、朝食の支度はすでに整っていた。

朝からだというのに、随分と人らしい食事だった。


薪ストーブの上で温め直された昨日の猪汁。

大根、里芋、葱なんかがゴロリと入り、七味をかけると湯気とともに野生の匂いが際立った。

米は炊き立てではなくても、粒がしっかりしたものだ。

目玉焼きの横には、自家製の沢庵と野沢菜が添えてある。

ここの漬物は絶品で、俺の大好物だった。

真っ先に一つかじると、ぽりぽりと小気味よい音が鳴る。


自給自足の生活が、これほどまで良い物だとは思わなかった。


段々に切られた畑では、下段は米。上段は畑作。

大根は土から半分顔を覗かせ、白菜は縄で縛って霜を防いでいる。

シッポの他に鶏を六羽も飼っていて、毎日二、三個の卵を産み落とす。


家の脇には屋根付きの薪棚があって、とても使い切れぬ量の薪を乾燥させている。

その軒下には、大量の干柿や干し大根が吊るされていて、これも楽しみである。


極めつけは、猪や鹿肉を詰め込んだ大型のチェスト型冷凍庫。


瓶に詰められた食料、漬物樽……まだまだこの家には、沢山の食料が隠されている。

まさに、思い描く田舎の理想形が、ここにはあった。


「今年は米も気合入れたからな、好きなだけ食って良いぞ」


バクバクと米をかき込んでいると、祖父は柔らかな表情で言った。

皺の奥に、柔らかな光が宿る。


最近では、乾パン一食分を朝と昼に分けて食べていた。

減っていく備蓄が怖かったからだ。

乾パンの粉っぽさを思い出してしまい、思わず味噌汁をもう一口啜る。


こんな生活が出来るなら、もっと早くに来たかった。


「親父、本当にすまない……落ち着くまでは世話になる」


父は改まったように、箸を置いて頭を下げた。


「――これ、頭上げろぉ。婆さんも死んじまって、俺も寂しかったからな。

浩一に言われた通り、今年は可能な限り備えておいた。安心していいぞ」


その言葉に、父は目頭を押さえた。


「美月さんも、自分の家だと思ってくつろいでくれな。

看護師さんだから、忙しかったろう」


祖父は、思っていたよりずっと優しかった。


怖い印象を持っていたが、それは勝手な苦手意識からだった。

そういうフィルターが、一枚一枚剥がれていく。


「郁斗はこっちでは学校行くんか? 東京では閉まってたんだろ?」


「えっ……こっちは学校やってるんですか?」


東京の学校は、大体どこも閉鎖中だ。

爆破作戦の噂とか、大規模デモの影響もあったし、

生徒や先生から魔素感染者が出たとかで割とすぐだったが、どうやらこっちは違うらしい。


やはり空気が澄んでいるからか……。

それとも、都会が単に過敏だっただけなのかもしれない。


「――親父。とりあえず、状況が落ち着くまでは考えてない。

そもそも、向こうの学校にもまだ何も言ってないしな」


父が答えた。


まぁ、自分で言うのもなんだが、勉強は学年で一番出来る方だ。

塾に通わなくとも、小4の内容では退屈なくらいだった。

来年の春までは、どちらにせよ通わなくてもいいだろう。


なにより――田舎に転校して、いきなりイジメなんかに遭いたくなかった。




◇◆◇




良いニュースは、唐突に舞い込んだ。


世界の魔素感染者は増え続けていたが、それと軌を一にして“克服者”が現れ始めたのだ。


体内へ侵入した魔素が暴走せず、一定量で定着する。

異界から伝え聞いていた通り、定着した魔素は魔力を生み、宿主の身体能力を底上げするらしい。

割合はおよそ二割と、決して高くはないが、希望を持たせることのできる数字だった。


さらに朗報が続く。


アメリカの企業が、体内での魔素増加を抑制する薬剤の開発に成功し、緊急承認されたという。


一定の効果が確認され、即座に増産体制へ移行。

国内で流通が始まり、いずれは世界中に広がる見通しだと報じられた。


地球人は、魔素を克服しつつある。


その事実は、地球人の凍てついていた心に小さな火を灯した。

散歩の足取りが、自然と軽くなる。


「シッポぉぉ~! やった、やったぁ~!」


俺が嬉しさのあまり駆け出すと、シッポも本能に火が付いたように駆けだした。


さすがシッポ……凄いパワーである。


(春には、東京に帰れるかなぁ……)


低く垂れ込める雲を見上げながら、胸の奥で期待がふくらんだ。




◇◆◇




年末年始も、俺たちは秩父で過ごした。


朝晩の気温は当然のように氷点下へ落ちる。

数日前の雪が、陽の当たらない場所でまだ白く残っている。

地面の霜を踏み鳴らすと、ザクザクとした感触が心地良い。

東京のコンクリートの地面では、中々味わえないものだ。


干柿も取り込み、家族総出で餅をいた。

保存食は十分。

湯気の立つ鍋を囲み、もらい物の蜜柑を剥き、コタツで転寝うたたねしたりする。

祖父は秘蔵の酒瓶を持ちだし、上機嫌で酒を振る舞った。


大晦日も初詣も、外出自粛の御触れが出ていた。

年明けの駅伝も今年は中止。

それでも、冬らしさを失うことなく楽しく過ごした。



秩父に来てからは、時間だけはあった。

俺は祖父の後ろを影のようについて回り、生活の知恵を教わるようになった。

どれも生活に根差した実用的な知識や技術ばかりだ。


一緒に連れていってはくれなかったけれど、祖父は狩人でもあった。


刃物の研ぎ方。薪の組み方。罠の見分け方。天気の読み方。

授業では教わることのない、生きるための技術も習った。

無口だと思っていた祖父の話は面白く、俺はどんどんと吸収していった。


祖父が死んでしまえば、技術の継承は途絶える。

その手が止まれば、田畑はすぐに荒れる。きっとこの家は瞬く間に錆びつくはずだ。

少しでも多くを引き継ぎたいという気持ちに、自然となっていた。


祖父も、そんな俺を可愛がり、丁寧に丁寧に教えてくれた。






秩父での日々は、穏やかに流れていく。

気づけば、桜の蕾がふくらみ始めていた。


だが――東京へ戻る日は、来なかった。


魔素感染者は増加の一途を辿り、死者もまた増え続けた。

やがて、残酷な統計が明らかになる。


“四十代以降”の感染者は、九割を超える死亡率に達していた。


一時は明るく報じられた克服例も、その大半は子どもや若年層だった。

この病は、まるでふるいのように、肉体の全盛期を過ぎた者を選別した。


アメリカで話題となった薬も、やがて問題が発覚する。

免疫力を著しく低下させる副作用。突然死なんて噂もある。

しかも、服用を止めれば、魔素増加は再び進行を始めたそうだ。


父は今年三十七歳。母は三十五歳。


万が一、魔素感染を発症した場合、助かる保証はない。


祖父に至っては――考えたくもなかった。


俺たちはテレビの前で、“九割以上”という言葉を、何度も反芻はんすうしていた。


やがてニュースでは、若者たちがどんどんと外出を再開するようになったという。


若いほど克服できる割合が高い。

一度罹患して克服すれば、魔力に目覚め、身体能力が向上する。

確かにどちらも事実だった。

むしろ罹るのが遅いほど、死亡確率が上がるとデータが示している。


だが、死ぬ確率はゼロではない。


彼らは都合のよい解釈に飛びつき、暴走を始めた。


釣った魚をその場で捌き、調理して食べる動画配信者。

東京湾の浜辺で、海水に足を付けながらピースサインを決める若者。

それに感化されて、安心してしまう子どもたち。


そういった姿は、世間を再び騒がせた。


(あいつらは……両親や祖父母がもう居ないのか?)


画面越しの笑顔が、同じ人間じゃないみたいで、なんだかとても恐ろしかった。






◇◆◇




結局、俺たちは東京へ戻らない選択をした。


深海に眠る《アビサル・フローラ》の駆除活動は、まだまだ終わっていない。

発生源に近い環境に戻るのは勇気がいったし、この秩父での生活が合っていた。

四月からは、正式に転校手続きを済ませ学校にも通い始めた。


授業以外の時間は、ほとんど祖父の後を追った。

四十代以上はほぼ死ぬという情報が、無意識に俺を急かしていたのかもしれない。

水路の泥を掻き出し、田植えの準備をする。


五月中旬に田へ水を張り、六月に苗を植えた。


畑では野菜が次々と芽吹き、収穫され、また新しい種が蒔かれる。

気付けば夏も、あっという間に過ぎ去っていく。

水面に映る空が濃くなり、苗は膝の高さを越え、やがて黄金色の穂を垂らした。

鎌を入れ、干し、籾を外し、白い米が升に溜まる。


その間に、袖が短くなり、俺の背も少し伸びていた。


色鮮やかな紅葉は落ち着きを取り戻し、山の色はまたせていった。

二度目の秩父での越冬。


植物の成長は緩やかに見えて、振り返れば驚くほど速い。

きっと、俺も同じだ。


気づけば、十二歳になった春。


――小学六年生。


小学生を卒業し、中学生を意識し始める歳。

来週、将来の夢を発表するという授業がある。

それまでに、なりたい将来像とその理由を考えてくるのだという。


医者として頑張っていた父。

田畑を育み、狩人として命を狩る祖父。

異界に渡って、まったく新しい人生を歩むと思っていた――あの日の自分。


その答えを――発表することはなかった。


教師の人員不足により、学校は再開未定の学年閉鎖になった。


二年前の春から、人は静かに減り続けていた。


ついに生活維持ができなくなるほど、深刻さを増していた。

人数以上に、四十代以上が亡くなり続ける“偏り”が、大きなひずみとなってのしかかる。

足りなくなったのは教師だけではない。医者も、役場の職員も、農家だって奪われた。


文明という歯車は、ギリギリの人数で回されている。

だが、その歯車がいま、止まろうとしていた。


山は変わらない。俺たちの暮らしも変わらない。

だが、その生活のすぐ外側で、生活は確実に土台から崩れ始めていた。


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