9年目(1188)
一月×日
今年で姫様は40。
孔子のように、姫様にも年相応に不惑な言動を身につけていただきたいものである。
二月×日
姫様と、我が家で梅を見る。
梅の香りと言おうとして、間違って姫様の香りと言ってしまった。
そのせいで散々からかわれる。
年がら年中梅の香を焚いている姫様が悪い!
俺は悪くない!
三月×日
長年にわたって編集を続けてきた勅撰集がいよいよ完成する。
父は『千載和歌集』と名付けた。
撰者の一人である自分が言うのもなんだが、非常に優れた勅撰集であろう。
もちろん古典中の古典たる古今集の完成度には至らないが、白河院の勅による『金葉和歌集』に比べたら雲泥の差がある。
金葉集は、勅撰集のなんたるかをまるでわかっていない出来であった。
それに対して父はさすがである。
「王朝の文学とはかくあるべし」という典型となるような編纂であった。
今日、父は俺におっしゃった。
「お前が勅撰集を作るときは、その名を『新古今和歌集』とし、かの古今集に比肩する書とせよ。俺を超えろ」
その激励に俺はいたく感激した。
その期待に重圧を感じるとともに、やる気が漲る。
四月×日
先日『千載和歌集』が院の奏覧に供された。
その出来栄えに、院はたいそうお喜びになったそうだが、父上の歌があまり多くないことに不満を述べられたそうだ。「編者だからといって遠慮せず、自分の歌をもっと入れよ」とおっしゃられ、父もしぶしぶ了承し改訂することあいなった。
院はわかっていない。
なるほど父の歌はどれも御前上等の秀歌ばかりである。
しかし勅撰集とは秀歌の一覧ではないのだ。
そこに含まれる歌は、他の諸歌との連関のうちに、ひとつの壮大な世界観を提示する。
いや勅撰集とは、それ自体がひとつの世界でなければならない。
そこには、春夏秋冬の季節のうつろいがあり、
恋愛の始まりから終わりまでがあり、
人生というものの喜怒哀楽があり、
そしてそのすべてが、しかるべき秩序と順序で配されねばならない。
父はそのことをわかっているから、とるにたらない凡歌でも、
全体から見て必要だと感じたら採用するのである。
自分の秀歌よりも、全体に寄与する凡歌を重視するのである。
院はまるでわかっていない。
五月×日
姫様から「あなたの歌が勅撰集に8首も採用されたのですってね。おめでとう」という旨の文がきた。
これは姫様の嫌みだ。
というのも、姫様の歌は9首も採用されたのだから!
俺よりも1首多い!
くやしい!
姫様の意地悪な笑みを浮かべたかんばせが目に浮かぶ!
六月×日
朝廷と鎌倉殿の関係性がだいぶ改善されてきた。
これも兼実殿の尽力故であろう。
俺も微力ながらお手伝いをしていたきたい。
七月×日
殷富門院大輔を中心に、歌人たちとお茶をする。
秋に連歌の歌合をすることになったので、その打ち合わせを兼ねている。
殷富門院大輔はもうすぐ還暦なのに、矍鑠として気品にあふれた女性である。
どこぞのお姫様にも見習わせたい。
主だった話題は院の寵妃についてであった。
丹後局というらしい。
院は還暦を超えているはずなのに、未だ好色の衰える気配がない。
さすがに遊女や下々の女に手をだす真似は、最近ではしなくなったらしいが。
それにしてもお元気なことだ。
加えて、また今年も熊野御幸をしたいとおっしゃっているとか。
熊野御幸は財政を圧迫するから、正直やめてほしいのだが。
30回以上も熊野にいっているのだから、もう良いんじゃないか?
というかあの年でよくもまぁ1月かかる御幸を頑張るものだ。
最近、鎌倉殿から「大天狗」と揶揄されているらしいが、正鵠を得ている気がする。
八月×日
姫様からの文の中に
「あなたのご両親がどういう経緯で結婚したのか気になります。嵯峨野の件は聞き及んでいるけど、それ以上のことは、ねだっても教えてくれないのです。あなたから聞き出してちょうだいな」
とあった。
姫様と母が懇意にしているなんて初耳だ。
いったいいつからそんな話をするようになったのか。
というか嵯峨野の件ってなんだ?
まぁ再来月、母に会う機会があるからそのとき聞いてみるか。
九月×日
殷富門院大輔の宅で連歌の会。
連歌を今様の一種として蔑視する者もいるが、その起源は『古事記』に遡る。
筑波の道での日本武尊と火ともしの翁との問答が、連歌の原型だ。
『古事記』に起源を求めるなんてとバカにする者もいるが、あの書物に描かれていることは、すべて我々の心の原風景であろうと、俺には思える。
たとえば歴史上最初の和歌とされる素戔嗚命の
「八雲立つ出雲八重垣妻籠に 八重垣作るその八重垣を」
とても素朴で意味内容は不詳だが、しかしそれにもかかわらず何か我々の心を揺さぶる歌だ。
古今集仮名序に「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」とあるように、太古の昔から現代に至るまで、心あるところにはまた歌もある。
我々は古典に、現代のあり方の起源を見出すことができるのだ。
十月×日
母に話を聞いてみた。
俺の母は以前、北家長良流の為経に嫁いでいた。
しかし為経殿は或る日突然出家。母は離縁されてしまう。
その後、気落ちしていた母は、気分転換のため嵯峨野に遊びに行ったそうだ。
嵯峨野で紅葉狩りをしていた母に、父は一目惚れ。
あの厳格な父が一目惚れというのはまるで信じられないが、母本人そう言っているし、他にも証言者が多数いるので嘘ではないらしい。
その日から父は母に文を毎日書いて送ったようだ。
もう気持ち悪いくらいたくさん文を送ったらしい。
母はドン引きした。
突然の離縁で男性不信に陥っていた上に、そんな気持ち悪いことされたのだ。
母は、父の文をガン無視。一切返信をしなかったそうだ。
たまりかねた父は或る日
「仕方がない。でも来世では結婚してください。このままじゃ辛くて死んでまう」
という想いを込め、
「よしさらばのちの世とだに頼めおけ 辛さにたへぬ身ともこそなれ」
と歌を詠んだらしい。「結婚してくれなきゃ死ぬ!」と半ば脅しである。
それに対して、母は
「来世のことは約束する。でも今生ではその契り(約束)で我慢せーや。契り(結婚)は儚い夢だと思って諦めろ」
という意味で、
「頼めおかむたださばかりを契りにて うき世の中の夢になしてよ」
と返したらしい。
「それで諦めるかと思ったけど、まぁいろいろあって絆されちゃったというわけ」
と母は言う。
いやその「いろいろ」を聞きたいのだが。
「それはいろいろよ、いろいろ。他人に聞かせるつもりはないわよ。本当に大切な思い出というのは、誰かに話すべきものじゃないのよ」
変なところで頑固な人だ。
「まぁ私のこういうところに、あなたは似ちゃったわね。激情的で一途なところは、あの人似。まったく我が子ながら難儀な性格だこと」
結局、それ以上のことは教えてくれなかった。
十一月×日
昨夜は良経殿のお宅にお招きいただき、思う存分に歌を詠んだ。
夜を徹して読んだのでさすがに疲れたが、しあわせだ。
十二月×日
父と晩酌をする。
父は非常に興味深い話をしてくださった。
平忠度という平家の武将がいた。
以前、父に師事して歌を習いに来ていたので、何度か俺も会ったことがある。
平家一門が都落ちして以来会うこともなかったが、数年前に一度だけ、人の目を避けて父の屋敷を訪問したらしい。
朝敵たる平家の者である。見つかったら斬首され五条河原に晒されることは間違いない。
なのにそんな危険を冒してまで一体何をしに訪れたのか。訝しがる父に、忠度は巻物を手渡し、言う。
「平家一門の命運はすでに風前の灯。私もいずれは合戦の地で果てることでしょう。しかし何もなさずに生涯を終えるのは口惜しくてたまりませぬ。そこで私の生涯の面目に、一首、ただ一首だけでも、歴史に名を残しとうございます。忠度という男がいたのだと、優れた歌を詠み、戦乱に散っていったのだと。自分の生きた証を残したいのでございます。この巻物に100余の歌を書き申した。勅撰集にふさわしいものがございましたら、選んでいただきたいのでございます」
それに対して父は「あいわかった」と約束をした。
「その言葉をいただけた今、西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、という晴れ晴れとした気持ちであります。もうこれでこの世に未練もありませぬ。それではさらば!」
そう言って忠度はその場を後にしたそうだ。
その巻物には優れた歌が何首も記されていたが、平家は朝敵。勅撰集に入れるのは一首だけにとどめるべきであろう。それも、平家の名を出すのはまずい。
父は「これだけの歌人をこのように扱うのはまことに遺憾ではあるが」と思いつつ、「よみ人知らず」として、次の歌を採用なさった。
「さざなみや志賀の都はあれにしを 昔ながらの山ざくらかな」




