第一幕 一歩
栗花落杏寿は四歳の誕生日から十五歳の誕生日まで世界を旅した。
最初は満州へと船で渡り、中国からシルクロードと呼ばれた道を辿って欧羅巴へ行き多くの国を巡った。
そして米国で十五歳の誕生日を迎えた。
『買われたのかしら。可哀想ね』
『あの旦那は少女趣味だったか。どんな事を教え込まれているんだ?こんなに可愛ければ教えがいがあるだろうよ』
『君が望むなら私が連れ出してあげる。アンジュ、だから私の手を取らないか?』
渡る国の先々で言われてきた言葉だ。
杏寿は一人で住んでいた日本を飛び出した訳じゃない。
『九尾の狐』の手を取って世界へと飛び出した。
そう、買われたわけでも拐かされたわけでもない。自らの手で妖の手を取ったのだ。妖より恐ろしい人間から逃げるために。
最初は慣れない環境で不安が尽きなかったが人間は慣れてしまう便利な生き物、すぐに慣れてしまった。
何より杏寿の唯一の味方、李耀がずっと傍にいてくれた。
耀は杏寿を『お姫様』と呼び、どんな場所でも生き残る術、戦う術、たくさんのことを教えてくれた。
だから杏寿は変わりゆく日本で生きることもできている。
付け加えるなら杏寿の隣にはもう耀はいない。
なぜなら十五歳の誕生日に杏寿が耀を殺したからだ。
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「うわぁん!何で実動部隊と調査部隊の入学式の日程違うのぉ!?」
杏寿は文句を垂れながらズボンをサスペンダーのくわえカンで固定する。
姿鏡に映る杏寿の後ろで忙しなく準備を手伝うナーシャ・ヴェラバスがクスクスと笑った。
彼女は現在、杏寿が住まう館の唯一の女中だ。
ここに住む際、海外でずっと生活していた杏寿を気遣って杏寿の父が雇用した。
「笑いごとじゃないよ、ナーシャさん!」
「でもお嬢様、『めんどくさいからこれでいいや』ってくじ引きで決めてたじゃないですか」
「だってその時はどこでも良かったんだもん…」
不貞腐れる杏寿にナーシャはネクタイを結ぶ。
ナーシャは外国人だが日本語も巧みに使いこなし、杏寿がたまに英語で話してしまう時も華麗に英語で返事してくれる完璧な女中だ。
杏寿はナーシャの金色の長い睫毛を眺めながら自身の過去の言動を思い返す。
昨年の十二月。十六歳を迎えて三日が経った頃、杏寿は一刻も早く自立するために日ノ本軍学校に入学するため書類を書いていた。
日ノ本軍学校。日本の首都、帝都にある新宿区に校舎は建っている。
そして二年後に陸軍、海軍、白夜軍に所属するため一人前の兵士を目指す候補生達が切磋琢磨、鍛え合う場所だ。
杏寿が配属希望として提出した先は白夜軍調査部隊だった。
配属先の候補は調査部隊と実動部隊の二つだけ。杏寿は日本のどこにでも行けるなら調査部隊がいいかも、なんて呑気な理由で選んでしまったのだ。
書類を提出した頃はそれで良かったのだが、それから一ヶ月後に行われた白夜軍適性試験で初めて杏寿の心をときめかせた先輩に出会った。
出会ってすぐに別れてしまったが後に杏寿は先輩が実動部隊の所属ということを知ったのだ。
そこから杏寿の気分は下がりに下がり、文句を垂れる現状に至るというわけだ。
「見習生のうちなら変更も可能なんじゃないですか?ワタシはあまり詳しくないですけど」
「やっぱり提案するしかないよね。うん、先輩と一緒に仕事するにはそうするしかない!」
「逞しいですけど目立った程々になさった方が良いのでは?旦那様や奥様に連れ戻されますよ」
杏寿の茶色の髪を梳くナーシャの言葉で眉間に皺ができてしまった。
そもそも自立するため、ひいては栗花落家の援助も無しで生きるために軍学校に行くことを決めたのだ。
なのに問題を起こして実家に引き取られるなんてことは絶対に避けなければならない。
杏寿の父は海軍将校で兄も海軍に在籍している。杏寿が何か事を起こせば早々に彼らの耳に届いてしまう可能性がある。
するとナーシャが鏡に映る険しい顔をした杏寿を呼びかけた。
「お嬢様、御髪はいかがしますか?何でもナーシャにお任せくださいませ」
「うーん、そうだなぁ…」
刹那、杏寿の脳裏に先輩がよぎった。杏寿とは違い、先輩は真っ黒な艶のある髪を一つに結える姿だった。
杏寿の口角は自然と上がり、化粧台の引き出しを開けて白いシルクで作られた髪紐を取り出す。
「ポニーテールでお願いします!」
「かしこまりました」
優しい手つきでナーシャは杏寿の髪を束ねていく。
思えばこうして髪を結われるのは耀以来だ。
そのことに気づくと心の置き場を見失い、落ち着かなくて気恥しくなる。
明日からは一人で挑戦してみよう。自立へより近づくために。
耀は杏寿に生きていくために必要なことを教えてくれた。料理、洗濯、仕事、人の心理、戦闘。
だが唯一、髪の手入れだけは教えても実践させることはさせなかった。
楽しみを奪わないでください、と苦笑いしながら言っていたのをよく覚えている。
だから杏寿の髪は自身でも誇れるほどに美しい。
「お嬢様、できましたよ」
「ありがとうございます。はあ…そろそろ出る準備するかぁ…」
「では車の手配をして参ります」
ナーシャは一礼すると部屋を出ていった。
笑顔でその姿を見届けた杏寿は一人になった部屋で静かに扉の鍵を閉めた。
そしてナーシャが止めてくれたジャケットのボタンを外す。
「人を信じない」
いつも使ってる引き出しの鍵を開け、そこに入れている銃を二丁、取り出して弾丸を込める。
銃がちゃんと作動するか確認しながらボディを指でなぞる。いつでもセーフティを外せるように準備したまま、ジャケットの裏に着いてあるホルスターに入れた。
腰の部分に薬莢を装着したベルトを巻き、ジャケットの裾で隠す。
「常に疑え」
耀の教えを小さく呟く。
ジャケットの裾の内側に小さな引っ掛けがある。そこに万年筆を差し込む。
「全ては己の武器になる」
ふと姿鏡に映る自身を見る。
そこにはさっきまでいた無邪気に笑う杏寿ではなく、『生きるために特化した杏寿』がいた。
どんな場所でもどんな人間がいても呑まれず、栗花落杏寿としていれるようにと十一年かけて耀は杏寿をそういう風に育て上げた。
「ま、使う事態にならないのが一番いいんだけどね」
ジャケットのボタンを締め、鏡を見てちゃんと口角が上がるか確認をする。
もちろん、表情も武器だ。武器の手入れを怠ってはいざと言う時に使えなくなる。
表情筋の運動を済ませ、扉の鍵を開けて玄関口まで向かう。そろそろナーシャが車を表に動かしている頃だろう。
ありがたいが送迎は今日までにしてもらおう。
(見習生の中には貴族の子供もいるから目立つ心配はあんまりないかもしれないけど…用心用心)
杏寿を見つけたナーシャは車の扉を開けた。
こうした令嬢故にされてしまう高貴な扱いに最初の数ヶ月は違和感があった。
だから断っていたが、そうするとナーシャ達の仕事を奪うことになる。反省した杏寿は違和感を感じながらも甘んじるようになった。
車に乗り込み、扉が閉められる前に杏寿はナーシャに声をかけた。
「ナーシャさん、明日からは歩いていくから」
「え?ですがそれでは私達でお嬢様を守れません」
「むしろこの国で車を所有している方が珍しくて目立つから逆効果。もちろん、気持ちはありがたいけどね」
「まあ、そうでしたか…タカフミ、あなたはどう思います?」
ナーシャの呼びかけに運転席に座っていた七海孝文が気怠そうに振り返った。
仕事で日焼けした肌に映える猫のように釣りあがった大きな瞳と尖った八重歯が目を引く杏寿の護衛兼館の清掃係だ。
孝文は杏寿を一瞥した後、少し首を傾げた。二十八歳なのに童顔のせいで子猫のようにも見える。
「お嬢がいらないって言ってるんだから別にいいんじゃないですか?俺としては仕事が減るんでありがたいし」
「ウマシカタカフミ!アナタ、ちゃんと考えてから発言しなさいな!」
「えぇ?だってお嬢、俺より強いし心配いらないって。ねえ、お嬢?」
話の矛先を向けられて杏寿は首を傾げて「そうかなぁ?」と笑うしかなかった。
実際、出会って一日目に杏寿は孝文と手合わせをして勝っている。
何も孝文が弱いというわけではない。杏寿の戦い方が少し特殊だったというだけ。
その点を考慮すれば孝文の方が戦士としては洗練されている。護衛として選ばれた理由も分かる。
「というわけで扉を閉めてくれナーシャ。お嬢が遅刻しちまう」
「アナタのせいでしょうに!お嬢様、まずはお気をつけて。ナーシャは帰りをここで待っていますから!」
「うん!いってきます!」
扉は閉まり、車はエンジン音を鳴らして発進する。
小さく遠ざかっていくナーシャの姿に杏寿は振り返って手を振り続けた。
いつしかナーシャも館も見えなくなり、杏寿は手を下ろして前を向く。
その行動を待っていたかのように孝文が口を開いた。
「お嬢、帰る頃に連絡ください。明日から送迎はお望み通りしませんけど今日はやらなきゃいけない仕事の一つなんで勝手に帰らないでくださいよ」
「うん、ニシキで連絡する」
文明の発展が他国より何倍も進んでいる日本で生まれた小型連絡機、それが『ニシキ』だ。
電話、文字を使ったメッセージを他者へ送る機能、追跡機能、辞書のように物事を調べられるインターネット、景色などをその場で切り取れる写真や動画機能、それらが全て備わっている。
海外にはない日本独自の発明品であり、耀が海外で使えないこと悔やんでいたのをよく覚えている。
ニシキは一般の民間人が買うには高価すぎて手が出せないものだが軍では連絡手段として支給される。杏寿が使っているこのニシキも支給品だ。
杏寿はチョーカー型ニシキの電源をいれ、画面を開く。
連絡先一覧にはナーシャと孝文の連絡先しかなかった。二人は軍から支給されたわけではなく、栗花落家から支給されている。
二人しか名前のない連絡先一覧を見て杏寿は笑みを浮かべた。
「何か企んでます?」
「へへ、卒業までにここの連絡先一覧を埋めようと思って!」
「ほぉ、友達がいっぱいできるとイイっすねぇ」
「Oui!どんな人がいるのかな〜」
ニシキの電源を落とし、座席に体を預ける。
窓の外で流れていく桜並木を眺めた。ソメイヨシノの花弁が春嵐に攫われていく。
いつぞやの中国での思い出が墨汁の様に滲み出す。中国にも桜はあったが耀は見かけると杏寿を抱き上げて花弁を近くで見せてくれた。
だが杏寿は桜よりも蟠桃の花が好きだった。
日本には蟠桃が街中や山林に植えられていない。故に蟠桃を昔の様に食することもできない。
「あの孝文さん」
「なんでしょう」
「蟠桃って庭に植えたいんですけど…どうかな?」
「蟠桃って桃ですよね?まあ、出来なくはないですけどよその国の花や木をうちに持ってくるまでが長いし大変なんでいつになるか分かりませんよ?」
「…ですよね~」
杏寿は再び外の景色を眺める。
耀と共に世界を旅した期間の中でも中国にいた時間はどの国よりも長い。耀の生まれ故郷だからという理由が大きい。
海を跨げば行くことのできる国ではあるが、それでも耀がいない旅となるとまた異国に行こうという気にはなれない。
今はただ、一人になりたい。柵や記憶の奥底に棲みついている恐怖から抜け出せるなら何でもいい。何も考えずに無邪気に耀と旅をしていたあの頃に戻りたい。そのためなら軍の犬にもなってやる。
舞い上がる桜を眺めながら杏寿は人差し指で首筋を掻いた。
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校舎へ続く桜並木には同級生がいるかと思ったが予想は大きく外れ、杏寿は一人寂しく歩いていた。
確かに実動部隊の方が人気で調査部隊の見習生になるものは少ないと事前に聞いていたが、誰もいないとは聞いていない。
これなら着いて早々に孝文と別れずに校舎まで付き添ってもらえれば良かったと小さく唸った。
満開の桜並木を一人で堪能するより、誰かと見上げた方が幾分か楽しい。孝文の場合は味のない感想しか言わなさそうではあるが。
刹那、吹き抜けた春嵐に交じって誰かの声が杏寿の耳に届いた。
低い音、風に飲み込まれそうなほど声は小さかったが杏寿の鼓膜に響いたのだ。
振り返ると天の川の様に白く輝く髪が風に泳ぎ、前髪から見える赤い瞳が杏寿を捉えている。
(綺麗な人だな)
だが見かけに反し、その人物が近づくにつれて少年とは呼べないくらいの背の高さに杏寿は絶句するしかなかった。
「そっち、調査部隊の校舎じゃないけど」
「え」
杏寿は向かっていた校舎を見た後、反対側にある校舎を見た後、再び少年の顔を見る。
背丈は百八十センチ以上はあるだろう。杏寿は日本人女性の身長の平均より高い方であり、誰かを見上げることはあれど首が痛くなることほどの人間に出会ったのは初めてだった。
驚いている杏寿に気づいた少年は目にも留まらぬ、速さで距離を開けてその場にしゃがみ込んだ。
今度は杏寿が見下ろす立場になってしまった。
「すまん、怖がらせた。悪意はない…です」
「怖くないです怖くないです!立ってお話ししましょう!」
「いや、でも…」
妙な距離が生まれ、杏寿も少年も困惑する。
同じ黒い背広、ということは同じ調査部隊の新入生なのだろう。
そこでふと杏寿は気づく。ここまで来るまでに誰にも出会わなかったのは間違った道を進んでいたからではないかと。
では間違えていると分かっていたのにわざわざここまで来て杏寿に声を掛けたのだろうか。
「校門からそれなりに歩いた気がしてるんですけど、どうして間違ってるって伝えに来てくださったんですか?」
「あー…恥ずかしい話、俺も道が分からなくて偶々見かけたアンタについていけばいいかなって」
「なるほど!途中で間違ってるってことに気づいて声を掛けたんですね!親切な人ですね、助かりました!」
杏寿は笑みを浮かべながら礼を言う。
やはり日本に帰ってきてから感覚が鈍ってしまった。後を付けられていることに気づけなかったなんて。
袖に隠してある万年筆に触れ、気を引き締め直す。
未だにしゃがみ込んだままの少年に歩み寄り、杏寿も膝を折ってしゃがむ。
互いに目線が交わり、杏寿は飛び切りの笑顔を浮かべた。
「栗花落杏寿です。あなたの名前を聞いても?」
「椿朔乃介。別にアンタまでしゃがまなくてもいいのに」
「えー?この方が話しやすいじゃないですか?それに互いの顔がよく見えます」
杏寿の発言にどう思ったのかわからないが朔乃介は小さく笑った。
浮かんだ笑みに杏寿は密かに安堵する。こちら側が警戒することはあっても他者から警戒される方が色々と煩わしい故に朔乃介から警戒が解かれたのは良い一歩だ。
「ところで朔乃介さん」
「…はは、近っ」
「何か不都合ありました?」
「今のところ無いからいいや。そんで何?」
「本来行くべき校舎への行き方って分かりますか?」
「確証はないけどさっきまで向かっていた校舎じゃない校舎に向かえばいいはずだから…来た道を引き返せばなんとかなるかも」
「ではそうしましょう!行きましょ!」
膝を伸ばして杏寿は立ち上がり、朔乃介も立ち上がるように促す。
世界を巡っていたころは友達を作ると別れるときに悲しくなるため、友達という存在を作らないようにしていた。
だが今はそんな制限もない。
少し話しただけで友達と呼べるかどうか判断はつけられないが、杏寿にとって大きな成長だ。
見習生ではあるがそこらの女学校に通う守られるだけの少女じゃない。
その事実が杏寿は何よりも嬉しかった。
「随分楽しそうに見える」
「当り前じゃないですか!新しい一歩目に朔乃介さんに出会えたわけだし!」
「…俺もアンタみたいな人、初めてだよ」
「なら初心者同士、仲良くしてください!アハハ!」
時代は大正二十六年。
日本はスイスに続いて第二の永世中立国として世界に宣言し、先進国として注目されている。
世界各地で燻る大戦の火種を跳ね除け、独自に科学と文明の発展を遂げていた。
そんな日本に一年前から住まうは栗花落杏寿は満開に咲き誇る桜の木々の中を朔乃介と共に歩く。
今もなお、都市開発が進む帝都で桜は唯一残った日本の遺産である。
二十年前から帝都を中心に赤煉瓦の建物は次々取り壊され、銀色の高層ビルが立ち並び始めている。車が走り、洋服を着た老若男女が道を行き交う。
そんな中で進む時代の中、杏寿の心は未だアメリカに置いたままだ。




